●「延喜式内社赤丸浅井神社」を創建されたと言う「文武天皇第二皇子 石川朝臣広成(後に高円朝臣 タカマドノアソン)」について、「続日本紀」、「新撰姓氏録」、「万葉集」等に詳しく掲載されている。
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■「越中国司大伴家持」の「延喜式内社赤丸浅井神社」への参拝(※「延喜式」)
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「延喜式内社国幣小社赤丸浅井神社」は「越中国司大伴家持」が天皇の名代として朝廷の勅使として「幣帛」を納めた神社で在った。
又、「延喜式内社赤丸浅井神社」は、「天皇家の皇室八神」の一柱の「高皇産霊神タカミウブスナノカミ」を祭神としており、この神は又、「大伴氏」・「佐伯氏」の祖先神とされる。
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■【石川朝臣広成】の歌は、「万葉集」には三首が掲載されている。若い頃、「大伴家持」と同様に「恭仁京 クニキョウ」で「内舎人 ウドネリ」の職に在ったと云う。(「万葉集」の解説)
(※「内舎人」は天皇や皇族の警備や雑事を担当した役職で九人が従事していた。)
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(※天皇は専用の「鵬輦ホウレン」と言う「鳳凰」が飾られた「輿 コシ」に乗られた。)
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■「延喜式内社赤丸浅井神社」は京都の門跡寺院で在る天台宗「聖護院」の末寺の「三社権現 川人山鞍馬寺」に併設された神社で、出雲系の「大国主神」の一族の「八河江比売 ヤガワエヒメ」と皇室八神の主祭神「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」を祀る。社殿には皇室の「菊紋」が付けられている。
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■赤丸浅井神社の墓地に在る「郎女」、「刀自」の墓標
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■「赤丸浅井神社」の由緒に登場する「元正天皇の二宮」は「続日本紀」に記載され、「万葉集」に因れば、天平十五年(743年)頃、内舎人の地位にあった。「続日本紀」では、天平宝字二年(758年)八月、従六位上より従五位下と成り、この頃但馬介と成る。同四年二月、「高円朝臣」を賜姓され「高円朝臣広世」を名乗る。
この人物は、文武天皇の次男で、母親は「石川刀自郎女」(イシカワノトジノイラツメ)で在り、藤原不比等が孫の「首皇子 オビトオウジ」を天皇にする為に、文武天皇が若くして亡くなられると娘の「宮子」以外の「紀竈郎女 キノカマドノイラツメ」と「石川刀自郎女」を「嬪と名乗らせない」として宮中から追放して、石川刀自郎女の皇子も臣下となった。しかし、元正天皇は「天皇の子は全て親王とする」と勅令を出して臣籍に降下した石川刀自郎女の子も「親王」とする事を宣言している。
(※「女帝の世紀」仁藤敦士)
元正天皇は文武天皇の姉で終生独身を通し、皇統譜上では文武天皇の中宮に擬制されて女帝になったとされ、聖武天皇の母親代わりになった。従って、聖武天皇は元正天皇の「吾子 アコ」で有り、聖武天皇を天皇に任じた即位宣命の宣読でも「吾子 ミマシ王」と読んでいる。
(※赤丸浅井神社前で小矢部川と庄川が合流していた場所を「阿光ケ淵」(※吾子淵)と呼び、現在もこの地域には「阿古下」と言う一族が住んでいる。)
「赤丸浅井神社」には、「元正天皇二宮御創建」と伝わるが、浅井神社の神域内の53ケ村の内の「高田島」の「五位庄神社」は「聖武天皇の勅願社」と伝わる事からも、この時代にこれ等の人達が後の「吉岡庄」に深く絡んでいたものと見られる。又、浅井神社に庵を結んだと言う白山を開いた泰澄大師は、浅井神社で元正天皇のいやさかを祈ったとも伝えられ、現在、井波別院瑞泉寺の客仏になっている元の「川人山鞍馬寺」の本尊「釈迦如来像」は井波別院でも「泰澄大師所縁の仏像」と云われている。元正天皇は度々、岐阜に行幸された天皇で、「養老の滝」も元正天皇の命名と云われる。
■「重要文化財 尾張徳川家 蓬左文庫所蔵 続日本紀」
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■「石川朝臣広成の系図」
(※「続日本紀」では「高円朝臣広成」と記され、「新撰姓氏録」には「高円朝臣廣世」と記されるが、「姓氏録」の「廣世」は誤記と見られる。)
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■「万葉集」に見られる「石川朝臣広成」の歌三首
①【家人に恋ひ過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば(万4-696)】
◇泉の里; 山城国相楽郡、泉川(今の木津川)流域の地。恭仁京の地。
内舎人として恭仁京に単身赴任していた時、平城京に残して来た家族を思いやる歌。恭仁京遷都は天平十二年(740年)。
②【妻恋ひに鹿か鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく(万8-1600)】
◇万葉集巻八の配列から天平十五年(743年)秋の作と見られ、恭仁京での作らしい。内舎人は天皇に近侍して警備などに従事した役職で、大伴家持も恭仁京で内舎人だった様だ。
③【めづらしき君が家なる花すすき穂に出づる秋の過ぐらく惜しも(万8-1601)】
◇なかなか逢いに行けないきみの家の穂を出したススキの様に秋の過ぎて行くのは惜しいもの。
■「行基」は聖武天皇が東大寺大仏の造営を祈願された時に、全国的な勧進を手伝っている。越中利波郡の郡司「利波臣志留志」はこの時に「米五千石」(※「東大寺要録」)を寄進して国司待遇に昇進し、この末裔の石黒氏が「累代、赤丸浅井城を居城とした」(※「赤丸名勝誌」)とされ、又、「利波臣志留志」が越中各所に開発した「東大寺庄園」の絵図には、「延喜式内社赤丸浅井神社に神田一段が寄進された事」が記されている。「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神「高皇産霊神」は皇室八神で在ると共に、「大伴氏」とその一族の「佐伯氏」の祖先神でもあるとされる。「赤丸浅井神社」の歴史には、「聖武天皇の弟、石川朝臣広成」、「越中国司大伴家持」、「利波郡郡司 利波臣志留志」等の氏族が絡んでいた事が分かる。又、「行基」もその墓標には、「本姓は高志氏」と記されており、「高志国」を形成した越中、加賀、越後、越前にも所縁が在った様で、越中石黒氏も「古事記」によれば、その祖先を「高志利波臣」とされている。
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🔽【高円朝臣広成】経歴
(※「新撰姓氏録」では「高円朝臣広世」と有り、徳川家康が尾張徳川家に遺した「続日本紀」では「高円朝臣広成」としている。)
【続日本紀】《国司補任》(wikipedia)
・天平15年(743年)頃[内舎人]
・天平宝字2年(758年) 8月1日[従五位下(越階)]
・時期不詳[但馬介]
・天平宝字4年(760年) 2月11日[高円朝臣広成に改姓]。2月20日[文部少輔]
・天平宝字5年(761年) 5月9日[摂津亮]。10月1日[尾張守]
・天平宝字6年(762年) 4月1日[山背守]
・天平宝字8年(764年) 正月7日[従五位上]。正月21日[播磨守]
・神護景雲2年(768年) 2月18日[周防守]
・神護景雲3年(769年) 6月9日[伊予守]
・宝亀元年(770年) 10月26日[正五位下]
■利波郡司の「利波臣」の名跡を継いだとされる「越中石黒氏」は元々、「藤原利仁将軍」を先祖とする「藤原氏」で在ると云われ、「加賀の林氏」・「富樫氏」の同族とされる。この一族は著名な「木曽義仲の倶利伽羅山の戦い」や「承久の乱」等にも参陣している。「赤丸浅井城」は当初、「元正天皇の二宮が在城」されて(※「肯搆泉達録」)、後には「越中石黒氏累代の城」で在ったと云う。「石黒氏の歴史の研究」によれば、「赤丸浅井城」は「木舟城」の「石黒光弘」の父の「石黒光景」の居城で在り、皇室庄園「越中吉岡庄」の統治に永く関わって来た一族の様で、「吉岡庄」は「保元の乱」で「後白河上皇」に没収される前は、「藤原摂関家長者 藤原頼長」の庄園で在った事から、元々、藤原氏で在る「石黒氏」が地頭としてこの庄園の管理に当たっていたものと見られる。(※奥州の藤原頼長の庄園の五庄は頼長配下の奥州藤原氏が地頭を勤めていた。)
「越中石黒氏の家紋」(※下は斉藤系藤原氏の家紋)
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