皮膚感覚として、1968年前後の学生運動のことは記憶に残っているものの、60年安保に関しては、そのような皮膚感覚は全くなく、かすかな残像ともいうべき映像からかすかな記憶の霞の向こうに何か残っている感覚しかありません。今回はその60年安保に関する生の声の持ち主からのこの本です。
さて、夏になると歴史物を読む癖があり、その中でも近代史の中の政治史や中中世史の中の文化史が私の興味の対象です。さらに最近は、昭和史に関して、特に戦後史について、自分も歳をとるに従って、記憶だけに頼るのではなく、文献を読むことで記憶の脆弱性を補強してみようと思うようになってきています。
私自身の一番多感な時期の1968年前後の学生運動の皮膚感覚を残しつつ、その前の60年安保について、この本を読むことでその特徴を、ある意味著者の転向的な視点からの冷静な記録としての、そしてまた当事者としての皮膚感覚の感触を感じてみたくなりました。
1968年の学生運動の全共闘世代の指導者のその後と60年安保の全学連の指導者の違いはその後の生き方そのものも大きく違うことが見て取れます。
以前、日経新聞の「私の履歴書」に経済学者の青木昌彦氏の文章が連載され、氏の60年安保での指導的な立場とその後の大学教授としての生き方に1968年の全共闘世代の指導者の山本義隆のその後を比べて、8年の時間的な隔たりとその後のそれぞれの指導者の生き方における大きな差に驚くとともに、なぜそんな大きな隔たりが生じたのかという積年の疑問ともいうべき、自分の思いから、すぐにこの本を手に取り読み始めたのでした。
1968年の学生運動の指導者に対する印象について、私にもある、その時の皮膚感覚からするとその運動は、社会からドロップアウトしての人生が伝わってきていました。であるがゆえになぜ60年安保の学生指導者達は?
この疑問に答えてくれる言説は私の皮膚感覚を半分頼りにして、頼りにできるからこそ、自分で読み解いていくしかないと思っていました。
ある意味それに答えてくれたのがこの書物です。社会全体がその学生運動に理解と共鳴、そしてある意味協調できた60年安保の背景を理解しなくてはいけない。それをこの本から自分なりに読み解けたと感じました。自分で読み解けたことが大切だと読後に思えたことで印象に残る本です。
氏の本では10数年前に公立高校の管理職をしていた頃読んだ本として、
があります。この本も、もう一度読み返してみたくなりました。また、自分の1968年の皮膚感覚を確認したくなりました。それを助けてくれる本を読んでみたい今日この頃です。
数学史でも人物史を中心に描かれた本はある意味入門的であり、読みやすく印象的ですが、歴史でも同じことが言えるかもしれません。しかし歴史と言っても近代史、それも昭和後期の近代史でのトピック的な60年安保を振り返る時に、この本の記述にある人物史的な記述は、貴重とも言えるのではないでしょうか。今も存命のあの人物がそうだったのかとある意味新鮮な気持ちにさせてくれるとともに、その人物の今を形作るその組成を見せた頂いた気分になります。