平成徒然草(萩原 希仁)

毎日の喜怒哀楽をストレートに表現してゆく。

居酒屋珍事件始末記。

2011-01-29 17:59:28 | 日記
1-下呂の放物線と、素手でのキャッチ。

2-トイレから出てきた女の子に、トイレットペーパーの尻尾がついている。

3-パンティーを下ろして、小上がりで、オシッコをしている。

4-灯油を持った、常連さんが、火を付けに来た。

5-暴力団大集合。

1-下呂の放物線と、素手でのキャッチ。

カウンターで、静かに飲んでいたお客さんが、急に立ち上がって、トイレの方に、

走り出したが、1~2歩進むと、急に放物線を描いて、下呂を吐き出した。

意味が解らなかったが、近くにいた僕は、その下呂を、素手で受け止めた。

あの、生温かい、感触は、一生忘れないだろう。

何故か、店内に拍手が起こった。

大変難しいが、中には、下呂を、前方45度の角度で、飛ばせる人間がいる。

2-トイレから出てきた女の子に、トイレットペーパーの尻尾がついている。

廊下の一番奥に、トイレがあった。

女子大生みたいな女の子が出てくると、何と、パンティーに引っかかって、


トイレットペーパーが、長い尻尾の様に、繋がっていた。

僕は、兎に角、1m位の所で、切ったが、そのまま帰って行った女性が、

その後、どうなったかは知らない。

なまじ、可愛い女性だから、声がかけられなかった。

3-パンティーを下ろして、小上がりで、オシッコをしている。

僕が、行きつけのスナックが、お返しと言って、女の子達の忘年会を

僕の居酒屋でやってくれた事があった。

その日も、店を営業してからの忘年会だから、スタートが、

夜中の2時からだし、最後まで店にいた男性客まで、財布がわりに

同伴して連れてきていた。

みんな、ベロベロ状態だった。

ふと見ると、一人の女の子が、泥酔して、小上がりの畳の上で、

おもむろにスカートを捲り上げて、パンティーを下し、


しゃがみこんで、オシッコを始めてしまった。

僕は、座布団2枚で、隠してやった。

幸いな事に、周りもみんな泥酔状態だったから、誰も気が付かなかった事だ。

それでも、誰に聞いたのか、その女の子が、菓子折りを持って、

僕のところに謝りに来た。

4-灯油を持った、常連さんが、火を付けに来た。

僕の居酒屋で、まぐろの刺身を食べて、釘が入っていて、

お腹が痛くなったそうだ。

翌日、灯油を持って、店を燃やしに来た。

常連さんだったから、冗談かと思って見ていたら、

本当に灯油をまいて、火を付けた。

僕は、炎を上げる襖や障子を外して、店の外に投げ出し、

その人をねじ伏せた。

そうして、駆けつけたパトカーの警官に引き渡した。


驚いたのは、一月くらいして、その人がまた、飲みに来る様になった事だ。

アルコールも、飲みすぎは恐ろしい。

本当に頭が破壊される。

5-暴力団大集合。

僕は、風林火山と言う、居酒屋チェーンの、埼玉地区の社長の元で、

仕事を教わった。

だから、自分で店を出すまでは、東大宮の社長の店で、

住み込みで店長をしていた。

お世話になった、その社長が、暴力団から借金をして、

返さないで、雲隠れしてしまったから、暴力団が、僕の店にやって来た。

もう、風林火山とは、何にも関係が無いのに。

結局僕は、最初にやって来た、チンピラ2人を、殴り倒したが、

その夜、ベンツでのり付けた暴力団に、拉致されることになる。

この事は、長くなるから、またの話にしよう。

買い物難民のニュースに胸が痛んだ。

2011-01-26 18:31:13 | 日記
雪深い山形県、鶴岡市。

僕の生まれた、天童の隣町だ。

今年は雪深く、お婆ちゃんの腰の上まで、雪が積もっていた。

近所の生鮮食料店は、軒並みつぶれて、年寄りは、日常品の買い物が出来なくなった。

そんな中に、行商のトラックが来る。


あるお婆ちゃんは、買い物が無くても、無理矢理でも、1000円は買うと言う。

その行商が、なくなってしまわない為に。

正に、庶民の優しさだ。

もうだいぶ前に亡くなった、母方のお婆ちゃんを思い出した。

3人兄弟で、上から、イネ、ゆたか、稔(みのる)と言う名前だった。

何て、素朴で、縁起の良い名前だろう。

雪国の人は、我慢強い。

政府の無策を嘆くよりも、吹雪に耐えて、ぐっと唇をかみしめる。

深いシワに、強さと優しさが、刻み込まれている。

同郷の、僕が、代わりに、訴えたい。

儲からなくても、必要な仕事は在る。

それは、政府の仕事だ。

ニュースでは、行商のトラックへの、市からの補助金が、

もうすぐ、打ち切られると言っていた。

これこそが、市の仕事ではないだろうか。


一生懸命に働いて、歳をとったら、食事の買い物も出来ないのに、

ほっておかれる。

こんな事が、許される訳は無いのだ。

市政の担当者は、猛省を促す。

あなた達は、公僕である。

今一度、原点に帰って、考えて欲しい。

バレンタインの思い出。

2011-01-25 12:03:25 | 日記
バレンタインの思い出は、小学校の頃が、一番だろうか。

記憶を辿ると、最初に貰ったのは、小学校の3年生だったと思う。

その前に貰ったのは、女の子に貰ったと言うよりも、

その子の、お母さんに貰った感じだった。

初めてのチョコレートは、鞄の中に、知らない内に入っていた。

名前の書いていないラブレターが、一緒に入っていた。

{好きです。好きです。たまらなく。}

確か、そんな風に書いてあった。

一緒のチョコは、どんなのだったか、記憶がない。

ラブレターだけは、衝撃的だったからか、今でも憶えている。

いまだに、誰からなのか、判らない。

当時は、ドキドキしながら、誰かを予想していた。

翌年の、4年生の時は、走りハードルが、得意だった、

足の綺麗な、久美子ちゃんから、真っ白のマフラーと一緒に貰った。

5~6年生では、一年下の、恭子ちゃんと、付き合っていたから、

手作りのチョコを貰った。

男の子にとっての、バレンタインは、何年経っても、一生の思い出だ。

最近は、仕事上の付き合いで、貰う事が多く、

値段が高そうなチョコが多いが、わくわく、うきうきは少なくなってしまった。

要は、自分を好きになってくれた事が、嬉しいのだから、

本当は、気持ちの篭もった、手紙だけで、十分なのである。

その証拠に、数十年前に貰った手紙さえ、文面は忘れないで居る。

貰ったチョコレートは、全く覚えていないのだ。





























私小説。礼賛。

2011-01-23 10:12:02 | 日記
初めて銀座で、見かけた時は、生まれてから、最高の美人を見つけたと思った。

凛として、どことなく、宝塚を思わせる様な人だった。

サラリーマンとしての最初のボーナス、30万円を丸ごと持って、

僕は、初めての銀座のクラブへと、向かった。

僕の隣に座った彼女は、こんな高い店には来ない方が良いと言って、

店を早退し、二人で、安い居酒屋に飲み直しに行った。

それから、居酒屋や、焼き鳥屋で、3回デートをして、

僕は、プロポーズした。

僕は、一人っ子で、彼女は、10人兄弟だった。

彼女は、兄弟姉妹が多く、生活が大変だったから、苫小牧から

中学を卒業すると上京して、東京で、生き抜いてきていた。

僕は、父親の会社が倒産して、母の面倒をみながら、東京で、もがいていた。

一部上場企業に、就職仕立てだったが、給料は、彼女が僕の、20倍だった。

しかし、結婚を決めると、彼女は、銀座を辞めて、

弁当屋の、宅配トラックの、運転手のパートを始めた。


仕事は、お金の多い少ないだけでは、価値は決められない、と言う事を、

本能的に、知っている人だった。

僕が、ケンタッキーの店長になると、店のアルバイトと、

折り合いが付かなくなったが、店に、毎日、コーヒーを飲みに来ていた妻が、

知らないところで、アルバイト達と、仲良くなっていて、

問題は、解決した。

自宅から、店まで、1時間半はかかったが、ニコニコして来ていた。

その後、まとまった店は、世界で、6000店舗中で、3位のセールスを達成した。

僕は、26歳で、親の様な、歳上のパートさんを使っていたが、

妻に、一つだけ窘められた事があった。

{あなたは、立派な店長だけど、年配のパートさんの一人一人は、
家へ帰れば、一家の大黒柱だったり、お母さんだったりする。
そんな人達を、邪険に扱ってはいけない。}

僕は、それ以来、どんな店に行っても、2度と、問題は起こさなかった。


それどころか、SV、ブロック長、本部長、マニュアル作成者と、

やりたい仕事を、する事が出来た。

脱サラして、アメリカに行く時は、貴方なら、大丈夫と言って、

一人で、送り出してくれた。

お陰で、思いっきり仕事が出来て、テーマパークのプランナーになれた。

数カ月に一度の、帰国の時は、飛行機を降りてくると、

妻が猛スピードで走って、抱きついて来た。

妻が病気になって、一時期は回復したので、僕は、仕事をまとめて、

妻と二人で、下部温泉に2ヶ月ほど、湯治に出かけた。

この時は、二人だけの時間を過ごし、食事は僕が作った。

病気が再発してから、彼女は、僕と離れる時は、いつも明るく、

じゃあね、と言う様になった。

どこで、別れが来ても、僕に衝撃が少ない様に、わざと、

明るくしていたのかも知れない。


彼女がいなくなって、少しして、僕は、会社をたたんで、

居酒屋を始めた。

寂しくて、仕方がなかったからだった。

歳をとったら、二人で、一緒にお店をするのが夢だった。

経営は上々だったが、また、寂しくなって、渡米した。

その後、ブランド品の物流センターを立ち上げたが、

大量の吐血をして、入院した。

半年ほど入院して、退院してからは、自宅静養中である。

のんびりと、多少の、物書きの仕事だけをしながら、

母親の介護をしている。

それでも、まだまだ、夢の途中である。


哲学の薦め。

2011-01-22 09:13:03 | 日記
古代ギリシャにおいての、哲学とは、いかに生きるか、と言う事だった。

ソクラテスも、アリストテレスも、プラトンも、

生きる意味や、生まれてきた理由を探る事より、

いかにして生きるかを考え、それで、若者を育てようとした。

中世になって、哲学は、いつの間にか、命の意味を求める様になった。

生まれてくる意味を、求めたのだ。

しかし、これは、破滅的な事であって、この命題に落ち込んだ哲学者は、

みんな、不遇になった。

ある者は、自殺するしかなくなった。

ところが、この甘美な命題は、現代に至っても、

哲学者に限らず、文学者や、科学者さえも、惑わしている。

僕が好きな哲学とは、間違いなく、古典哲学である。

生きる理由を求めるのではなく、いかに生きるかを、考えるのだ。

生まれてくる意味に、執着してはいけない。

広大な宇宙も、無限に思われる時間も、実は、大規模な有限である。


さらに、人間の一生は、極めて短い。

だから、生きとし生きる者の、命の命題などは、求めない。

何もない、と言う答えが、見え隠れしているから。

大事な人生を、どうやって生きようかから考えると、

少なくても、常に前向きでいられるのだから。


こう考えると、最低でも、強いものに巻かれるのは、

正しくない事が解かるだろうと思う。

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2011-01-22 07:59:01 | 日記
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僕の処世術。

2011-01-21 20:16:40 | 日記
僕は田舎から上京して、金もコネも、後ろ盾も、地盤も何も無かったから、

自分の身体に在る、エネルギーだけで、闘ってきた。

でも、自分なりの、処世術もあった。

1-イエスマンにならない。

2-人生の先輩には、盲従しないが、礼節はつくす。


社会から、偉いと言われている人や、先生と言われている人には、

進んで、教えを乞うた。

しかし、イエスマンにはならなかった。

でも、人生の先輩として、自分の意見はぶつけたが、

無礼には成らない様に、気をつけた。

そうしていたら、偉い人に可愛がられて、

色々な事が、成就できた。

だから、若い人を見る時、僕の言う事に、賛成だけをする人は、

好きになれない。

自分の意見をぶつけて来る、気合のある人が好きだ。

ただし、礼節の無い若者は、叩き潰す。

いかに、才能に恵まれても、驕り高ぶった時に、

全てを失うからだ。

フォーク全盛の時代は、良かったよ。

2011-01-20 04:09:55 | 日記
あんな歌では、僕は、絶対に泣かない。

そう、思っていたのに、TVで聴いたら、号泣してしまった。

それで思った。

これは、歌のストーリーで、泣いているのではないと。

涙が止まらないのは、自分のお婆ちゃんを、思い出しているからだとね。

こういうのを、DNAの記憶と言うのかも知れないな。

フォーク全盛の時代は、みんなが、こんな風な唄をつくって、

ギターを弾いて唄っていた。

ギターも、作曲も、殆どが、コードストロークだけだったから、

逆に、誰でも出来て、良かったのかも知れない。

身近な題材の曲は、それ自体が、上手な曲でなくても、

やっぱり、DNAが反応して、よく、泣けた。


トイレの神様から、また、フォークの時代がこないかなぁ。

一週間で、10万円は、間違いなく入手できます。

2011-01-18 19:30:36 | 日記
一週間で、10万円稼げたら、結構良いよね。

僕の、アルバイト時代の話から、少し紹介しよう。

実話だから、お金が必要ならば、真似して下さい。

どうして、一ヶ月で、40万円かせげると、

言わないのかを、先に説明しておきましょう。

それは、僕の様に、気力と体力が、相当充実していても、

きつくて、2週間以上は、続けるのが困難だったからです。

でも、こんなアルバイトをして、僕はお金を貯めました。

一つ目は、夜間の交通警備をしている時に、見付けました。

警備の仕事が、一晩で、1万円くらいだったので、

3万円稼げる、その仕事に、鞍替えしたのです。

それは、下水道管の夜間清掃でした。

真冬の夜中に、道路上に立って、一晩中、

光る誘導灯を持って、車の誘導をするのも、

足先などは、凍りつく様に寒くて、結構大変な仕事でした。

それで、仕事をしながら見た、下水道の清掃工事へ、志願したのです。


月曜から、土曜日まで働いて、18万円の、稼ぎになりました。

都会の道路の下を、縦横にはしる、下水道を、文字通り

カラダを使って、清掃してゆきます。

マンホールが、道路上にも在るので、交通量の比較的に少ない、

夜中に清掃をするのでしょう。

使い捨ての紙のパンツを貰って、

スキューバーダイビングの様な、黒いゴムスーツを着込んで、

軍手の上に、ゴム手をはめて、コロコロの付いた板に、

腹ばいになって、ヘルメットに付けた、炭鉱夫の様な、

ライトを頼りに、頭から、下水道管に入って行きます。

薄暗い中で、流れを詰まらせる物を、手で、排除して行きます。

ねずみ、犬、猫の死体から、得体の知れない物、

勿論、大量の排泄物がありました。

仕事が終わると、路上の仮テントの中で、

素っ裸になって、体中を洗ってから帰りますが、

臭さは抜けなくて、電車の中では、周りのみんなから見られました。

2週間で、根性が擦り切れて、止めました。

もう一つは、清掃工場の、ベルトコンベアーの手での、

仕分け作業でした。

こちらは、一日、15000円。

一ヶ月続いたら、おまけで、3万円でしたが、

残念ながら、3週間で、力尽きました。

3週間での稼ぎは、31万円程でした。

ここでも、素っ裸になって、使い捨てのパンツを貰って、

全てを白い征服に着替えて、作業をします。

軍手にゴム手は、下水道の時と、同じでした。

ここならば、下水道よりは楽なので、半年位は、稼げると思ったのに、

やはり、問題はありました。

色々なゴミが、一日中ベルトコンベアーを、流れているので、

得体の知れない粉塵が、霧の様に、作業場を包んでいます。

髪の毛も、お尻の周りも、帰る頃には、粉だらけになっています。

マスクはしていても、一日で、相当量のゴミの粉を吸い込んでいるはずです。

耳の穴も詰まって、聞こえなくなるほどでした。

しかも、コンベアー上を流れて来るゴミの中には、必ず、

割れたガラスが入っていて、毎日、腕を切りました。

2週間も経った頃には、腕は小さい傷が化膿し、

両腕ともに、丸太の様に腫れあがっていまいた。

この二つのアルバイトは、僕の最高の経験になって、

それ以降、仕事で、苦しいと思った事はありません。

今は、良き思い出です。


そりゃあ、時と場合で、状況でも、変わるよ。

2011-01-18 13:16:28 | 日記

あなたの鍋のスタイルは?
  • 全てを仕切る鍋奉行
  • 口を出すお代官
  • 取り分ける奉公人
  • 食べるだけのお殿様

気になる投票結果は!?

All About 「男の料理」うまみたっぷり! 鶏手羽の中華風鍋
All About 「キャベツ」具だくさんのロールキャベツ鍋


当たり前だが、T-TIME、PーPLACE、O-OCASION。

つまり、時と場所と、状況に合わせて、変わるのだ。

一人で、鍋を研究する時は、色々やってみて、

美味しさを求め、楽しむ。

でも、何人かで、楽しむ時は、五月蝿い事を言わないで、

ただただひたすら、楽しく食べる。

機嫌の良い、殿様の様に。

関係無いが、五月蝿い=うるさいとは、言い得て妙だ。

元からが、食べることも、料理も大好きだから、

鍋も色々チャレンジしたが、トマト出汁も、豆乳も、

酒(日本酒)も、今ひとつで、やっぱり、

昆布とカツオ出汁が、一番かなぁ。

沢山のネタを入れるのも良いが、

豆腐と長ネギ、まぐろと長ネギ、白菜と豚肉、

もやしと豚肉、みたいに、相性の良い物を、

シンプルに食べるのも好きだ。

嘆きの独白。

2011-01-17 22:16:25 | 日記
ある、魅力的な一人の女性が、荒ぶる日本海を目にして、

演歌の心になったと言う。

これは正しい。DNAの、叫びであろう。

演歌は、日本海を渡って、韓国から伝わってきたのだから。

話は、全然変わるけれども、こんな事を思い出した。

僕は、高校時代、哲学者のソクラテスの本を読んで、

他山の石として、そうは成らない様にしようと思った事が在る。

それは、ソクラテスが、ギリシャ繁栄の時代に、

若者達を見て、嘆いているところだ。

{こんな、甘っちょろい、若者達では、国の未来は、思いやられる。}

ソクラテスも、見誤っていた。人間の真理を。

大人から見ると、自分達の作ってきた社会に順応しない、

若い世代は、情けなく、頼りなく見えるが、実は、それこそ

進歩の兆しなのだと。

事実、ソクラテスの心配とは関係なく、

その後も人類は、進歩している。

まあ、物質的進歩は、必ずしも心理的な進歩では無いが。

だから、そう、何が言いたいかと言うと、

僕は、自分よりも若い世代を見て、つまらない評論はしたくないと言う事だ。

逆に、最近は、謝りたい事が政治には多過ぎる。

大人がどんな理屈を付けようとも、

かつては敵として闘った、相手の政党から、

組閣時に新大臣を任命するとは、あまりにも可笑しくは無いか。

高校生達などは、本能的に、馬鹿馬鹿しさを見抜くだろう。

これは、かつて、自民党と社会党と言う、最大の敵同士が連立し、

結果、社会党が壊滅した歴史にも匹敵する、悪行だ。

大人の一員として、若い世代に頭を垂れる。

ソクラテスとは逆に、この国の将来を、

若い力に預けたい。