土崎の発展に尽くした方として小牧近江の名前を挙げた。
1894年(明治27年)5月11日 - 1978年(昭和53年)本名:近江谷駧(おうみやこまき)。
現在の秋田市土崎港)生まれのフランス文学者、翻訳家、社会科学者・社会運動家。
法政大学教授。
第1回万国議員会議に出席する父に連れられてフランスに渡り、パリ大学法学部入学。
小説家アンリ・バルビュスの「クラルテ運動」に共鳴し、反戦運動に参加。
金子洋文らと『種蒔く人』を創刊。
無産階級文化運動に従事し、戦時中はフランス領インドシナで民族解放運動に関わった。
金子洋文(かねこ ようぶん、1893年4月8日 - 1985年3月21日)は、プロレタリア文学
の小説家、劇作家、日本社会党参議院議員。
今野 賢三(いまの けんぞう、1893年8月26日 - 1969年10月18日)は、プロレタリア文学の作家。
プロレタリア文学として『種蒔く人』の発行が有名なだけで、彼らが土崎港の発展とは
直接関係ないんだな。
何と言っても土崎港の発展に多大な貢献した人物と言えば近江谷栄次。
小牧近江の父なんだ。
近江谷 栄次(おおみや えいじ、1874年1月20日 - 1942年6月8日)は、日本の実業家、衆議院議員。
私財を投じての秋田港改修工事は、13年かかって1902年(明治35年)に終了。
改修後の港は近江谷が招請した廣井勇にちなんで「廣井波止場」と名づけられたが、
「近江谷波止場」とも呼ばれた。
1896年(明治29年)、旧秋田銀行の設立に参加。
1901年(明治34年)には、秋田県で初の火力発電所(近江谷発電所)を現在の秋田市立
土崎南小学校の位置に建設。
1908年(明治41年)に操業開始した国鉄の工場(現在の秋田総合車両センター)の誘致では、
自家所有地3万坪を無償提供した。
1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙に秋田県郡部区から出馬して初当選し
2期務めた。
1910年(明治43年)、ブリュッセルで開催の第1回万国議員会議に出席。
1916年(大正5年)、土崎港町長となる。
その他、1917年(大正6年)に土崎幼稚園を創設している。
土崎港(現秋田港)の開発を称える石碑がセリオンの近くに建てられている。
近江谷栄次、刈田義門、金子為吉を讃える石碑
秋田県知事小畑勇二郎となっており、昭和51年7月20日。
「井堂近江谷栄次翁は独特の先見性をもって地方文化の開発に破天荒の貢献をなし
殊に築港問題には身を挺して当り土崎湾頭に廣井波止場を実現させる等秋田に青年
近江谷ありの名を馳せた。刈田義門翁は港の近代化を志し要路に熾烈な運動を展開
して遂に大願成就昭和3年8月20日盛大な土崎築港起工式を挙げた。金子為吉翁は昭
和4年濱口内閣の緊縮政策によって築港工事が打ち切りとな」(後半へ)「り全町が
憂色に包まれた時幾たびか上京して其復活に協力した。嗚呼三翁は既に亡き数に
入ったが秋田港の今日をあらしめた翁代々の土崎人情は我が郷土に不滅の光芒を
放ち続けるであろう」
と書かれているようだ。
そこで栄次が行った港湾工事というものがどんなものだったのか。
浅い岸壁を掘って大型船も入港できるようにしたという話は昔から聞いたことがあるが。
一番気になるのは、以前天保国絵図のころ描かれている「日本海に突き出た岬」が
いつなくなったのか。
昔の書物には資料として書いてあるんだろうけど、古い本を買うとか図書館に行って
調べるとか、そこまでやるつもりもないし。
ネットで検索できる範囲が俺の世界。
だから「土崎」の地名の由来とされる「日本海に突き出た砂の岬」は栄次の港湾開発で
削っちゃったのではないかと。
時代的に考えてもそころこから地図上になくなってるし、地殻変動で沈んじゃったとも
考えにくいんでね。
そこらへんに詳しい方求む。
1894年(明治27年)5月11日 - 1978年(昭和53年)本名:近江谷駧(おうみやこまき)。
現在の秋田市土崎港)生まれのフランス文学者、翻訳家、社会科学者・社会運動家。
法政大学教授。
第1回万国議員会議に出席する父に連れられてフランスに渡り、パリ大学法学部入学。
小説家アンリ・バルビュスの「クラルテ運動」に共鳴し、反戦運動に参加。
金子洋文らと『種蒔く人』を創刊。
無産階級文化運動に従事し、戦時中はフランス領インドシナで民族解放運動に関わった。
金子洋文(かねこ ようぶん、1893年4月8日 - 1985年3月21日)は、プロレタリア文学
の小説家、劇作家、日本社会党参議院議員。
今野 賢三(いまの けんぞう、1893年8月26日 - 1969年10月18日)は、プロレタリア文学の作家。
プロレタリア文学として『種蒔く人』の発行が有名なだけで、彼らが土崎港の発展とは
直接関係ないんだな。
何と言っても土崎港の発展に多大な貢献した人物と言えば近江谷栄次。
小牧近江の父なんだ。
近江谷 栄次(おおみや えいじ、1874年1月20日 - 1942年6月8日)は、日本の実業家、衆議院議員。
私財を投じての秋田港改修工事は、13年かかって1902年(明治35年)に終了。
改修後の港は近江谷が招請した廣井勇にちなんで「廣井波止場」と名づけられたが、
「近江谷波止場」とも呼ばれた。
1896年(明治29年)、旧秋田銀行の設立に参加。
1901年(明治34年)には、秋田県で初の火力発電所(近江谷発電所)を現在の秋田市立
土崎南小学校の位置に建設。
1908年(明治41年)に操業開始した国鉄の工場(現在の秋田総合車両センター)の誘致では、
自家所有地3万坪を無償提供した。
1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙に秋田県郡部区から出馬して初当選し
2期務めた。
1910年(明治43年)、ブリュッセルで開催の第1回万国議員会議に出席。
1916年(大正5年)、土崎港町長となる。
その他、1917年(大正6年)に土崎幼稚園を創設している。
土崎港(現秋田港)の開発を称える石碑がセリオンの近くに建てられている。
近江谷栄次、刈田義門、金子為吉を讃える石碑
秋田県知事小畑勇二郎となっており、昭和51年7月20日。
「井堂近江谷栄次翁は独特の先見性をもって地方文化の開発に破天荒の貢献をなし
殊に築港問題には身を挺して当り土崎湾頭に廣井波止場を実現させる等秋田に青年
近江谷ありの名を馳せた。刈田義門翁は港の近代化を志し要路に熾烈な運動を展開
して遂に大願成就昭和3年8月20日盛大な土崎築港起工式を挙げた。金子為吉翁は昭
和4年濱口内閣の緊縮政策によって築港工事が打ち切りとな」(後半へ)「り全町が
憂色に包まれた時幾たびか上京して其復活に協力した。嗚呼三翁は既に亡き数に
入ったが秋田港の今日をあらしめた翁代々の土崎人情は我が郷土に不滅の光芒を
放ち続けるであろう」
と書かれているようだ。
そこで栄次が行った港湾工事というものがどんなものだったのか。
浅い岸壁を掘って大型船も入港できるようにしたという話は昔から聞いたことがあるが。
一番気になるのは、以前天保国絵図のころ描かれている「日本海に突き出た岬」が
いつなくなったのか。
昔の書物には資料として書いてあるんだろうけど、古い本を買うとか図書館に行って
調べるとか、そこまでやるつもりもないし。
ネットで検索できる範囲が俺の世界。
だから「土崎」の地名の由来とされる「日本海に突き出た砂の岬」は栄次の港湾開発で
削っちゃったのではないかと。
時代的に考えてもそころこから地図上になくなってるし、地殻変動で沈んじゃったとも
考えにくいんでね。
そこらへんに詳しい方求む。
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