今日から夏休みの所多いみたいですねぇ。
電車ガラガラでしたわ。
8月12日といえば、もう20年経ったんですねぇ。
私と同い年の友人があの1985年の事故で亡くなりましてね。
大学で同級やった大親友のお姉さんなんです。
私1年浪人して貨物船に乗ったりしてたからお姉さんと同い年。
超お嬢様学校に通てはって、そこの学園祭やら何やらにカミさんと行ったりしてました。
家族兄弟どころか彼女込みのお付き合いやったんです。
その日、東京からお母さんと妹と一緒に帰るところやったんですが、席が取れずに自分だけ1便後のに乗ったんです。
それが123便、運てそんなもんですねぇ。
苗字は珍しくは無いんですが、名前が一寸変ってるんで、乗客名簿で直ぐに判りました。
ビックリしてとりあえず電話したけど、事態がはっきりしてないしねぇ。
どういうたらエエもんか、力付けようがなかったですわ。
夜が明けて状況が判りだしたら、あまりの凄まじさに言葉が無かったですわ
最後の生存者が救出された後は、ひょっとしてという希望も消えてしもた。
特にお父さんは気の毒でしたねぇ。
元々子煩悩な方やったけど、長女だけに可愛がりもし、頼りにもしてはったんです。
私なんぞとはけたの違う才媛で、しかもチャーミングな女性でした。
カナダの航空会社に勤めてはったんですよ。
ところが遺体が中々見付からんでねぇ。
親友が妹婿と一緒に遺体確認に地元に詰めてたんですが、憔悴しきってました。
今ならDNA鑑定で、もう少し早く何とかなったんでしょうなぁ。
結局、お父さんがプレゼントした別注の指輪が決め手で判ったんです。
それだけでもいかに酷い状態やったか判りますねぇ、たまりませんで・・・。
事故から一ヶ月以上経って、甲東園でお別れのミサがあったんです。
私は前年の入院から未だ回復できず、毎日500mmlの点滴を打ちながら仕事してましてん。
「君は親よりも長生きしなさいよ」といわれたんはこたえましたねぇ。
補償交渉にやってきた航空会社の社員が誰も居て無いと思うたのか、門の外で「やれやれ」と呟いたんやそうです。
「遺族の気持は所詮判らんのやろなぁ、もう腹も立たんよ。」というてはりましたわ。
そのお父さんも今年の三月に亡くなりました。
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