花魁文化を追っかけ、浄閑寺(じょうかんじ)に来ちゃいました。
花魁シリーズ1回目はこっちをみてね↓
「生れては苦界 死しては浄閑寺」
これ、花又花酔が吉原の遊女を詠んだ有名な川柳ですね。
↓浄閑寺にある詩碑で、遊女たちの悲しい人生を詠んだ句です。
浄閑寺は、吉原遊郭の北約500mに位置し、遊女の投げ込み寺とも言われ、新吉原廃業までの約380年間、病死した者や大火や震災で焼け出された数千の遊女の躯が捨てられた場所です。
吉原って実際どこだっけ?って方も多いはず。
↓ここね。赤丸が吉原。そこを中心に南が浅草寺、北に浄閑寺があります。
遊女の運命は、人として扱われず、自由になるには年季(借金返済)明けか、身請けか、死しかありませんでした。生きて大門を出れる幸運な女性はほんの一握りで、大多数が現役のまま病死したり、引退後も妓楼で使いつぶされてゆきます。
ドラマ「仁JIN」でもあったように、回復見込みのない病を発した遊女は、妓楼の奥にある日も差さない暗く湿った部屋に隔離され、衰弱し、無慈悲な最期を迎えるのです。
遊郭は高壁に囲まれ逃げ道は無し、掟に縛られ命を削り生きる日々、彼女たちのメンタルはいったい何で保たれていたのでしょう。
そしてここ浄閑寺は、知る人ぞ知る、吉原最高の花魁とうたわれた「若紫」の墓がある場所です。
22歳の年季明け直前、狂人の暴行により悲劇の死を遂げ、その様があまりにも不憫で、喪明けを待ち楼主や馴染み客有志たちが建てた墓です。当時、花魁が墓を持つことは異例な事でした。
若紫の人気はすさまじく、多くの金持ちたちが大金を積み身請け話を持ち掛けます。しかし、若紫は一切拒否、客とは別に恋仲だった青年との約束を守り通します。
17歳で花魁となり5年が経過、そして年季明けまであとたった5日の日に事件は起きます。若紫とは関係のない他楼の客が、好みの花魁との無理心中に失敗し気がふれた状態で楼に乱入、男衆の止める隙も無く、たまたま近くにいた若紫に襲い掛かり、隠し持っていた短刀で喉元を突きさし大量の出血、禿や男衆が傷口を押さえるも効かず、若紫は血の海の中で絶命したのでした。
遊郭に身を沈める前、わずかな期間に自由な女性として生き自分の意志で決めた許嫁、苦海を乗り越えそれが成就する直前の出来事。。金でなく魂で結ばれること、それは他の遊女たちの夢でもあり、吉原では各妓楼の枠を超え、客も遊女も皆がこの悲劇を偲び、49日に忌日に墓が建立されたのでした。
花魁は時代ごとにその時代を代表する一世風靡的な太夫がいました。その中でも若紫がNo.1(各論あり)と称される理由は、美貌や才覚はもとより、人間性や器量が遊女にあらず、誰にでも優しく、その成りは天女の化身とまで言われ、自然体のオーラが半端なかったところです。
おいら、この「存在自体が神的な人間」の類に異常な興味があります。作られたものではなく、まるでブラックホールの如く強烈な引力で周囲の空間を完全制圧しちゃう無敵のアレです。もはや五感で語れない異次元の存在。
若紫もそれなのか?
こりゃ行かなきゃ!ってことで訪ねてみました。
あー、前振り長かった!(疲)
地下鉄日比谷線、三ノ輪駅を出てすぐ、明治通りの裏側にありました。
山門をくぐり管理室を訪ねると、寺の案内書が頂けます。
本殿裏の狭い土地に多くの墓が並び、最初に出会うのが目指す若紫の墓でした。
↓若紫の墓
丁度清掃中で、寺の職員なのか、綺麗な献花とお水かけの後でした。
聞くと職員ではなく、ボランティアでここを維持する近所のご老人でした。いくつか会話をしましたが、、大事に大事に手入れする姿には、若紫!いつまでも美しくいてくれ!、と、その想いがにじみ出ていました。
うん、おらも同じだ。墓石に手を置き深く心で唱えました。
この若紫の墓、独特な何かを感じます。理系なおいらはなんちゃらパワーとかスピリチャル系は全く無縁ですが、何か若紫が目前で呼吸しているような生々しさを覚えます。彼女に触れているような感じが、偲ぶ供養ではなく、時間を超え今を共有してるような妙な喜びを感じるのです。
たぶん先のご老人も同じなんでしょう。
若紫、死してなおも世の花なり!
このオーラに包まれるような幸福感・・・できれば毎週通いたい!
↓おらの後の訪問者(歴史家風の綺麗なご婦人でした)
じっと立ち止まり何かを語りかけているようでした。
さて、当時の写真が残ってます。
↓若紫、明治34年、20歳の頃
↓若紫が居た角海老楼(着色再現)
若紫をはじめとする高級花魁と席を持つには、現在価値換算で最低でも1席200万円程が必要で、3度通って初めて馴染みになれる世界でした。更に身請けともなれば金額は軽く億を超えたそうです。
試しに2日1回の客取稼働として計算しても、年間約3億円以上を売り上げるわけで、標準的な10年の年季を務めあげれば累計売上30億を超えることになります。年季期間は借金額と人気度により変わりますが、当時は大名や皇族までもが競って身請け合戦したわけで、高級花魁のブランド料は天井知らず、若紫は角海老楼のドル箱だったわけですね。
(しかし前述の通り、若紫は身請けを拒否、遊女になる前の彼氏との約束を固く守り通します。楼主は身請けさせれば巨額が得られるにも関わらず、若紫の人間性と生き様に惚れ、想い人と一緒になる彼女を祝福しました)
若紫の名の由来は光源氏が溺愛した少女の名です。
源氏物語のヒロイン程の美貌と風格があったってことなんでしょうね。
↓現在の浄閑寺山門前。手前が吉原方向。
この道を来て寺に投げ込まれたのでしょうか。その数、数千。。安政、大正の震災時を含めるとなんと2万五千!(浄閑寺資料より)。現在のように整備される前は、粗末な土盛りの墓に線香や塔婆が立ち、地面からは遊女や被災者の人骨が覗く情景だったそうです。当時の住職の記録には、共同墓穴に鯖詰め埋葬した無数の遺体からリンが出て青白く光ったともあります。
遊女たちの遺体は、あるものは板車に乗せられ、あるものは畜生と同じ逆さ吊りにされここに運ばれ、処分代の僅かな小銭と一緒に深夜ひっそりと門内に置かれます。
毎月、浄閑寺に投込まれる遊女の数は約40人。年間500人に及びました。
寺に残る過去帳には、その年齢も記されていて遺体の平均年齢は22歳。一般に27歳から30歳が年季明け年齢ですがそこまで生きれるのは稀で、この短命が吉原がいかに苦海だったかの証でもあります。
↓新吉原総霊塔
吉原の遊女たちの供養塔として建立されたものです。
寺にはここに入った遊女たちの名前や出身を記した10冊の分厚い過去帳が現存します。1743年から1926年まで約200年間分、、その中には他の遊女たちと変わりなく、誰が偲ぶぞ若紫の戒名と本名も小さく記されているのであります。。
花魁は色恋を操る遊女とは言えど、馴染み相手には苦や悲しみを共有し心魂を預ける客も複数いたはずです。
その意味で、彼女達は既に一人の個ではなく、複数の魂を維持しながらも決して安物の風見鶏ではない、芯があり、頑丈で特殊な才能の持ち主だったのかもしれません。俗世を命がけで渡るからこそ本質が見える。現代のチャラチャラ風俗嬢たちとは決して一緒にしてはいけません。
花魁の所業、、
それは単なる一夜のまやかしなのか、それとも真実のパラレルワールドなのか、、この危ない壁の先をもうちょっと探求してみようと思います。
合掌!
(^^)/