赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🔘 【加賀あわら市の大盗賊熊坂長範の伝承】北陸道各所に残る 「義経記」 ⇒加賀藩の記録 【三州奇談】 に記載される『大盗賊 熊坂長範伝承』と義経の奥州行き!!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「義経記」の奥州落ち経路





■「源義経」に討ち取られた大盗賊「熊坂長範」




■平安末期に加賀越前の境を中心に荒らし回った盗賊の頭と伝えられる。今もあわら市熊坂に隠し財宝などの伝説が残る。義経が幼少の時に金売り吉次と共に奥州落ちする際、長範を成敗したとの説もあるが定かででない。岐阜県にも長範伝説は多い。(※福井新聞)


■「義経記」では、義経主従が兄の源頼朝に追われて北陸路を奥州へ向かった時に、弁慶が義経を打擲したのは「五位庄の二位の渡し」での事とされる。
(※この「越中五位庄」は古代には「河合郷」と呼ばれて赤丸村には「川人駅」が在ったが、鎌倉時代には「越中吉岡庄」と言う「後白河上皇の庄園」で在った。この「二位の渡し」とは「赤丸浅井神社」の前に在った小矢部川の舟下りの乗場で在ったと言う。又、「赤丸浅井城」は藤原氏の「越中石黒氏」の居城で在ったと云う。)


「延喜式内社赤丸浅井神社」の拝殿には、巨大な「義経と弁慶主従の奉納額」が二枚、架けられている。


(※祭祀の日程は神社都合で変更される事有り。)

■石川県加賀市大聖寺から福井県境迄の広大な地域を『熊坂村』と呼び、石川県と福井県の境に在る「牛ノ谷峠」は通称「熊坂峠」とも云い、昔はここに住んだ大盗賊の「熊坂長範」の根城として峠を越える旅人の難所だったと地元では伝わっている。鬱蒼とした薄暗い森の中に在って、長い坂道を越えなければならない「熊坂峠」は、この峠を越える旅人にとっては難所とされた。






■「加賀市史」に「藤原利仁将軍」の系統の系図について検討しており、この「熊坂氏」は「疋田系斉藤氏」とされ、「源平盛衰記」に登場して、幼少の「木曽義仲」を助けた人物で、加賀の戦いで平家軍として戦って敵と成った義仲軍に討たれて非業の死を遂げた「斉藤実盛」は「河合系斉藤氏」とされる。「藤原利仁将軍」の母親は越前の人と云われ 、「斉藤実盛」はその末裔の藤原氏と云われる。「平家物語」でも「実盛」は「藤原氏から斉藤、林氏等が出た」と口上で述べているが、「藤原氏」から「加賀介」に成った系統は「加藤」と云い、「斎宮守」に成った一族は「斉藤」に成ったと云い、各々、「後藤」、「工藤」、「佐藤」等は藤原氏から出て、遠州では「遠藤」と云う。「越中石黒氏」や「宮崎氏」、「井口氏」等もその系統に成り、「宮崎氏」は信州から出ており、「井口氏」は近江の「藤原氏」(俵藤太=藤原 秀郷)の系統だとされる。しかし、「承久の乱」等の大戦では、富樫氏以外は天皇家に付いて戦っており、「藤原氏」の祖先の「藤原不比等」から出た一族として結束している。その中で、「加賀林氏」から出た「富樫氏」は幕府軍に加わり、以後、幕府の重臣として歴史に登場している。



■「加賀藩」に遺されている「三州奇談(加賀、能登、越中)」には、この大盗賊「熊坂長範」は加賀市大聖寺の熊坂村を本拠にしたと記載され、「加賀市史」はその詳しい系図を載せている。その中に「藤原氏系 熊坂氏」の系図が記載されている。又、「疋田系斉藤氏」の中には「宇田氏」が記載されており、「越中吉岡庄」に大和国宇陀郡から移り住んだ「宇多刀工」の分家筋とも云われる「宇田氏」が「藤原氏」として記載され、「宇田氏は宇多源氏佐々木氏流の分家筋」と云われている事と異なっている。しかし、「宇多刀工 初代宇多国光」は大和国宇陀郡から加賀に入り、後に越中に来たと言う系図記載の由緒とは符合している様だ。
(※偶然に、最近、「森田柿園蔵」とされる加賀藩の歴史家「森田柿園」の所蔵本を入手した所、この写本は柿園の祖父が手書きで遺したものと判明した。)





又、「加賀市史」記載の「河合系藤原氏系図」には、「河合」と言う一族が見られる。「赤丸浅井神社」に【「一条天皇」が勅使「川原左京」を遣わされて二本の勅使桜を御手植えされた】と伝承されるが、この時の「左京大夫」は「藤原道長」で在り、【白河天皇はこの庄園を京都の上賀茂神社に寄進された。】と伝わる所から、古来から「河合郷」と呼ばれた高岡市福岡町赤丸村は、この藤原一族の「河合一族」との密接な関係で在ったものか?
従来は、嘗て、小矢部川と庄川が「延喜式内社赤丸浅井神社」の前で合流して「阿光ケ淵」と言う広大な水郷を形成していた事から、「河合の里」と呼ばれていたと伝承されている。

■赤丸村の古代名は「川合郷」と云われ、「和名類聚抄」には「越中国 川合郷」と記され、元正天皇の時代に成立した「延喜式」では、この駅には都からの伝令を繋ぐ「馬」や「武具」が常備されたとされる。古くから「川合郷」と呼ばれたり「川人の駅」と呼ばれて来たが、一説には「合」を草書にした時に誤って「人」と書いたと説明されて来た。しかし、古代氏族の中に「川人部」と言う一族が「但馬国」に住み、川魚の採集を業としたとされている。「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺の「鞍馬寺」は「山号」を「川人山鞍馬寺」と名乗り、後にこの社僧は「川人他治馬」と名乗っている。











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