赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴《越中での「蘇我一族」の繁栄》【石川朝臣】・【紀朝臣】・【林朝臣】は「孝元天皇」⇒「武内宿弥」⇒「紀朝臣」・「林朝臣」と続いた同族!!

2021-02-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■聖武天皇は父を文武天皇、母を藤原不比等の娘の宮子として生まれ、後には藤原不比等と県犬養三千代の娘の光明子を妻とした。
文武天皇が藤原宮子を「夫人」とし、紀竈門娘(キノカマドノイラツメ)、石川刀自娘(イシカワノトジノイラツメ)を「妃」とした事が続日本紀に文武元年(697年)8月の項に記載されている。しかし、その16年後、和同6年(713年)の項には、「石川・紀の二嬪の呼び方を貶して嬪と称してはならない」と記載されている。(※「続日本紀」)


🔽蘇我蝦夷の末裔達は、「乙巳の変」で蘇我蝦夷、入鹿が誅刹された為に、以後、天智天皇を憚って「蘇我氏」を名乗る事を止めて「蘇我倉石川麿」の子孫達は、「石川氏」を名乗ったとされる。従って、「続日本紀」に記載される「文武天皇の嬪」の「石川刀自娘」は「蘇我氏」の一族であったと見られる。


■越中の「赤丸浅井神社」を創建されたのは「元正天皇の二宮」で「聖武天皇」の弟とされるが、系図では「文武天皇の二宮」の「石川朝臣広成」となる。
越中の古代豪族「利波臣」の後継となった「越中石黒氏」は加賀林氏の後継として「武内宿弥」の末裔を名乗っている。「越中石黒氏」は「累代、赤丸浅井城を居城にした」とされ、「源平盛衰記」にも「六動太郎光景」(※石黒光景)が、その子の「木船城城主石黒光弘」と共に記載される。

《🔽【新撰姓氏録】では「林朝臣」は「石川朝臣」を祖先としており、「石川朝臣」の子孫の「林朝臣」・「紀朝臣」は共に「武内宿弥」を祖先としている。
とすれば、「加賀の林一族」と縁組みした「越中石黒氏」は「石川朝臣」、「林朝臣」、「紀朝臣」等と同族であった。
一方、石黒一族で調査して纏められた「石黒氏の歴史の研究」では、「先祖は藤原氏」とされ、ある時期に皇族系の「武内宿弥」の「高志利波臣」から出た「古代豪族 利波臣」の系図(※「古事記」)に変更されている。藤原氏である「藤原利仁」の子孫とされている「越中石黒氏」の子孫の系図に、加賀林氏の一族の「イ浦氏(石浦氏か?)」が現れて、系図を繋いでいる。この事は、「石黒氏」はある時期に加賀林氏から養子が入った事を意味する。系図では、「石黒氏」は元々、越中の「石黒庄」を治める為に派遣された中央の官僚で「藤原氏」であるとされる。しかし、ここまで「藤原氏」としていた系図に、「武内宿弥」を先祖とする「利波臣」の系統が整合性の無いままに繋がれて来る。この事は、「加賀林一族」が古代豪族で皇室系の「利波臣」の名跡を継いだ事を意味し、或は「名乗り」に藤原氏と同じく天皇系の「利波臣」の系統を繋いだものと見られる。「天智天皇」は蘇我氏を討伐した乙巳の変で功績が有った中臣鎌足に「藤原氏」を与えたが、【大鏡】に拠ると、実はこの時に同時に下げ渡した側室の腹の中には既に子供が在り、「天智天皇」は男子で有れば藤原鎌足の子供とする様に命じたと言う。この子が後の「藤原不比人」で在り、後に「藤原不比人」が天皇の側近として権力を持つと我も我もと藤原氏として権力に群がる状態と成り、本来は「神事」にのみ奉仕していた「中臣氏」の一族が政治に口を出して来た為に、文武天皇は勅令を発して≪【藤原】は不比人の子孫にのみ許し、「中臣氏、卜部氏」は本来の祭祀にのみ奉仕する様に≫と命じられた。従って、歴史上「藤原」と名乗る人物は本来、天智天皇の子供で在る「藤原不比人」の直系のみの筈だが、権力に群がる者の中には「藤原」と号して権力をほしいままにする輩も登場する。

【続日本紀】文武天皇2年(698年)8月19日の詔
「藤原朝臣賜はりし姓は,その子不比等をして承けしむべし。但し意美麻呂らは,神事に供れるに縁りて,旧の姓に復すべし。」



本来、「鹿島大社」の神官で有った「卜部氏」は、「春日大社」、「京都吉田神社」の系統に連なり、全国に「吉田神道」を名乗って、皇室の【伊勢神道】の「神祇官」に似せて「神祇官領頂上」等と号して、時の武家政権の権力者と結託して全国の神官を任命する権限を持つ様に成り、本来の伊勢神道を有名無実にし始めて、「唯一神道」を掲げて仏教と神道が融合したの「両部神道」と対立する。
本来、「藤原」を名乗りうる者以外にも、都合良く勝手に「藤原」を名乗る者が武将の中にも現れ、後の戦国時代には、「藤原」の系統が相当、乱れて来る。又、「先祖に藤原氏との縁組みをした者」も名乗った事や、「母方」の藤原姓を名乗る者が出る等、戦国武将の自称の「名乗り」は、正確に確認出来ないものも在る。》




🔽「石川朝臣広成」が創建したとされる「赤丸浅井神社」の周辺には、「池田島」という地域が残っており、「赤丸浅井神社」の周辺には「池田」を名乗る一族や「石川」を名乗る一族が住んでいる。
「池田氏」の系図を尋ねると、その先は「紀氏」に連なる。
「延喜式内社赤丸浅井神社」の周りに、これらの人々が住んでいる由縁は、古代から続く「石川朝臣」の末裔で有ろうか?!
「赤丸浅井神社」の奥宮の背後には、天皇家の「十六菊紋」が入った「石川氏」の古い墓標が遺されている。











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