赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📙📃 南北朝期の「二宮円阿軍忠状」と「赤丸浅井城中山直治」・「守山城神保氏張」の素性!

2021-04-17 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




■「鴨城」は吉岡谷の小矢部市寄りに有り、古記に「鴨の二つ城」と記載されているが、鴨城は赤丸城程の大きな遺構がない事から赤丸城を主城とする出城と考えられる。(※「中世城館調査報告書」福岡町教育委員会)

■貞治2年(1363年)3月、南朝の武将桃井直常討伐に従軍した「二宮円阿」が「五位庄の鴨城衆と頭川城、松根城等での戦い」を命じられて任務を果たした事等が記載された「二宮円阿軍忠状」が有り、是が「五位庄鴨城」の説明に登場する。しかし、この「二宮氏」が如何なる人物かの説明は今日迄、諸史料にも見当たらなかった。

【二宮次郎左衛門入道円阿申軍忠事】
「右、去年二月九日令発向越中国、可致忠節之由、賜将軍家自并七条殿(斯波高経)御教書、当国松□(根)御陣下向仕、同七月三日大将御共仕、和三(田)合戦令致忠節、致其外圧城・野尻御供申、自同十一月至今年三月令和田十一警固、同十三日可為鴨城衆由依仰下候、於当城致忠節、同五月十二日向馳頭高城、追落凶徒等、焼払彼城、鴨城衆等相共致忠節、至南条枯本木金山城、令致忠節候上者、賜御判形為備後証、恐々言上、如件、
貞治弐年六月 日
一見了 印 」
詳細を調べるとこの二宮円阿という人物は足利一族の斯波高経の家老に見られる。
●「斯波高経」 尾張足利氏四代目 1362年細川頼和に代わり越中に息・義将を派遣。信濃国から越中乱入。南北朝時代の南朝の武将で守護大名。越前・若狭・越中守護。南朝の勇将新田義貞を福井県で破る。観応の擾乱では足利尊氏と直義双方に時に応じて仕える。

●「二宮円阿」(※次郎左衛門入道円阿)。
斯波家家老で信濃口から越中へ乱入し庄城、野尻城、和田城、鴨城、頭高城で戦う。1363年(正平十八年)に軍功を申請する軍忠状(※戦功を記した申請書)を提出した。
(※「和田城」は「増山城」の場所に在った古城。桃井直常の居城で在ったが、斯波氏に奪われた。
「野尻城」は福野町野尻の城で、京都の「東寺百合文書」に「五位庄野尻」の記載在り。足利家御糧所と成った五位庄は「福野町野尻」迄も含んでいた。昔は庄川支流の「野尻川」が小矢部川に流れ込んでおり、野尻とは小矢部川流域の経済圏で在った。)






■高岡市の「守山城」に在城した著名な武将に、名門足利氏一族の能登畠山氏から養子に入り「織田信長」の妹を妻にした「神保氏張」がいる。神保氏は畠山氏の家臣として長く越中の統治に関わり、富山城の歴史にも登場する。しかし、この「守山城」に陣を構えた神保氏については「神保氏諸流」とされて、ルーツがはっきりしていなかった。この「神保氏張」は五位庄を上杉謙信から安堵された「寺嶋牛介」が主君とした武将で、佐々成政軍として赤丸浅井城の中山直治と共に能登末森城に前田利家と戦った武将で、佐々成政が九州に転封された時に同行し、成政切腹後に徳川家康の旗本になった人物である。しかし、この人物のルーツを調べると意外な事が解った。
(※「守山城」は南北朝時代に南朝方の桃井直常によって築城されたと言う古城。)

■静岡県立図書館に徳川家臣団系図が在り、その中の旗本神保氏の系図を調べると、以下である。

【桓武平氏系図】 (源頼朝家臣団秩父平氏)
桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王ー良文ー忠頼━━将恒(秩父三郎)ーー畠山重忠 ー娘
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| ┗━中山次郎重実
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┗━ 頼尊(次男)
(神保氏の祖)
◎高岡守山城主神保氏張は能登畠山氏から養子に入っており、本姓は源氏。
◎越中土肥氏も桓武平氏良文流の同族である。
◎赤丸浅井城の中山直治は敦賀に落ち延びて今井氏の養子となり名跡を継いだ。この中山直治が入った「中山正弥家文書」に拠ると、「中山氏は藤原氏」としている。一方、越中赤丸村に残り、加賀藩に仕官した「中山孫左衛門清直家」は「赤丸城城主の末裔。本姓は源氏」としており、本国は近江として、「下がり丸に藤紋」を家紋としており、元々は藤原秀郷氏(蒲生➡泉➡今井)の近江今井氏が本姓ではないかと見られる。又、現在も赤丸に残る「中山赤圓家」は「赤丸名勝誌」(※国立国会図書館)で、先祖を「秩父平家の中山次郎重実」としている。一方、もう1軒の赤丸性宗寺は先祖を中山氏として家紋は「桧扇紋」としており、この紋は赤丸浅井神社別当寺の「川人山鞍馬寺」の家紋と同じで、近江源氏佐々木氏流今井氏の末裔の徳川旗本今井氏の家紋も同じである。この家系と中山直治が養子に入った敦賀の今井氏(本国を近江とする)の関係は明らかではないが、近江の国人今井氏は元々、近江の浅井氏と対抗する勢力であったが、浅井長政が織田信長に亡ぼされた頃には浅井氏の家臣になっており、本家はこの時に途絶えたが、支流は残ったと云う。敦賀の今井氏は恐らくこの系統であると見られる。赤丸性宗寺は浄土真宗で、川人山鞍馬寺も後に浄土真宗となっており、その関係で家紋が同じなのかどうかは分からない。しかし、本家と見られる「中山正弥家」が「藤原氏」としている事から、本姓は藤原氏と見られる。

■尚、旗本となった近江の今井氏は「近江源氏佐々木氏の支流で、近江の高島郡今井に城を構え、今井氏を称した。織田信長の下で今井兼員は摂津に二千二百石の地を領し、その子の兼久は関ヶ原の戦いで家康から旧領を安堵され、その後は代々千三百石の家禄を伝えた」と云う。佐々木氏は宇多源氏(近江源氏佐々木氏嫡流六角氏流)で源氏姓を称したとされ、今井氏の先祖は六角氏に仕えた様だ。今井氏は近江町箕浦というところで箕浦城にいた。その今井氏が六角定頼に属していて、定頼の定という字を名乗りとして貰っていたと云う。
高岡市内に残り、加賀藩に仕官した中山家は「源氏」を名乗り、「下がり藤に丸」の藤原秀郷系蒲生氏流の「藤紋」を使用しており、近江今井氏については、いろいろ議論があるらしい。
近江守に補任された「宇多源氏」は、近江に勢力を張って俵藤太と呼ばれた秀郷流藤原氏を郎等にしながら近江に進出していったと考えられると云うのだ。これが近江源氏佐々木氏の源流となっている。一方、秀郷流藤原氏を名乗る「蒲生氏」は近江国蒲生郡から甲賀郡にかけて勢力を張っていた。佐々木氏との関係を見ると、蒲生氏が佐々木氏に臣従していた事から、今井氏は秀郷流藤原氏の可能性が高く、蒲生氏初代蒲生惟賢の娘が佐々木定綱の側室になった事からも秀郷流藤原氏を名る「蒲生氏」が早い時期から宇多源氏佐々木氏の郎等であったことが分かる。従って、藤原氏である「蒲生氏」は血縁関係からも主家の宇多源氏佐々木氏の「源氏」を名乗る事があったのかも知れない。

■(神保氏; 平姓良文流 秩父平氏 家紋丸内二引両)
【✳「神保氏張(源氏姓の能登畠山氏からの養子)」からは源氏系となる。】
・「初代 頼尊 (山邉六郎):住 武蔵国 兄千葉及忠常反逆之時錐催促暴逆而忌朝敵不興仰王政堅我拭 中村土屋土肥新開二宮祖 」ー「二代 常(恒)遠 :住常冽笠間城故笠間押領 寛治三年源義家随催促軍於羽冽尽軍功々」ー「恒宗」ー 「 友平(中村四朗左衛門尉 二宮四朗大夫 称二宮)」(※中村友平は治承4年/1180年の頼朝旗揚げに参加、義経追討→1185年守護・地頭の設置、中村四郎として吾妻鏡10巻建久1年(1190)11月7日・25巻承久3年(1221)6月18日記載 )ー「朝忠(二宮太郎)」ー「某(二宮小太郎)」・「時元(二宮弥二郎)」ー「経忠 (始二宮右京進 神保左衛門尉) :住越中守山城 後醍醐天皇治世至吉野奉忠勤於南朝従桃井直常尽軍功其後随仕将軍源義詮公」ー「忠綱(神保右京進 河内守) :越中守山城主 明應年中従畠山基国尽軍功 應永十八年辛卯将軍義持公征伐飛騨国司藤原伊纜之時有軍功」ー「忠景(神保常陸介 右京進): 越中国守山城主」ー「忠貞(神保周防守 右京進): 越中国守山城主」ー「忠氏(神保越中守):越中守山城主 家紋幕紋丸内横二両引蔦之葉 應仁年中細川与山名合戦之時従畠山義純有軍功 文明五年癸巳十二月義尚公始忝内之時忠氏帯剣列後陣」ー「氏純(童名太郎 神保越中守):越中守山城主 當此時越中守護畠山義則衰武威國人不随其号令国中大乱氏純出張而振威欲領越中時上杉謙信感其武威厚為誓約故属謙信尽軍功 、女 佐々内蔵助成政室 信長封成政而越中守護 」ー「氏張(少名清十郎 神保安藝守 實能登畠山義隆二男 越中守山城主):始属上杉謙信 謙信没後信長公封越中半国廿六万石為北国押云々 佐々成政入国氏張住熊本成政家蒙勘初死云々 天正十七年巳丑大神君於濱松城被 名出賜下総国香取郡之内二千石地列交代寄合 慶長五年庚子関原之役依 釣名留守江戸城 後年於江戸没時六十五歳 法名玄皈居士」ー長男「氏則(少名清十郎 神保主馬介):室佐々成政女 天正二年甲戌十二月属伯父能登国守畠山義則之幕下」・二男「氏長(神保五郎兵衛):母信長公妹 継父家督領二千石奉仕 台徳公時代為寄合之列 大阪冬夏両御陣供奉有軍功 寛永二年乙丑四月五日没時五十一歳 法名宗英居士」ー「氏長の子 氏勝・氏房」ー「氏勝の子 氏信」ー「氏寿」 と続いた。

■神保氏は
「初代 頼尊 (山邉六郎)は武蔵国 の出身で 中村、土屋、土肥、新開、二宮の祖 である」と云う。
「五位庄」の赤丸村近くに今も「土屋村」が在る。神保氏「六代目時元」の子の「経忠」の時、始め「後醍醐天皇」に従軍し、「桃井直常」に従って軍功を挙げたが、その後敵対していた「足利義詮」(1330ー1367年)に従っている。「足利義詮」は「尊氏」の子で「桃井直常」の反対の立場に有り、「足利尊氏」側の貞治2年(1363年)3月の「二宮円阿軍忠状」は、越中守山城主が「経忠 (始二宮右京進 神保左衛門尉)」の時代に当たる。(✳「軍忠状」とは、戦果を報告して後に恩賞を貰う為の武将からの報告書に当たる。)
「斯波高経」が越中守護でその家臣の二宮氏が活躍した時に高岡守山城主「中村四朗左衛門尉」が「二宮姓」を授けられたか、縁組みにより「二宮」を名乗ったと見られる。

■ここで「観応の擾乱」の経過を確認すると、
正平5年/観応元年(1350年)に「観応の擾乱」が起きる。「桃井直常」は「足利尊氏」の弟の「足利直義」派の有力武将として北陸から入京し、正平6年/観応2年(1351年)の「打出浜の戦い」に勝ち尊氏・高師直らを追い払い引付頭人に補任される。尊氏と直義の抗争が再発し、上野で尊氏方の宇都宮氏綱・益子貞正に敗れ、尊氏に敗れた足利直義は降伏。直義が鎌倉で亡くなると桃井直常は行方不明になる。しかし、正平10年/文和4年(1355年)直常は直義の甥で養子の「足利直冬」を擁立して洛中を占拠した。以後も信濃・越中で合戦を続けたが、勢力は衰退し、鎌倉公方の「足利基氏」の保護を受けた。正平22年/貞治6年(1367年)基氏が没すると直常は出家、上洛して「足利義詮」(尊氏の子)に従う。尊氏側の「斯波高経・義将」父子が貞治の変で失脚して、直常の弟の「桃井直信」が越中守護になる。しかし翌、正平23年/応安元年(1368年)、「斯波義将」が幕政復帰すると「桃井直信」は越中守護を解かれて直常は再び越中で反幕府の軍事行動を開始する。建徳2年/応安4年(1371年)7月に直常は姉小路家綱の支援を受け飛騨から越中礪波郡へ進出して幕府方の能登守護吉見氏頼と「五位荘」(「足利義満」の時代には、現在の富山県高岡市伏木から福野町、福光町迄、拡がっていた。⇒《畠山文書》羽曳野資料叢書)で激戦を行うが敗北して、8月には飛騨へ撤兵し消息不明になったと云う。(※「花営三代記」参照)

■この由緒や経過から見ると、1363年は桃井方の勢力が衰えた時期で、この機会に「越中守山城主二宮右京進こと神保左衛門尉経忠」は桃井方から敵方の斯波氏・足利義詮側についた事が判る。今迄、守山城主の神保氏は神保氏諸流とされていたが、この系統について「神保氏と二宮氏は同じ」と言う見解は見られなかった。時代的、背景的に検討するとこの「越中守山城主二宮右京進こと神保左衛門尉経忠」こそ、「二宮円阿」と同時代の人物と推察できる。
又、この諸系図の中に別系統の「神保彦九郎茂政 生国越中」が有り、この系統は河内で活躍し、「信長の時に反逆して畠山氏が滅亡した後、秀吉公に仕え六千石を賜り、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従軍して千石を加増され、七千石を領した」とする神保氏系図が有る。

■【平姓良文流神保氏】
元々は秩父平氏の畠山重忠の家系。
「後白河上皇」の皇子「以仁王」の令旨に拠り「源頼朝」が挙兵した時(1180年)、畠山重能の息子の「畠山重忠」は本家の「河越重頼」に従って頼朝の平氏追討軍に参加した。関東の秩父平氏「畠山重忠」は頼朝に従って平家追討や奥州の藤原氏や源義経追討の合戦で軍功が有り、本家に当たる「源義経」の正妻の父の「河越重頼」や「重房」が粛清された後に、秩父平氏惣領の座を継いだ。「畠山重忠」は“武士の鑑”と称えられ、義経の妾の静御前が頼朝の御前で舞を舞った時にも鼓を打つ事を許されたと云う。重忠は正室に「北条時政」の六女を迎えているが、「北条時政」とその妻の「牧の方」は重忠を疎んで陰謀を巡らし、1205年には重忠の従兄弟の「稲毛重成」や「榛谷重朝」を懐柔して、重忠の嫡男重保、次いで重忠と息子の重秀を武蔵国二俣川で討ち果たした。(※「畠山重忠の乱」)
重忠の遺児の重慶も後に粛清され、この時、平姓畠山氏の嫡流は滅亡した。この後に、「畠山氏」の名跡は源氏の「足利義純」が「畠山重忠」の未亡人で北条時政の六女と再婚して継承し、この後は源氏姓の「畠山氏」になる。元々、「源頼朝」が旗揚げした時に、秩父平氏「畠山氏」の支援が有った事から名門の「畠山氏」を残した様だ。この婚姻で源氏系畠山氏の「神保氏張」は平姓神保氏の養子となり、畠山氏と神保氏の同盟が図られた。

(※「源義経」の正妻は秩父平氏「河越重頼」の娘。
⇒「川越氏」は「埼玉県川越市」所縁の武将。「源頼朝」の指示で娘は義経と婚姻したが、義経が反逆したとして父の河越重頼は頼朝に誅刹された。重頼の娘は義経と共に奥州に逃れて奥州でその子と共に亡くなったと言う。「義経記」の奥州落ちの際に同行したのは河越重頼の娘とも、平時忠の娘とも言われている。義経が逃亡すると義経の愛妾の「静御前」は頼朝に召し出されて舞を強要される。この時に鼓を打った人物は「畠山重忠」で在った。)

#【惟宗姓神保氏】
神保氏は元帰化人秦姓の末裔惟宗氏から出たとする。秦氏は京都の太秦にも名を遺す渡来氏族で「秦の始皇帝の末裔」とされ、機織り=秦氏として布造りの技術を伝えたとされる。「陽成天皇」の御代「秦宿禰永原」に賜姓して「惟宗朝臣」となる。永原明経博士となり子孫代々学者を出す。この一族から薩摩の「島津氏」、対馬の「宗氏」、越中の「神保氏」が出た。武門政治となり、神保氏は鎌倉に下り畠山氏に仕える。正平十七年初代鎌倉公方「足利基氏」に「畠山国清」が逆らって伊豆に逃れた時に遊佐、神保、斎藤等がこれに従った。(※「太平記」)
後に「足利義深」に従って上京し、「畠山基国」が越中を領有した時に越中に在国したと云う。

■「寛政重修諸家譜」には徳川に仕えた神保氏に三系統有り。(1)足利義深に従って上京した一族で代々大和に住み、茂政、茂勝等の「茂」を名乗っている。(2)橘氏から出て越中国宮崎城主山城守を初代として近江国甲賀山南荘に移り、後に徳川氏に仕えた。寛文七年、四郎右衛門が巡見使として越中に来る。代々八郎右衛門、四郎右衛門、三郎兵衛を名乗って、楠木正儀の子孫と称する。(3)守山城神保氏張の系統。(前記 参照)
(✳「越中郷土史」林喜太郎著 参照)

以上からすると越中の神保氏もいくつかの系統が有り、古くから立山山麓から富山市にかけて展開した神保氏は「惟宗姓神保氏」で、守山城を拠点とした神保氏は畠山氏の同族の「秩父平氏神保氏」であると推定できる。又、加賀藩時代に幕府巡見使として越中に入った「神保氏」は「橘姓」であることが判る。神保氏については頻繁に混同が有り、非常に判りにくい。

#【幕末の勤皇の志士「橋下左内」は南北朝時代の勤皇の志士「桃井直常」の後裔】
・福井松平氏の下で幕末に勤皇の志士として著名な「橋下左内」は福井市の足羽川と足羽山の間に在る「橋下左内公園」に墓所と顕彰碑がある。近くには「柴田勝家」と「お市」の墓が在るお寺も在る。橋下左内の家系は室町幕府の足利一族の桃井氏の後胤で、先祖の代で桃井から橋本姓に改姓したが、徳川親藩の福井藩士として一橋慶喜を将軍に立てる運動を展開した。橋下左内は江戸から京都へ登って、「桃井亮太郎」又は「桃井伊織」と名を変えて、現在の京都国際ホテル近くを寝城として盛んに暗躍した。だが、大老井伊直弼の弾圧で橋下左内等は捕縛され、「安政の大獄」(※1859年)で26才の若さで斬首された。

■源義家から10代後の源氏、桃井播磨守直常の長男の「直和」は千代ケ様城等を拠点として戦ったが、越中長沢の戦いで討死した。その子の「桃井直詮」(幼名を幸若丸)は足利氏の同族の斯波氏の所領の越前朝日町に逃れ、そこで育って「幸若舞」を編み出した。朝日町の隣の織田町の「剣神社」神官の末裔の織田氏はこの剣神社を氏神とした。「織田信長」はこの「曲舞 クセマイ」と云われた「幸若舞」を好んで歌い、踊ったと云う。「織田信長」は特にその「敦盛」と言う曲を好んだと云われる。「幸若舞」は全国に広がり、戦国武将にも踊られて、明治初め迄、越中の赤丸村、石堤村、福光町等でその舞手の「舞々人」が一子相伝で伝承したと云う。嘗て、赤丸村舞谷には「桃井直常」の三男が創建した「西大寺」が在ったが、現在は、高岡市木町に在る。
(※織田家は尾張守護の斯波氏に仕え、守護代を務めた。)






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