たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

信玄を唸らせた武将・長野業政の墓所を訪ねて

2020年03月16日 | 散歩

続き

この寺が長野氏の菩提寺・長純寺です。以前、一度だけ訪れた事が有りますが、その時は山門迄でした。先祖が創建した菩提寺は下室田の長年寺(家から車で約20分ほど)で歴代の城主はそちらに眠っておりますので業政の菩提を弔う寺と言う事になるのでしょうか。 経緯に尽きましては後でまた調べてみたいと思います。   山門には長野氏の家紋、檜扇が掲げられておりました。

山門脇に咲いていた赤花のミツマタ

山門を潜りますとそれほど古い物では無いらしい鬼瓦の先に、何時のものでしょうか どちらかと言うと不細工な六地蔵に迎えられました。

何度かの火災に遭い現在の本堂は江戸時代に再建されたものだそうです

本堂脇にある不動明王

箕輪城家臣の墓(↑)を見て墓地内を案内板に従って上へ上へといざなわれると墓地の上に出ます。当時は木が有ったのでしょうが今は伐採され明るく開けた広場はチップが敷き詰められ桜の苗木が植えられてておりました。

当時はさぞかし寂しい場所だったに違いない場所に一里塚の様なものが見えます。   

「私が死んだあと一里塚と変わらぬ墓を作れ、敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならぬ。運が尽きたら潔く討死せよ」 それこそが私への考義、これに過ぎたるものはない」   業政は業盛を病床に呼びそう遺言をしたと言われております。  武田信玄に負ける事の無かった程の武将が驕らず高ぶず先祖の墓とは無縁なこの様な山奥に埋葬させた業政の度量を私は感じずにはいられませんでした。 世には力の無い人ほど偉ぶる人がかなり多い様です。そうならない様、私達も気を付けないといけませんね。

            

業政の墓に寄りそう様に眠る令室の墓

振り返れば高崎・前橋の町並みが一望された。業政とその令室も「世も変わったものじゃ」と見下ろしているでしょうか。

さて、業盛の弟・伝蔵(業実)は武田氏滅亡後に徳川四天王の一人で箕輪を領した井伊直政の家臣となって4000石を有し彦根藩の次席家老を務めたとの事です。  私が生まれた場所は長野村ですが、此処には長野性が今も残ります(同級生にも2名おりました)  今は合併で長野村は無くなり、箕輪も同じく高崎市に吸収合併させられてしまいましたが歴史的地名が失われてしまうのは寂しいものですね。

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9 コメント

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長野業政 (イケリン)
2020-03-16 18:31:52
たかさん
武田信玄をもってしても、長野業政のいる限りは箕輪城は落とせぬと言わせしめたほどの
名将が眠るにしては、質素なお墓ですね。
また、死去する前に嫡男の業盛を枕元に呼び寄せて、伝えたと言われる遺言が、
業政の生き様そのもののようにも思えます。
まさに辞世の句「春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」そのものですね。
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長野村 (ヒトリシズカ)
2020-03-16 20:21:02
たかさん

戦国時代に長野業政という武将がいて、箕輪城などで地域を支配し、治世を行いましたが、甲斐の武田信玄の軍勢に敗退した歴史の地なのですね。

たかさんは長野村でお育ちのようです。東京都の都心部でも江戸時代の地名が消えています。同時に、歴史的な遺跡もどんどん消えていきます。

日本の高度成長はさまざまなものを消費しながら、進んで来ました。歴史的なものもどんどん消えていきます。

今日は、太平洋上を南岸低気圧が通過し、荒れた天気となりました。
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イケリンさん、お早うございます (たか)
2020-03-17 09:31:26
イケリンさんが仰る様に、これが業政の生き様だったのでしょうね。
末は神にまで登り詰めようとした武将も居る中、名を残す必要も無いと言う業政のおごり高ぶらない性格は
今時の言葉を拝借すれば「カッコイイ!」でしょうかね。
ただ人物像にしても城の資料にしても全てが幻になってしまい憶測でしか語れないと言うのが寂しいところです。
亀寿丸は幼すぎましたので無理でしょうが伝蔵(業実)又は落ち延びた家臣が何故、書きとめて置かなかったのか、どうしても其処に行きついてしまいます。
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Unknown (ベル)
2020-03-17 13:04:12
こんにちは
色々なお地蔵さんや石仏のあるお寺ですね
鬼瓦も閻魔様もユニークな顔つき

さかさ梅 根回り2m 樹齢約450年でかい立派な梅 花が下向きに咲くんですね
一度いてみたいです
ミツマタ赤いのもあるんですね 初めて見ました
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大切な歴史的地名 (越後美人)
2020-03-17 13:47:01
「口腹するな、運が尽きたら討死せよ」とは、明確な指示で、
言われた業盛の覚悟のほどが想像できます。
今の時代に業政のような為政者がいたなら、とつい思ってしまいます。
業実がその後、井伊家に取り立てられて次席家老にまで登ったのは、
長野家の運が尽きなかった証拠ですね。
長野村や箕輪の名前が合併で消えてしまったのは勿体ないですね。
このように立派な城主がいたのですから、歴史的観点から残すべきでしたねプンプン!
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降伏の間違いです (越後美人)
2020-03-17 13:49:15
口腹を「降伏」に変換して読んで下さいね。
越後美人(^_-)-☆
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ヒトリシズカさん、こんばんわ (たか)
2020-03-17 20:26:15
孫が来ていたものですからお返事が遅くなりました。すいません。
長野村は長野氏が世に出た場所です。これも合併で地名や歴史すら消してしまいました。
そうですね、明治に入ればヨーロッパ被れをした政治家や富裕層の人達がヨーロッパの文化を取り入れ
日本の文化的建造物を捨てました。
歴史的建造物が見直されて来た昨今ですが、それも全体から見れば僅かなものです。
嘆かわしい事ですね。
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ベルさん、こんばんわ (たか)
2020-03-17 20:44:53
この寺は火災により江戸時代に再建されはしましたが歴史は古いので
各種の石仏は勿論、長野業政公の木像も当時のまま開山堂に安置されています。
残念ながら私は見ておりません。
鬼瓦は、そう古い物ではなさそうですが、これも多分、江戸時代に藤岡市の瓦職人が作った物ではないかと思います。中々の出来ですよね。

さかさ梅は何故か下向きに咲くと案内板には記されておりますが、そう言われればその様に見えなくもないし実際のところ良く解りませんでした(笑)
ミツマタの赤は珍しいですよね。 家にも一本、欲しくなりました。今度、花木センターを漁ってみようかなと思います。
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越後美人さん、こんばんわ (たか)
2020-03-17 21:23:10
長野業政公が「運が尽きたら討ち死にせよ」とは「恥をさらすな」と言う事だったのでしょうね。 業盛も結構な剣の使い手だった事が伝えられておりますが何しろ経験の浅い今でいえば少年ですよね。きっと、あの世で業政も箕輪城は落ちてが息子も最後まで良く戦ったと満足した事でしょう。

そうですね、彦根へ行った業実、そして僧侶になった亀寿丸が長野市の血を護ってくれた様ですし。
今でも道場と言う場所(長野村道場)に長野姓は何軒か在るのですよ、中学の同級生もおります。
知っているところでは日本の報道キャスターで有りフリーアナウンサーである長野智子氏も(専修大教授)もその一人だそうです。(長野智子氏のツイッタ―より)
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