平成徒然草(萩原 希仁)

毎日の喜怒哀楽をストレートに表現してゆく。

夏の準備。

2011-06-30 12:09:36 | 日記
真夏は喉が渇く。

体が乾く。

じりじり太陽が恨めしい。

そこで、せめて、冷たい飲み物は、

充実させたい。

一番好きな紅茶は、ティーパックで出して、

大きい容器で冷やしてある。

やはり、真夏はブルーベルーと、ラズベリー。

自家製の、レモネードもある。

勿論、大量のミネラルウォーター。

後は、時々欲しくなる、

缶コーヒーだ。

微糖珈琲と言うのを、

一缶、27円で、買い求めてある。

2ケース、48本。

この缶珈琲の会社は、社名が気に入った。

美山名水(株)だ。

僕の夏の準備は万全だ。


介護ー2

2011-06-30 12:08:27 | 日記
まずは、本音の、カミングアウトから。

昨日、介護に疲れた人へ、と、

他人事の様に書きましたが、

疲れていたのは、僕自身です。

でも、僕は、元気です。

と言う事で、本題に入ります。

何かの参考になれば幸いです。

僕が、母親の介護を始めたとき、最初は、

何となく、生活の色々な事柄を、

分担して生きる、みたいに思っていました。

それで、毎日が不愉快の連続でした。

何一つとってみても、母親は、

だんだんと出来なくなっていき、

僕の作業分担が増え続けるからです。

まるで、不公平極まりない。


でも、ある日、病院で、

赤ちゃんを抱くお母さんを見ていて、

ハッとしました。

介護をしている今は、確かに不公平で、

僕は大変だけど、昔、僕が生まれたときは、

全く同じ事を、母親も、してくれていたんだと。

当たり前ですが、大きな発見でした。

それからは、介護をする以上は、

僕が100で、母が0でも、

良いじゃあないかと思っています。

それでも、たまには、100-0ではなくて、

プラスとマイナスにもなってしまうので、

少しはいらつきますが。

まあ、心は平穏です。

一生をトータルすれば、行って来いなんですから。


介護ー1

2011-06-30 12:06:47 | 日記
最初に言っておくと、辛くない介護なんてないと思います。

でも、僕なんかは、何処か、施設に入れてしまったら、

もっと、辛くて後悔しそうだから、一緒に暮らして、

何とかかんとか、世話をしています。

世の中で、一番世話になって、大切な人だから、

一生懸命に頑張っていますが、それでも、

声を荒らげ無いでは、居られない時もあります。

人間は、哀しい生き物だと思います。

時には、今、目の前の母親は、本当に、

僕の母親なんだろうかと、言いたい時もあります。

頭を抱えたくなるのは、酷い状態と、

昔の、あの、母親とが、互い違いに表面に、

出てくることです。

美味しい朝ごはんを食べさせて、皿を洗って戻ると、

腹が減ったのに、朝食はまだかと、


言われてしまう日もあります。

車椅子を押して出かける時、ラーメンが食べたい、

と、言っていたのに、中華屋に着くと、

不機嫌になって、和食が良いと言ったのに、

と、怒られてしまいます。

でも、ある日の朝は、心筋梗塞をやったのに、

お前、済まないね、何て言う時もあります。

僕は、妻を、癌で亡くしたり、色々仕事も、

頑張ってきましたが、介護は、それとは違う、

別格の辛さがあります。

でも、施設は考えていません。

一度、1箇月だけ、試しに入れたことがありますが、

僕が帰るときに、いつまでも、不自由な足で、


窓際に立って、僕を見ていた姿が忘れられません。

僕は、母を、施設に入れないことを決心しました。

その代わり、言いたいことは言っています。

お腹には貯めないようにしています。

どこまで理解してくれているか、分かりませんが、

何でも言います。

医者がすすめる、精神安定剤も、あまり与えません。

これ飲むと、眠くなって、何も分からない、と、

母が言うからです。

歳をとるとは、本当に哀しいものだと思いますが、

僕は、最期が来る日まで、母と一緒にやって行こうと、

思っています。

辛くて、大変で、苦痛も多いですが、

それでも僕は、元気です。


安心な生活。

2011-06-30 12:05:30 | 日記
僕が子供時代のSF映画では、世の中が放射能に汚染されて、

人類が滅亡する様な映画が多かった。

滅亡はしなくても、フランケンシュタインみたいに、

放射能の影響で、怪物が生まれるとか。

きっと、みんなが、今よりも、放射能に対して、

生々しい恐怖心を持っていたのだろう。

それがいつの間にか、失われてきている。

今日、東京の江戸川区のゴミ処理場から、

多量の放射能が検出された。

それで、東京都の東半分は危険だとも言う。

しかし、僕の住む松戸は、東京よりも、福島に近い。

平気な訳はないだろう。

都内ほどに、しっかり調べていないだけだろう。

こう考えると、虚しい限りである。

現実の方が、SF映画よりも、

ずっと怖いかも知れないと思った。


原子力発電を考える。

2011-06-30 12:03:01 | 日記
僕が小学生の頃から、原子力発電は、

議論の対象になっていたが、当時の一般的な、

見解は、安全性は万全である、と言うものだった。

教科書にも書いてあったし、政府も太鼓判を押していた。

今から、30年以上も昔の話だ。

ところが、これが嘘っぱちだったとは、

驚天動地である。

こんなに時間が経過した現在でも、

大震災は、想定外だとしても、

何も事故が起こらなくても、放射能廃棄物の、

正しい処理の技術は無いのである。

薄めたり、コンクリートで固めたり、

海の底に沈めたり、山奥に埋めたり、

こんな、騙しをしているだけだ。


解決する技術の進歩を、待っている形だ。

これを考えると、やっぱり、僕ら人類は、

まだ、原子力を使ってはいけないのではないだろうか。

僕は、最近はこう思っている。

我慢、と言う精神論では、戦時中と一緒であるから、

具体的な生活の在り方、継続の方法を、

しっかり話し合った上で、原発の停止が、

正しい在り方ではないか。

其の為には、本気で、自然エネルギーへの移行が、

進められる必要がある。