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いつか元気になぁ~れ♪

ある日の突然の体調不良。
そして突然見つかった脳動脈瘤。術後元気になるまでの日記。
そして新たに息子と私の日記。

全てに前向きに!

2008-05-30 | てんかん
「今日ね。野球部の顧問の先生に俺の病気の話し、話していいって言ったよ!薬も飲んで倒れてないし、先輩たちとも少しだけ距離が縮まったしね。大丈夫だよ!野球部で頑張りたいしさ!」

先生方に話してから2週間。息子は吹っ切れた様な笑顔をして話してきました。

「大丈夫なの?」私は心配顔。。。

「大丈夫だよ!なんとかなるさ!もう倒れないような気がする!」

春の試合が終わった頃、野球部の部員全員の前で、息子の話をしたそうです。

話をした後の帰宅した息子が、
「今日、話したよ!先輩達も受け入れてくれたし、すごくほっとしたよ!帰るときに頑張れよ!って言ってもらったり、困ったことがあったら相談しろよ!って言ってくれたり、すげ~嬉しかったよ!話して良かったよ!中には頭触って大丈夫なのか!触ったりしていると倒れるのかって頭をコツコツ触る先輩がいて笑い話にされちゃったよ!」

私はその笑い話の内容を聞いて、多少ショックを感じていました。
「そんな事されて、傷つかないの・・・」

息子は大笑いで答えました。
「そんな事位で、傷ついてたら部活なんて出来ないよ!気にしない!前から思っていたけど、母さんは心配しすぎ!そんな事で傷つくなんて弱すぎだよ!」

中学校の部活とは全く違う、高校の部活の中で随分成長した息子を感じました。
そして、全てに前向きに向いている息子の言葉で、私の足りない部分を感じました。
・・・親として恥ずかしいです。。。(トホホ・・・)

前回倒れてから1ヶ月も過ぎ、薬が合っているのか倒れる事もありません。
来週診察に行きます。
もしかしたら、すご~く良くなっているのではなどと期待心を持っています。
昨日から学校の送迎も終えて、自転車での登校も始めました。
登下校時に倒れたらどうしよう・・・などと心配は尽きないのですが、
いつまで心配していても・・・と本人に任せてあります。

本当に親も子供と共に成長していくものなのですね

無事入学♪

2008-05-30 | てんかん
倒れてから、進学する高校へどう説明していいのか分からず、悩んでいた。
いつ倒れるか分からない発作。
説明しなくては・・・。

倒れた状況を息子に話したら、元気なくつぶやいた・・。
「部活辞めなきゃだめかな・・・」
野球が大好きな息子が、寂しそうに聞いてきた。
「辞めなきゃだめなら、内緒にできないかな・・・」
「野球。続けたいんだよ・・・」

息子の中学校の先生に相談してみた。
中学校の先生は、息子の倒れた状況を聞いて驚きながらも、色々と助言してくれた。おまけに知り合いの高校の先生にも相談してくれて、連絡をくれた。

「3人の高校の先生に尋ねてみましたが、どの先生も学校に入学を取り消すとか、部活を辞めさせるとかないそうですよ。だから大丈夫です。今の状況を分かる範囲で学校側に説明しておけば、大丈夫ですよ」

すぐに進学する高校へ電話をして、息子の体の状況を話した。
詳しい内容は入学式の後で・・・という事になった。

心配の中、無事入学式を終了。
入学式の後、担任の先生、保健の先生、野球部の顧問の先生、学年主任の先生達に息子の体調の話しをしました。
全ての先生方が了解してくれ中、野球部の顧問の先生は少し困り顔。
それは、当たり前である。
スポーツだけに、倒れる場所や状況によって大きな怪我に繋がることもあるのだ。
野球部の先生に、
「本人の強い希望です。今はまだ発作の回数がこれから多いのか、それとも薬によって発作を止められるのかはまだ分かりません。ご迷惑を多大にお掛けする様になれば、退部致しますが、今はどうか様子を見て頂けないでしょうか」
少し無理なお願いをした。

数分考えてから、先生は
「本人の希望なので、了解致しました。でも倒れる状況、そういう病気を持っていることなどは、部員全員にお話していいですか。それを了解して頂かないと困ります。倒れた時に処置するのは子供達のケースも多いのです」

私は、
「分かりました。本人にその旨は伝えます。話していいかどうかは本人からお返事させます。宜しくお願い致します」

退部ということは無く、また学校側も快く息子の状態を受け入れてくれた。
当分学校への送迎は、私が車でする事になったが・・・。

部活を終えて、疲れきって戻ってきた息子に先生方の返事を伝えた。

「・・・そうか。部員全員に話すんだ。そうだよね。少し考えてから答えを出していいかな・・・」

思春期の息子。そんな自分の事を話されるのは色々な心配や決断があるのだろう。

「顧問の先生も、少し考えて・・・と言ってたから大丈夫だけど、長い期間考えるのは無理だよ。でも焦らず、よく考えて・・・」

本当は入学式を迎えた夜なんて、これからの楽しみに胸を躍らせている時間だろう。

「まっ!色々とあるけど、とりあえず無事入学!これから頑張ろうよ!」と
少しだけ笑顔でこれからの未来に乾杯♪した



我が家のワンコたち♪

2008-05-29 | 日々のつぶやき
今日のワンコじゃないけど、娘の誕生日カードに印刷するため我が家のワンコたちの写真を取りました。

我が家には3匹のワンコたちが仲良く暮らしています。


長女のレディ・・・7歳。今年乳がんが発見されて手術を受けました。がん検診は欠かせない年頃になりました。息子が拾ってきた捨てワンちゃんだったのです。


次女のチョビ・・・6歳。眼が開くか開かないかの小さな小さなワンコを息子が拾ってきた捨てワンちゃんでした。3時間おきにミルクを飲ませ育てた娘?恥ずかしがりやさんで甘えん坊です。


三女のアリー・・・3歳。ダックスフンドです。とても小さな体をいつも元気に動かして元気なちびスケです。自己主張がうまい娘です!

手形もうまく取ってと努力してみたのですが、取れたのは三女のアリーだけでした。。。
1人暮らしの娘に送った誕生日カードはこのワンコたちの写真で涙無しでは見れなかったようです。
娘はこの3匹のワンコたちが宝物で、このワンコたちのため自分の生活を節約しては、新幹線に乗って頻繁に帰宅して来ます。
誕生日なのに、今回ばかりは帰ってこれなかったのを寂しがっていました。
(大学が試験中だったらしい・・・)

去年は私の手術で、お祝いどころじゃなかったし、今年はゆっくりとお祝いをと思っていたのですが、試験勉強でそれどころじゃなかった様子。

娘のためにも今日のワンコ!てな具合にワンコの事もブログに載せたいと思います。

よろしくでワン♪

↑すっかり写真撮られ疲れした長女です・・・

脳動脈瘤18

2008-05-29 | 脳動脈瘤
北海道の旭川は今では私の里のような場所になりました。

手術をして下さった上山先生は偉大な「父」のように思っていますし、入院中主治医として観察してくださった、上山先生のサブの先生は尊敬する「兄」のように思います。(相手の方には迷惑かもしれませんが・・・)

そして、旭川赤十字病院の入院中の看護婦さん達の温かさ、思いやり。
遠い地に1人で入院していた私は、この方々のお心遣いに寂しさなど感じないで、安心して入院生活を送れました。

本当に感謝の気持ちで一杯です。

だから診察に旭川へ行くのは、「里帰り」です。

私を助けてくださった上山先生方は、今日も沢山の「命」と向き合って戦っているのでしょう。
その姿を思うだび、ほんの少し体調が悪くても、私も頑張らなきゃという気持ちを持ちます。

開かなかった左瞼は半年の時間を要しましたが、数ミリづつ、数ミリづつ開き始め今では、ぱっちり(そんなに大きな眼ではありませんが・・・)開いています。
見え方は斜視になったり、黒ずんでいるところがあったり、見えにくかったりはありますが、大好きな洋裁も編み物もできます。

頭の働きは、前と比べると随分劣りますがそれは年のせいかもしれません

なるべく全ての事に前向きに!!という気持ちになれます。
そういう気持ちを持てるのは、私の大きな転機の時に出会えた方々のおかげです。

そして今病気を抱えてしまった息子を見守れるのも、手術を全力で協力して下さった病院のスタッフの方々のおかげです。

もし違う出会いだったら、もしこの病気が発見されなかったら、今の息子を支える事もできなかったかもしれません。

数ヶ月の戦いは全ていい方向に向くための戦いだったのでは・・・と思います。

今年の元旦に息子の友人のお父さんがくも膜下出血で亡くなったと連絡が来ました。
元気だったのに・・・と息子は驚いていました。
私も同じ病気だったのです。
発見されなければ、私も同じだったはず。
「生」と「死」
何処が分岐点だったのだろうか・・・。
どう考えても分かりません。

分かりませんが、色々な迷い道の果てに出た答え。
「生」という答えにこれかも頑張らなくてはと思うのです。

こんな私に出来る事は何だろう・・・。

病気の方の力になれることがあれば、嬉しいです。
私も力を貸してもらったから・・。
そう思ってこの脳動脈瘤のブログを書きました。
同じ病気が見つかって、悩んでいたり、手術ってどうなんだろうと悩んでいる方の少しでも力になれれば嬉しいです。

手術後頭の回転が悪いので(?)うまく文面を綴る事ができなくなりました。
だから、読んでくださっている方にうまく伝える事ができなくて、ごめんなさい・・・。

術後1年。
元の私の様に元気!ってな具合にはなりませんが、こんな風にブログを綴れるのは元気な証拠ですよね♪

テレビで上山先生を見るたび、
「先生私も頑張らなきゃね!」と励まされます。

今年の手術日は私の新しい誕生日と美味しいワインで乾杯しました。

・・・ありがとう上山先生。
・・・ありがとう瀧澤先生。
・・・ありがとう旭川赤十字病院のスタッフの方々。
そしてこの病気を見つけてくれた先生。心配してくれて力になってくれた会社の方々。検査をすぐにしてくれた先生。

無事1年目を迎えました。

本当にありがとう。
これかも







脳動脈瘤17

2008-05-29 | 脳動脈瘤
左の瞼はピクリとも動かない。
右目だけでの生活。

この動脈瘤が見つかった時から、どの先生も「失明は避けれないかもしれません」と言われていた。
失明したらどうなるのだろう・・・と左目は覚悟していたが、まさか瞼が全く開かないなんて・・。

顔を洗いながら鏡で自分の顔を見て、ほんの少しショックでした。
入院中眼科にも毎日通院。
無理やり開けて、視力を測っても、光は感じるが物が判別できるような視力はない。

頭の回転も随分ゆっくりになった。
同じお部屋の患者さん達と話すとき、緊張感を持って、自分の頭の中で意識しながら話さないと、何を話しているのか分からなくなってしまう。
患者さん達はみんな動脈瘤で手術しているのだが、何処が悪かったの?と思うほど元気だった。
動脈瘤の大きさも皆さん数ミリだったからだろうか。

感覚のおかしい感じ、考えるという頭の中のおかしな感じ。
右目だけしか使えない違和感よりも、頭の中身の変化に戸惑った。

私っておかしい?と尋ねる家族もいないし、その感覚を話すという言葉も浮かばなかったのだろう。

とにかく入院中は他の患者さんのように元気に、普通で居なきゃ。と緊張感を忘れなかった。
今思うとおかしな話。
だって、退院して1ヶ月で旭川へ診察に行ったとき、上山先生に勇気を出して聞いてみた。
「先生、私少し頭の回転が悪くなったようなんですが・・・」と相談したら、
「ううん~良くなってるよ!入院中の顔と今の顔はぜんぜん違うよ!入院中はちょっとおばかさんになっちゃったんだよな~!(大笑)」

先生方は私が少し変だったのが分かっていたのです。
だから退院したいと言った時、上山先生のサブの先生に変なテストをされたのだ。

まだ退院してはいけないないと言われているのに、どうしても帰るという私に、その先生は6個の小物を並べて、私の見ている前で机の中や自分のポケットなどにそれらをしまいました。

「さて、今の小物は何処にしまったか言ってごらん・・・」

私は3つしか言えませんでした。

「だめだよ。まだ退院できないよ」

それでもどうしても帰らなければならないと思っていました。

私の手術の5日後に中学3年の息子が体育祭の練習中、4段ピラミットのてっぺんから落ちる事故がありました。
頭から落ちて、右側の顔、眼などに大きな傷を覆い入院騒ぎがありました。
私は入院中です。
家族が全く居ない中の事後で全ての対応は幼馴じみの友人がしてくれました。
その怪我も完治していない中、泊まりの修学旅行がありました。
保護者である私の許可が出ていない中、息子は修学旅行に参加も難しいのです。
先生と話すために帰らなければ、それに息子の写真を送ってきたのですが、かなりの傷なのです。

入院して1ヶ月が過ぎ、他の方々は退院しているのだから、私だって大丈夫。
帰らなければ・・・。

無理やり帰るとわがままを言って帰ってきたのですが、その先生に飛行場まで送ってもらうというご迷惑をおかけいたしました。

術後そんな私が1人で帰るという事にどんなに心配してもらったのでしょう。
送る先生の顔も笑顔でなくて、心配!という顔でした。

左瞼は開かない。頭の回転もいま一つ・・・でも何の後遺症も無く私だけは笑顔で退院したのです。

脳動脈瘤16

2008-05-29 | 脳動脈瘤
手術日もお天気はとても良かった。
9時に看護婦さんがお迎え。

子供達と笑顔で別れて、手術室へ向かった・・・。
ここまでしか記憶がないので、手術室へどう行ったのか、先生と話したのか、全く分からない。

私の記憶が途切れ途切れに戻るのは手術の3日後。

手術は18時過ぎに終わり、子供達が上山先生に手術の内容を聞いたのは19時を過ぎていたようだ。

左目の神経を跨ぐ様にできていた動脈瘤は、眼の神経をぺったんこに潰していたようで、よく視力を失わなかったのか不思議だったそうだ。
動脈瘤は2cm弱という大きさだった。
退院時に写真をもらって、びっくり♪
頭の中にこんなものができていたなんて・・・。
おまけに今にも破裂しそうな色合いで、手術は間一髪!という感じ。

バイパス手術は避けれたようで、腕に傷はなかった。
頭蓋骨も少し削った。
小さな動脈瘤にもクリップが付けられた。
私の頭の中にはクリップが5つ付けれた。
左側の首にも傷はある。

そして術後の私は2日間吐き気が止まらず、子供達の呼びかけにも反応はしなかった。
自分で覚えている意識も、ただ気持ち悪くて虚ろ虚ろ・・・という記憶が残っている。

子供達が手術後の私の姿でショックだったのは、左目が全く開かなかった事。
左目の瞼が全く開かなかったのだ。

手術から4日後意識も戻り、トイレにも歩けるようになった。
私の記憶は更にもう数日後からしかないのだが、手術は大成功である。
体に何の不自由も無く、言葉も話せる。
ただ左目が開かないだけ。

数日後大部屋へ移動した。

脳動脈瘤15

2008-05-29 | 脳動脈瘤
5月の終わりの北海道の季節はとてもいいのです。

入院時間まで子供達2人と旭川の街を散歩しました。

「こんなふうに普通に歩けるのは、これが最後かもしれない・・・。
楽しく食事するのもこれが最後かもしれない。
私は母親として子供達に幸せを届けられただろうか・・・」

入院前に伝えておかなければ・・・と親として少し照れくさいが、子供達に、

「お母さんの子供に生まれてくれてありがとう。そして未熟な母親でごめんね。貴方達が子供でお母さんはとても幸せだよ。もしも何かあってお別れする事になっても、必ずまた巡りあいたい。本当にありがとう」

じゃ行ってくるわ♪と笑顔で入院した。
手術までの2日間。
体調不良になってから、こんなに穏やかな時間を過ごした事はなかったかもしれない。

手術の前日の夜、子供達と私に手術の説明が行われた。
上山先生に失礼だとは思ったが、自分の気持ちを伝えた。

「先生、もし脳死状態になってしまったら、延命治療はしないでね。そして全ての臓器の移植をしてね。
もちろんそんな事にはならないって思っているけど、難しい手術だから開けなきゃ分からない部分もあるだろうし、この子供達がこの若さで私を背負っていかなければいけない状況だけは避けたいの。
お別れは辛いけど、重荷になるのだけはいやだから・・・」

上山先生は笑顔で「そんな事にはならないから大丈夫!でも分かったよ・・・」と受止めてくれた。
後で考えれば執刀医の先生にこんな話はとても失礼だけど、先生は私の気持ちを怒らず、静かに受止めてくれた。

「先生。お願い致します」を私は左手を差し出した。
上山先生は、満面の笑顔で握手してくれた。

先生の暖かさや力強さを更に感じた。
沢山の命を救ってきた先生の手は、神様のように感じた。

「本当に何の不安もない・・・。幸せだ。」
数ヶ月という短い時間だけど、体の不調と戦った時間。
明日終わるのだ。
ゴールとスタート。
これから始まる私の人生はどうなるのだろう。
でも大丈夫!元気だった私に戻れるはず。

手術前夜安心してゆっくりと眠った。(眠ったと思うんだけど・・・。)

脳動脈瘤14

2008-05-29 | 脳動脈瘤
手術の日程の連絡を待って2ヶ月。

手術は関東の病院を探して上山先生の日程を合わせて決まり次第連絡という事で、私は手術の連絡を待っていました。

体調は相変わらず頭痛、疲労感、微熱などが続いていました。
それに眼の焦点が合わず、文字がとても読みづらくなってきました。

「最近眼が見えづらいというか、焦点が合いづらいような、なんだか変。まさか動脈瘤が更に大きく・・・なんて事ないよね。
たとえ大きくなっても、手術まではどうか破裂しないで・・・」

上山先生の診察のとき、先生の手術が決まっていたけど、破裂してしまって亡くなってしまった方の話を聞きました。
脳動脈瘤なので、いつ破裂するか分からないのです。
そして破裂はある日突然来るのです。
前兆はないのです。

母が亡くなったときの事を思い出しました。
いつも通り倒れる直前まで普通だった母。
夕飯の片づけを終えて、さてゆっくりテレビでも・・・と座ってテレビを見ている途中で、急にガタンと倒れ「気持ち悪い・・・」と吐き気の後意識がなくなりました。
手の施しようが無いほどの破裂で、手術は出来ませんでした。
静かに朝早く永遠の眠りにつきました。

本当に、本当に突然訪れる出来事なのです。

手術はいつになるのだろう・・・
眼に不自由をかんじるようになってから、手術の時期について段々不安になってきました。
先生に連絡を入れたら、手術先の病院からの返事を待っている状態で、なるべく早く出来るよう努力しているとのこと。

そうだよね。沢山の患者さんが手術を待っているのだもんね。
どの患者さんも破裂の危機と戦いながら待っているんだもんね。
辛いのは私だけじゃない!
と、上山先生の診察に行ったときに声を掛けてきた患者さんを思い出しました。

診察を終えて、廊下を歩いている途中、後ろから「すみません」と声が聞こえました。
「上山先生はどんな方ですか?神戸から来たのです。先月脳動脈瘤があると言われて、大きさは4mmで、手術を勧められました。でもその手術をするにも後遺症の事を言われて、余りに不安で・・・」と話しながらその年配の女性の方は涙眼になっていました。

私は「先生はとてもいい先生ですよ。大丈夫ですよ。私も脳動脈瘤で診察に来たのです。大きさが少し大きいので相談に来たのです」

「大きさは?あなたも手術するの?」
「私は1.7cm大位の大きさで、上山先生に手術してもらう事になったのです」
「えっ!1.7cm!そんなに大きくなるの?それで大丈夫なの?わたしもね・・・」と涙を浮かべながら、不安な気持ちを話していました。

「こんなにお若いのに・・・。私も動脈瘤と聞いてからショックで悲しいばかりで・・。辛いわよね。お大事にね。お互いに頑張りましょうね」

その方も私と同様、ここまで診察にくるまで、どんなに悩んだのでしょう。
他人の私に話しただけで、涙がこぼれるなんて、どんなに苦しいのか・・・。


手術を待って4ヶ月、連絡が入りました。
旭川赤十字病院で手術が決まったのです。

この連絡が来るまでの間、ひどい痛みの頭痛で意識が朦朧として、くも膜下出血の疑いで病院へ運ばれると言う事もありました。
この連絡の前に、関東で手術決定の連絡が来たのですが、色々な事情で中止と連絡が来たこともありました。
手術を決めてからも、ここまで来るまでには色々な気持ちの葛藤がありました。

旭川への出発の数日前、上山先生からメールが届きました。
その文面を読みながら、涙があふれてきました。
私の人生の中で、両親を見送ったとき以外にこんなに泣いたことはないと思います。

・・・貴方が貴方の人生を全う出来るよう、私が今できる最大限の協力をします。
というより、旭川赤十字病院脳神経外科の全員が総力を挙げて、協力します。


手術をして、何が起こっても後悔なし!
私も頑張らなくては!と旭川行きの飛行機に乗りました。

脳動脈瘤13

2008-05-29 | 脳動脈瘤
***** これはブログに綴っていたものです。

脳動脈瘤が見つかってから1ヶ月が過ぎた。
手術に必要な検査も全て終了。
そろそろ手術を決めなければならない。
私の命を預けられるDrを決めなければならない。

検査入院した病院のDrも信頼できるが、難しい手術になるなら決める前にどうしても訪ねたいDrがいた。

北海道の旭川にいらっしゃる「匠の手」を持つと言われている上山Drだ。
有名なDrと私も知っていたが、相談した友人のDrも動脈瘤の手術では信頼できるDrだと言っていた。

早速飛行機を手配して、今までの検査資料を持って旭川へ行ってきた。
週に1回の外来で、患者は全国各地から受診に訪れているので、すごい待ち時間。でも病院の方も分かっているから、ある程度の時間を教えてくれる。
受診の手続きをしてからホテルに戻り、時間になってから再度病院へ。
40分程で名前を呼ばれた。

「怖い先生だったら、どうしよう・・・。それともこんな簡単な手術(上山Drにとって)、私じゃなくても出来るのに・・・と言われたらどうしよう・・・。」とドキドキしながら診察室へ。

検査資料を見るなり・・・
上山Dr:「う~ん。難しいね。それにもう一つ動脈瘤があるね。これはややこしいなぁ~。それとあなたには血管に奇形があるね・・・」
私:「えっ!今まで言われませんでしたが・・・」
上山Dr:「・・・名医だもん!」(満面の笑顔)
と冗談を交えながらとっても分かりやすく説明して下さいました。
とっても深刻な話だったのかもしれませんが、すっかり上山Drのお人柄に引き込まれて、暗い気持ちでは無く、明るく(?)冷静に自分の状態を捉えられました。もちろん冗談を言いつつも、検査資料を見る目は厳しく、真剣そのものです。

お話をしている内に、有名だからとかではなく、「この先生に私の命を預けてみよう」と言う気持ちになりました。
上山Drには不思議な力を感じました。
その力の中には「信念」を感じたのです。
そして、人間的な温かみも感じました。「命」の重さを分かっているDrだと思ったのです。

私が「私の命を預けていいですか」と聞くと、力強く「大丈夫!」と言ってくれました。

診察室を出た私の気持ちは、晴れ晴れとしていました。
本当は更にもう一つ動脈瘤が見つかって、おまけに血管に奇形とは・・・と暗くなるところですが、命を預けられるDrに出会えた事で安堵したのです。

「なるべく早く手術しましょう」とDrと約束して帰ってきました。
今は手術の連絡待ち状態です。

昨年の5月からの体調不良は、動脈瘤とは関連ないようですが、私は動脈瘤の手術で全てが良くなるような気がしました。
なぜなら、こうして信頼できるDrに出会い、とても前向きに今の状況を受け止められたからです。

「きっと良くなる・・・」と私の中で力強い光が点るのを感じながら旭川を後にしました。

**********ブログより


上山先生の診察には日本中から患者さんが来院します。
診察日は診察まで数時間の待ち時間があります。
でも外来の受付の方が大体の診察時間の目安を伝えてくれます。

上山先生に診察してもらいと思ってから、色々検察してみると、この先生は「巧の手」と呼ばれている事を知りました。
とても有名な先生なので、「私の所まで来るような症状じゃない!」と怒られたらどうしよう・・・ととても緊張しながら診察室に入りました。

今までの検査資料を見ながら、先生は病状を説明してくれました。
「もう1つ小さい動脈瘤があるね」と言われた時にはとても驚きました。
そして「動脈瘤が複数ある場合も多いから、他にはないかな・・・」と更に確認していました。

今までの先生は、一度も動脈瘤がもう一つある話は出なかったのです。
分かっていたのだろうか。
それとも分かっていたけど、話さなかっただけだろうか・・・。

手術の説明も医学的説明だけではなく、とても分かりやすい言葉で説明してくれました。
手術に対しての先生の考え方、手術の方法、後遺症の説明・・・すべて真剣な話なのですが、真剣なお顔で話されたり、笑顔で話されたり、難しい言葉ではなく、分かりやすい言葉で伝えてくれました。

前からバイパス手術になる可能性があると聞いていたのですが、バイパス手術の説明は今までの先生方は詳しく説明してくれませんでした。
私自身もバイパス手術に対して脳の血管を他の血管と繋ぎ合わせて作ると理解していたのですが、どこの血管を使うのか知りませんでした。
上山先生は、バイパスになる血管は左腕の動脈を使う事、なぜ左腕の血管を使うのか、それによって傷が頭以外にも出来てしまうことなどを説明してくれました。

私の質問も一つ、一つ丁寧に受け答えてくれました。
診察待っている患者さんはまだ沢山いらっしゃるのに、急がせるわけでもなく、私が病気の全てを理解できるよう、穏やかに分かり易い言葉で説明してくれました。

この先生に手術をしてもらいたい・・・という気持ちが段々大きくなっていました。
有名だからとかではなく、先生自身を尊敬できること。
手術だけではなく、私自身の環境も受止めてくれるように感じたのです。

私は両親は他界。兄弟も無く子供達と3人家族です。
一家の大黒柱が私なのです。
大黒柱が倒れるわけには行かないのです。

家族の話をした時に先生は、
「大丈夫。母が頑張らなくていけないもんね・・・」
と笑顔で答えてくださいました。

「先生、手術をお願いしてもよろしいでしょうか」

「もちろん。なるべく早めに手術をしましょう・・・」

こうして手術が決まりました。

診察を終えて、驚きが一つ。
病気の診察で、しかも手術が決まったのです。
後遺症もあるかもしれない大きな手術なのです。
でも、とても心が軽かったのです。とても明るかったのです。
手術の不安も何もありませんでした。

「上山先生に人生を預けるね。何の不安もない。先生は病気だけを受け取ったのではなくて、私自身を受け取ってくれたような気がするから・・・。辛い状況の時に、こんな素晴らしい人に出会えるということは幸せなことだし、人生の最大の別れ道にこんなに大きな光を照らしてくれて、力を貸してくれる。もしも術後後遺症が出てしまっても後悔が無いと思う」

帰宅後私は子供達にそう話しました。

飛行機の窓辺に微笑んでいる母の顔が浮かんだのは気のせいじゃなかったのね。
「頑張って生きるのよ!何があっても頑張るのよ!応援しているからね!」
旭川へ向かったのは母の力かな・・・と思いました。

脳動脈瘤12

2008-05-29 | 脳動脈瘤
「手術をする」と決めから、今度は手術をしてくれる先生を決めなければいけません。
私はこの手術が大きく自分の人生を変えるような気がしました。

自分の人生を、命を預けてもいいと思える先生に巡り合えるだろうか・・・。
体調不良になってから数ヶ月、何処の病院でも「精神的な・・・」と私の訴えに耳を傾けてくれなかった医師達・・・。
病院と医師に対して不信感しかなかったので、自分を預けられる先生と巡り合うのは難しく思えました。
それでも、数名の医師にてこうして病気が判明したのです。

前向きに受止めてくれる医師もいるのです。
自分の「命」を預けられる先生を探して、必ず巡り合わなければ。
巡り合いたい。
この先生ならばと思える先生は、いったい何処にいるのだろう・・・。

紹介された大学病院の先生は、とても話しやすく、感じはよかったのですが、手術の話のとき、私が後遺症の事で脳に障害が出てしまうのが一番の心配と話したら、
「そういう後遺症が出てしまっても、自分では分からないから・・・家族がみてくれるから大丈夫ですよ」と軽く一言。

先生は励ますように話されたのかもしれませんが、脳の障害に一番恐怖心を抱いていたので、絶句してしましました。
この先生に手術を頼むのは無理だと思いました。

会社の先生が紹介して下さった先生は、私の話を真剣に聞いてくれて、説明も丁寧にしてくれました。それに何より全力を尽くしてくれると言ってくれました。
この先生なら・・・と私が決め始めた頃、
娘が「インターネットで色々調べたの。大事な手術で、難しい手術なんだから、この先生方に診察してもらってから手術先を決めたら」と2名の先生を選んできました。

1人は北海道、旭川で、もう1人は名古屋の病院の先生でした。

この先生方は確か会社の先生が、脳動脈瘤の手術で有名な・・・と教えてくれた先生方。
あの時、この先生方だと手術を受けるまでに待つ時間が長く、その内に破裂してしまったらと気を使い、違う先生を紹介してくれた・・・。
でも今までの先生方が話されている通り難しい手術なら、診察してもらえるなら・・・。
有名で手術の腕も確かな先生が、手術してくれるなんて難しいかもしれないけど、この手術が豊富な先生なら、もしかしたら違う所見や意見があるかも。
手術前に大切な事・・・と思ったのです。

北海、旭川の病院の先生の記事を読んでいたら、胸が熱くなりました。
今までの私の悩みの全ての答えが書かれているような気がして涙がこぼれました。

「医師は人生を手術する」

脳動脈瘤(りゅう)は必ず破裂するとは限らないが、ひとたび破裂すれば半数が死にいたると言われている。破裂を未然に防ぐために手術することもできるが、その判断は簡単ではない。手術にも後遺症のリスクがある。手術を受けるかどうか、患者や家族に判断が委ねられるため悩む人が多い。だが上山は、不安を抱えた患者に対して、「大丈夫だ」と言い切る。手術のリスクを説明したうえで、後遺症なく治すことを約束する。手術の結果に責任をもつことで、患者の負担を和らげる。
 一方で”言い切る“ことには覚悟がいる。万が一の場合、患者側から訴えられる可能性も否定できない。だが、上山は言う。「患者は人生をかけて医者を信頼する。その信頼に対して医者は何ができるのか。自らもリスクをとって五分と五分の関係を築くこと、それが礼儀だと思う。」

・・・・・・・・・・・・・・・NHK 「プロフェショナル 仕事の流儀」より

難しい手術なら、この先生に診察してもらいたい。
でも紹介状も無いのに診察をしてもらえるのだろか・・・。
関東に住んでいながら、旭川まで行くなんておかしいだろうか。
でもこの先生の話を聞いて、他の先生の手術でも大丈夫と言われたら、安心して検査入院した病院の先生に手術をお願いできるのではないだろうか。
会社の先生のメールにも、この手術でお勧めできる先生は限られていると書かれていた。
そう!日本中どこでも探してみると思ったはずだ!!

旭川の病院に電話して診察日に診察してもらえるのかを聞いてみました。
紹介状は無いが、検査資料は全て持っている話をしたら、診察はしてもらえるとの事。

すぐに旭川行きの手配をして出発!
季節は2月末。
原因が分からなく体調不良になって9ヶ月。
脳動脈瘤が見つかって1ヶ月。
旭川行きの飛行機が出発するとき、今までの出来事を1つ1つ思い出しました。
そして飛行機の窓から雲が見え始めた時、なぜか微笑んでいる母の顔が浮かんできました。

「お母さん、私が旭川へ行くのは不思議な出会いなの・・・?」

この出発は私の人生の分かれ道。
これからの人生を大きく変える出来事でした。

日傘の出来上がり♪♪

2008-05-27 | Weblog
良い天気が続いて、気分はすっかり初夏。
本当のところまだ夕方は肌寒いんだけどね。。。

数日前から少しづつ作っていた日傘が出来上がりました
手作りの傘です。
うまく出来るのか不安の中、チャレンジ!!
分からないところは雨傘をひろげながら研究。。。
思ったより簡単に作れたところが以外でした。

今年の夏は活躍してくれそうです。
せっかく作ったのだから、少しくらい体調が悪くても外出せねば。
この日傘をさして、優雅(?)にお散歩に出かけられるように体を鍛えねばと思っています。

手術から1年目。
少しは元気になったかな。

もうすぐ手術から1年

2008-05-16 | 日々のつぶやき
ゴールデンウィークも何事も無く終了。

「今年は何事も無く無事元気で迎えられて良かったよね~」
去年の今頃を思い出し、家族で話題になった去年の手術前の事。

去年のゴールデンウィークは手術日が決まり、休み明けには入院の予定だった。
だからお休み!なんて気分じゃなかった。
入院日に手術は急にキャンセルになり、日帰りで旭川まで先生を訪ねて行ったっけ。
数週間後には手術になったのだが、5月のこの辺の時期には必ず思い出す出来事だ。

相変わらず左目は少しの後遺症が残っている。
日々変化する左目の状態は、ほんの少しづつ黒い幕が増えているように思える。
もしかしたら数年後には視力を失うのでは・・・と不安になる。。。

でも他にどこも後遺症が無いのだから、これでベスト!と思わなきゃ!と思っている。
だって、こんなに元気に回復したから、息子の体を支える力が残っていたのだから。
感謝!感謝!

・・・とこんな風に思えるようになったのは1年経っての成果だろうか。
少しだけ元気になった自分を感じた1年目だった。