数学教師の書斎

自分が一番落ち着く時間、それは書斎の椅子に座って、机に向かう一時です。

文系・理系

2020-12-09 16:39:33 | 読書
 この「文系・理系」という言葉は、高校現場や受験現場では常に飛び交う言葉ですが、私が高校生の頃から存在していて、今も当時とニュアンスも変わらない、こんな言葉というかフレーズも珍しいように感じます。

 そして、おそらく一般的には、高校2年生から今は文系理系に分かれた選択科目が登場してくるのですが、ほとんどの進学高校はそうではないでしょうか。
 私の高校時代は、確かに文系理系の選択科目はありましたが、それは高校3年生からで、しかもクラス編成は文理混合のクラス編成でした。当時は1期校・2期校の時代でしたが、その後共通1次、センター試験の時代になり、クラス編成も今のような高校2年生から文理別で、2年生から選択科目が入りようになりました。日本では文理は受験現場からにその起源はあるようですが。

 さて、今年度からは、センター試験から名称が共通試験に変わりました。内容的には、指導要領が変わったのでもないので、名前は変える必要もないのに、英語の民間試験の活用や、国語・数学の記述問題の導入が動き始めて、その後頓挫したものの、名称を含めてそれらの残骸が残った試験名称とも言えます。教育現場、受験現場からは、大きな迷惑以外の何物でもない感じです。

 忖度という言葉の意味が、最近ほど強く意識された時代はこれまでなかったと思います。実は、教育現場では特に義務教育現場では、これまでも、御用学者と言われる教育学部に居座る教育学者が、文科省のあたかも伝達者のような振る舞いを続けていたことは、意外にも現場以外の人には見えてこなかったようです。

 ところが、族議員と言われる政治家が教育の現場でも現れて、民間の教育産業と癒着した構図が現れてきたのも、規制改革の一つの負の遺産とも言えます。

 大学受験に手が伸びる前に、既に小中の学力試験という全国規模のテスト診断を民間の特定の業者は業務委託して、その延長線上に大学入試のセンター試験での英語民間テストの活用につながってきました。名前を変えることで試験の内容も変えるチャンスと考えられたと推察されます。本当にこの国はどうなっていくのかと。ついつい愚痴をこぼしたくなる自分がいます。

 さて、私と同じ時代の青春を送った物理学者と官僚の対談の本を最近ジュンク堂で手に取り、帰りの列車の中で読みました。
 内容は「タコ壷」と称する日本社会の構図を聞き慣れた「文系・理系」というフレーズの切り口で眺めるという内容です。自分たちは、文系理系ともよくできた人間であるという自負がどこかにあって、それをよりどころにした対談とも取れそうな気はしますが、著者たちと同じ時代に青春を送った私から見ると、著者たちの「麻布中高」だけでなく、私の通った地方の公立高校でも同じ校風が存在していたことをこの本を通じて強く思い起こされました。この対談の背景には、次の本の影響もあると考えられます。
この本は、科学史・社会史・思想史を「文系・理系」というフレーズで色分けしながら眺め直した感がします。

 前者の本を読みながら、読者は、そんな切り口を自らの学びや職業の経験の中で洗い出すと、意外にも誰しも共感するところが多くあることに気がつく。そして、誰しも経験した自らの学校教育を今だからこそ、振り返ることができるといえるのかもしれない。

 読者が自由に考えられる、振り返ることができる場を提供してもらった気がします。こんな内容をお互いが語れる時間は大切にしたいものです。