maidoの”やたけた”(ブログ版)

ジジイの身辺雑記。今日も生きてまっせ!

13-さて、どうするか?-U.S.A.1964-No.13-再録

2003-03-27 20:46:29 | 虚々実々-U.S.A.-1964

ちょっと一休み、

40年という年月、それだけの時が過ぎると全く別世界ですねぇ。

当時のアメリカがどんな状況だったのかといえば、
1954年フランス軍がラオス国境に程近いディエンビェンフーでボー・グェン・ザップ将軍の率いるベトミンに敗れ、それまで軍事顧問団として関わっていたアメリカが徐々に増派を繰り返しながら深みにはまっていった時期です。
私が滞在していた1964年8月2日、米駆逐艦マドックス号が、北ベトナム沖のトンキン湾で国籍不明の魚雷艇3隻から攻撃を受け(第1次トンキン湾事件)、8月4日「マドックス」への再度の魚雷攻撃が報告され(第2次トンキン湾事件)、アメリカ軍はこれを口実に北ベトナム攻撃を開始しました。
トンキン湾上の空母「タイコンデロガ」から艦載機が北ベトナムを攻撃したんです。
8月7日には連邦議会で「トンキン湾決議」が採択され、前年のケネディ暗殺によって大統領に就任したジョンソン大統領のもと、アメリカは宣戦布告無き戦争に入っていったのです。
これを契機にアメリカのベトナムでの戦いが激化する事になります。

丁度アメリカがベトナム戦争に本格的にはまり込む時やったんです。
まともに言葉も通じない20才の世間知らずの受けた感じでは、ケネディによって掻き立てられた愛国心、やる気の出たアメリカの雰囲気は、大統領暗殺によってかげりが出たものの、反面ケネディの遺志を継いで「アメリカを素晴らしい国にしよう」という気分はまだ健在でした。
知り合った同世代の若者は「Peace Troop=平和部隊」に参加して中、後進国の発展につくす夢を語り、未来を信じていました。
ベトナム戦争は志願者のものという気分が一般的で、「GI Bill=志願兵に与えられる奨学金」を目当てにMarine に志願するにしても、それが即戦場へ行く事とはつながっていなかったようです。

まだ共産主義がピンピンしていた頃ですから「自由世界を守り、共産主義者の野望を挫く事は疑う余地も無く正義である。アメリカは自由世界の旗手として先頭に立って悪と戦う」という考えが一般的でした。
「共産主義の魔手からベトナムの民衆を助ける!」というのが、おかしくなったのはもう少し経って、戦死者が急増し、徴兵されて送り込まれた若者が、戦場の現実を伝えるようになってからでした。
第二次大戦、朝鮮戦争で解放者の役割を演じたアメリカが、助けに行ったはずの民衆を無差別に殺戮し、歓迎され感謝されるどころか、非難され終には世界トップの先進国アメリカが、装備の質、量では負けるはずが無いベトナムに追い出されてしまう事になったのです。
これはアメリカにとって全く得る所の無い戦いでした。
帰還兵の多くは異常な体験の影響と、不況のため社会復帰に難渋し、自分たちの辛苦を評価してもらえず、やり場の無い不満を抱えて苦しんだ若者が多かったのです。
アメリカが自信を喪失する契機になった、まさにその時に居合わせたんですね。

ヒッピー、フラワーチルドレンなどの萌芽もありましたが、明るく陽気で、善意と正義、進歩を確信していた古き良きアメリカはまだ健在でした。

チョットお休みしている間に、アメリカはイラクとの戦争に踏み出してしまいました。
私の好きだったアメリカは40年の歳月でどう変ったのでしょうか?
一人一人の人々は、きっとあの頃と変わらずに、気さくで明るい気持を残していると信じたいのです。
「American Graffiti」監督: ジョージ・ルーカス(George Lucas)という映画をご存知でしょうか?
「The Blackboard Jungle(暴力教室)」の主題歌 Rock around the clock が流れて始る、1962年のカリフォルニア北部の町が舞台の映画なんです。
20年ぐらい前だと思うんですが、TV で観て、オイオイ泣いてしまいました。
カミさんにキョトンとされて、ゴッツイ恥かしいねんけど辛抱出来んかったんです。
映画そのものは、別に悲しい筋ではなくて、ジョージ・ルーカスの自伝的な青春映画なんです。
まだ、涙腺が緩む時期でもなかったんですけどねぇ。
私の知っているアメリカと、場所も時期もほとんど同じで、映画に登場する若者に、知り合って一緒に遊んだりアルバイトした連中の顔がオーバーラップして、色んな想い出がいっぺんにワ~ッと沸き上がって来てねぇ。
2回目の放映の時にビデオに撮ったんですけど、観たら泣いてしまうから観てないんですわ。

日本人がこの40年間に得た物と、失ったものを考えると、あの頃のアメリカに残っていて欲しいとは望むべくも無いのでしょうかねぇ。
そこへ、今度のイラク侵攻。
国際間の政治力学は私ごときには理解できません。
しかし、日本に帰って何年かしてから、キャンプ場のバイトで一緒やったジェイムスから、2週間毎に軍事郵便のエアログラムが届いてました。
その手紙には「幸いまだ一人も傷付けもしていないし殺してもいない。除隊まで後〇〇日」と決まって文末に書いてありました。
偵察ヘリの部隊だったのですが、幸運にも戦争が最悪の状態になる前に無事満期除隊が出来て、GI Bill で大学に入ることが出来ました。
言わば行きずりの友達でさえ、「無事で居てくれ!」と気を揉んでいたのですから、家族、兄弟の気持を思うと何とも言えません。
案の定、解放者のはずのアメリカは、イラクでも、又もや恨みを買う事態になりそうな気配ですね。
そんなこんなで、少々気シンドかったんです。
けど、昔惚れた娘さんの、若かった頃、可愛かった頃を書いておくのもエエかなぁと、再開する気になりましてん。

 


さて、気持を取り直して、今後のことを考えると、これはエライ事ですなぁ。
なんと、2日目で12番、この調子でクドクド書いてたんではどうなる事やら?
そこで、すこし考えて、クラブ派遣の交換学生としての部分は、少し端折ることにしました。
というのは、渡航するための方便に使ったようなもんで、〇〇〇クラブの皆さんには申し訳無い事ながら、交換学生と銘打っての、このプログラムの趣旨が今ひとつ理解できていません。

日本から一緒に来たグループが、サン・フランシスコを離れるのは7月28日。
その後、バンクーバーへ寄ってシアトルから日本へ向かうのが7月31日。
その間にはサン・フランシスコ地区のクラブ事務局主宰の交換学生が一緒に参加するプログラムが時々あるんです。
それ以外は、引き受けた各クラブが面倒を見ることになっているらしいのです。
姉妹クラブとでも言うのか、過去何回もお互いに会員の子弟が行き来しているので、受け入れ準備は万端。
グループのリーダー格の先生(シャーリィーという洒落た名前で呼ばれているらしい)からの電話では、皆さんは毎日観光やら、会合に出席したりで忙しそう。
フリータイムが欲しいという希望が出ているようです。
大体1クラブから2名派遣されて、同じ家庭に滞在していて、常に日本語を喋る相手がそばにいるので、あまり英語を話さないとも聞きました。

私はといえば、何処でどう狂ったのか、サン・マテオに派遣されたはずが、落着いたのはサウス・サンフランシスコ、ここのご主人ロジャーさんの所属クラブは仕事のオフィスの関係で、サン・フランシスコのダウンタウンのクラブ。
どっちつかずの状態になったお陰で、他の皆さんのように、あれやこれやと盛りだくさんの歓迎行事もなく、どちらかというとホッタラカシ。
ありがたいことに、ほとんどフリータイムの居候生活を楽しんでいます。
周りには全く日本人の気配もなく、否でも応でも英語を喋らざるを得ません。
辛いけれど、これに耐えられないようでは極秘計画の実行がおぼつきません。

実は不埒にも、シアトルで帰国する皆さんをお見送りして、お金の続く限り1人残留してやろうという心積もり。

幸いパック旅行出現以前で、航空券は団体ではありません。
まとまって渡航したものの、その実は個人渡航者の寄り集まり。
パスポート、航空券全て個人が管理しています。
おまけに、途中飛び入り、無理やりに参加したので、クラブ事務局の手を経ずに全くの個人購入。
それを良い事に、JTBの課長にお願いして、往路は同じ便ですが、帰りの米国西海岸→日本は登乗便未定のフリーチケットにしてもらいました。
当然、クラブの事務局へは秘密にしてもらうように、くれぐれもお願いしたのは言うまでもありません。
この切符さえ持っていれば、例え無一文でも西海岸にさえたどりつけば、日本までは帰れるから心強い。

どうしても1人で残ってやってゆく自信と言うか、覚悟が出来なければ、皆と一緒に帰ればいいのです。
今後アメリカに来れる機会がふたたびある事は無いでしょうから、2週間ちょっとで帰ってしまうのはあまりにも残念無念。
きっと日本へ帰ってからも後悔するに違い有りません。
折角のチャンスに尻込みをした自分の弱気を許せないでしょう。
本当はアカンたれやねんけど、それを認めてしまうと、何処までも果てしなくアカンたれになって、自分が「こう在りたい!」と思っている自分との差に嫌気がさしてしまいそうなのが辛い。
そんな事になるくらいならば、残ってえらい目に遭う方がまし、そやけどなぁ.....、と優柔不断な自分が許せんな、そやけどなぁ.....。
エィ!決めた!残る。

2003/03/27:初出
2020/01/17:再録

U.S.A.64-menu



最新の画像もっと見る