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秋田史まとめ7

2013年08月02日 | 暇人の無駄知識
湊城

十三湊から出羽にきて湊城を建てたとされる安東鹿季だが、「秋田家系図」には、
十三湊の盛季が弟鹿季に二百騎を従えさせ、秋田湊を討たせたとある。
しかし、南北朝中期の延文二年(1357)の「石橋和義奉書」には当時男鹿半島に
安藤孫五郎と安東太という二人の領主のいたことが記されている。
この両者はそれぞれ南北朝方に立って争ったものであるが、結局は北朝方の安東
太が勝利したらしい。要するにこの史料は安東・安藤を名乗る領主が男鹿に定着し
ていたことを物語っている。
もう一つの史料は、「市川湊文書」に含まれている当山古来棟札で、それには男鹿
の本山を修造した湊安東家の武将として様々な名前が登場する。
そのほか、延徳三年(1491)六月、湊二郎宗季が男鹿半島南岸の増川に八幡神社
を建立したという棟札や、大永四年(1524)八月に、湊知季が椿・双六両村の境界
争いを裁定したという史料も残っている。
湊城の築城は明治期の書物『秋田沿革史体制』には、永享8年(1436年)に安倍
康季が将軍野の西北に築いたとされており、これは寺内後城のことではないかとの
説もあり、将軍野の西北とすれば穀丁の可能性もある。
いずれにしても、安藤や安東、湊や安倍などの苗字を始め、男鹿や寺内、穀丁など
後々書かれたとされる資料ではあいまいなところが多く、正式な城としての役割を
持っていたのかさえ疑問視される湊城は確定できる資料にとぼしい。

近年の発掘調査によると北の穀丁から茶臼が出土し、南の後城跡地からかわらけ
が出土している。
茶臼は茶室で使う物であり、茶室の本来の目的は戦略の密談に使う場所。
また、かわらけとは固めの杯として交渉成立の約束の契りをかわすために注ぎあっ
て飲み干して割るという素焼きの杯。
その出土品からみて穀丁や後城が戦略的な場所で湊城は居住区だった可能性が
高いようだ。
城としても城壁などはなく、山側に二重だったとされる堀が北の二の堀までで、
海側は湿地帯だったという。

檜山城

下国家は康季の跡を継いだ義季が南部氏と戦い敗れて戦死したため、津軽下国
家は断絶。一族から政季が入って再興し、津軽に近い出羽国河北を本拠とし、基
盤を確立するために、米代川を通じて隣接する陸奥国比内・阿仁方面に軍を出し、
勢力拡大に努めた。その最中の長享二年(1488)、河北糠野城で敗死した政季の
あとを受けた忠季は、明応四年(1495)檜山の地に大規模な築城を行った。
河北の地は檜山と改称され、忠季のあと、尋季-舜季-愛季と檜山城主領として
継承された。


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