赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔘【富樫記➡富樫氏の加賀・越中支配】浄土真宗高田本山三門徒派 の「富樫一族」 ⇒加賀の一向一揆(石山本願寺)に滅ぼされた守護富樫政親!!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



■『蓮如』は加賀と越中を繋ぐ間道沿いの福光町の山中に「土山御坊」を設けて布教の拠点とした。

■石川県には「藤原利仁将軍の末裔」と伝わる「加賀の林一族」が在り、その一族は大きく繁栄して石浦、富樫等として現在も金沢市各地にその地名となって残っている。この一族は越中の石黒氏等とも縁組して中世の北陸の戦乱では国人領主達の主力として登場している。しかし、越前朝倉氏が地頭を努めていた福井県芦原町の興福寺大乗院の庄園「河口庄」に在った「吉崎」に蓮如が「吉崎御坊」を構えると、急激に拡大した浄土真宗門徒との勢力争いが激化する。蓮如は之を鎮静化させようと「御文」を門徒に示したが、過激な門徒衆は守護富樫氏と全面的な戦争になる。富樫氏は、主家の林氏が「承久の乱」で後鳥羽上皇側に付いて敗れたが、自らは鎌倉幕府に付いて勝利した為に、その後は富樫氏が勢力を持つ様になった。






■「加賀一向一揆」
蓮如は文明6年(1474年)~文明7年(1475年)迄「吉崎御坊」に滞在した。蓮如は親鸞の後継として北陸での布教に注力して、当初は守護富樫政親とも良好で守護家の富樫幸千代を倒す事にも協力した。蓮如は守護の保護を受ける事を期待したが逆に政親は本願寺門徒の勢いに恐れを為して文明7年には門徒の弾圧を開始した。その為に蓮如は「吉崎御坊」を退去し加賀の一向衆門徒は越中に逃れた。
しかし、「藤原氏の一族」の加賀の「富樫氏」の「富樫政親」と越中の藤原氏同族で越中利波郡の「石黒光義」が結び、真宗門徒の弾圧を開始した。
文明13年(1481年)には越中でも一向一揆が発生し、「石黒光義」は戦死した。この時に越中の一向衆は「五位庄」に集結したと云う。

🔽「浄土真宗本願寺坊官下間頼龍から五位庄赤丸村門徒への志納銀受取書」
(※「城端別院文書」富山県立公文書館)


富樫政親は加賀の一国支配を目指し、将軍家の支援を期待して9代将軍足利義尚の方針に従って近江の六角高頼の遠征に従軍したが、戦費の負担に不満を持つ国人領主達が越中から帰った門徒と共に反逆する。その結果、国人衆は長享2年(1488年)、富樫政親の代わりに一族の富樫泰高を守護に擁立して金沢市郊外の高尾城で政親を攻め滅ぼした。(長享の一揆)。之に対して将軍足利義尚は一向一揆の討伐を考えたが、突然の義尚の死で中止され、以後は加賀は正に「一向衆の持てる国」と成り、国人層は衰退して本願寺による加賀・越中の支配が行われる事になった。



■「富樫記」に見る「富樫政親の最後」
「富樫記」に因れば、浄土真宗の内には「高田本山派」と「本願寺派」が在るが、この両派の紛争に介入した富樫氏が「高田本山派」に有利な裁定をした為に、本願寺門徒衆の抗議活動が激化したとされる。加賀藩時代の書「北国記」には「富樫政親」は実は「高田本山三門徒派」で在ったと記載されている。(※「浄土真宗」には、「真宗十派」と呼ばれる分派が在り、三門徒派はその内の一派で本山は三重県に在る。富樫と一向宗の争いは同門の真宗派内の争いで在ったと云う。)





■「富樫政親」は反乱軍に攻められて、「金沢市の郊外で加賀の松任近くの高尾城」に籠城する。しかし、多勢に無勢で次第に追い詰められた富樫政親は女、子供の助命を敵将に要請して、敵将は紳士的にそれを受け入れて丁重に配所に送り届けた。それを確認した政親は、家臣と共に今生の名残の宴を催して、遂には腹を十文字に割捌いて最後を迎え、家臣が城全体に火を掛けて、一族郎党は城中で自刃した。
古い歴史書の「富樫記」は哀調を帯びた戦記物で、「人の哀れ」 を歌い上げ、随所に武将の歌等を盛り込んでいる。「太平記」や「平家物語」にも似て、「富樫政親」の最後を克明に記述している。

🔻「一向一揆」と織田信長の石山本願寺攻撃の様子を記録した「石山本願寺御助力日記」













【富樫記抜粋】
加州富樫の元祖「鎮守府将軍兼武蔵守藤原利仁」は武勇の人にて世皆北斗星の化身と言い伝う。其の子「斎宮頭叙用」其の子「加賀守吉信」其の子「加賀守忠頼」と相続き其の末葉は「斎藤」「林」「富樫介」とて三家に分かれ加賀越前を領す。其の庶流「進藤」「赤塚」「竹田」「加藤」等 皆北国に武威を振う。然れども今末代に至り 絶たる家多くして富樫計りは繁昌す。加賀の守護職を司る。忠頼の子息「加賀介吉信」と号す。其の子「富樫介家助」其の子「富樫入道家道 法名佛西」此の人木曾殿の御時越前燧城にて戦功あり。其の子「家経」に頼朝公より加賀国を賜り其の子「家直」「承久の乱」に大忠あり。其の子「泰家」弘安の乱に北国の嗣将たり。其の子「泰村」其の子「昌家」両代ともに建武の乱より四十余年武家随一の味方にして終に一度も宮方に帰服せず代々公方の御感書を蒙る。明徳年中山名が乱に昌家討死せしめ畢んぬ。 室町将軍家御代々富樫の家弥々繁昌に相続す。 然して近代に至り寛正の此の富樫介を「泰高」と号す。此の人中年より病身にて在京叶わず隠居して「中務大輔泰成」家督を継ぎ文明長禄頃在京して公方の近習に有りけるが早世有りて其の子政親若輩なれば家督相続の政道如何と申す人多かりける。然る処に「泰高」病気本復して再任あるべき由永享四年の頃京都の官領「細川右京大夫勝元朝臣」を憑み申され既に上意も宜しかりしを富樫家の老臣も【畠山尾張守持国】📌を頼み申し「政親」を引立て守護を望に訴訟申しければ則ち又「政親」に仰せ付けられけり。此れにより祖父「泰高」と嫡孫「政親」と常に不快に過ぎけるなり。 然る処に「洛陽山科本願寺蓮如上人」北国に下向し宗門を弘む。加賀国の諸侍諸民悉く此の法を尊崇し皆以て檀徒となる。又同門の高田宗(高田本山派)も当国に在りて宗旨を弘む。此の宗門、憤を発して本願高田の二宗諍論に及ぶ。既に訴論を重ねて国主の決断を請う。「政親」聞いて訴訟決断を遂げしめ高田宗の勝利とす。一向宗門徒等憤を発し富樫殿は則ち是れ法敵とて一揆を発し諸民一同に蜂起せしむ。「政親」則ち是を退治せんと謀を廻らす処に「公方義尚公」江州へ御出陣あり。「佐々木六角四郎高頼」御追伐の為 鈎の里に御陣を召さる。「政親」多勢を催して江州へ参陣し戦忠あり。公方の御感斜めならず。此の次でに加州一向宗の土民一揆退治の御教書申し賜り分国へ下向し近国の勢いを催さる。越前国堀江を始めて上意に随い「政親」は加賀国高尾の城に籠る。 長享二年六月上旬一揆等高尾(高尾城)に押寄せ日夜これを攻め同九日高尾落城し「政親」自害す。同晩景越前前口より注進の趣あり。堀江勢一千余人南江五百騎杉若藤左衛門三千余人都合五千余志比の笠松を大将とし昨八日の朝国境立花より乱入し近辺の在々所々を放火す。柵を振 要害を構えて 巳に陣取りせんとする処を押しの「大将安藤九郎定治」、「金森の玄英入道然」其の勢五千を五手に分ちて先勢一千余人「願正入道」大将にて大聖寺山を境 鯨波を揚げければ越前勢も堀江二千余人を将い軍立す。駈引不自由の地なれば馬には乗らず歩立になりて叫いて懸る。両方互いに矢軍して相引きに引く処を二陣の安藤が勢二千余人入り替えて責めければ一人も返り合わさず逃げるを「玄英入道」が勢 笠取山より落ち掛りて横合に散々に打ちければ越前勢数千討たれて残勢立花まで引退く。若し夜討や入らんずらんと二重柵を振 用心緊しく構え候とぞ告げたりける。然れども其の後「政親」切腹の事聞えければ越前勢も引き帰しぬ。
偖て「富樫泰高」は享禄四年迄存生にてありけるが加賀半国を治め居けるに享禄四年山科本願寺家「下間筑前」、同弟「民部」の二人加州へ下向し一揆を起す。合戦数度に及び「泰高」井に黒瀬・福田・松永・隅田・湯浅等を追い出し加賀一国を退治す。其の時泰高父子 越前へ牢人して朝倉を頼み天文三年人数を催し又加賀へ責め入ると云えども散々に打負け越前へ帰る。同二十二年「泰高」死去す。其の子「富樫の介」は「越前金津城主溝江大炊助長逸」を頼みて居ける。天正二年二月十九日「長逸」一揆の為に自害此の時富樫も腹切りて死す。辞世の歌あり「木草にもあらざる竹の世をさりて後は石とも誰がなすべき」ある説に曰く「政親」の妻は尾州熱田の大宮司友平息女巴女を或る公家の養子にして「政親」に嫁す。長享の乱に彼の妻尾州に帰る。大宮司則ち其の息女を[勢州高田宗一身田専修寺]に嫁す。是れ故政親彼の宗旨信仰の遺志を継ぐ者也。夫より六年して永正三年八月六日一身田より勢州尾州三州の諸末寺檀徒を語らい桑子の妙泉寺を大将にて越前へ発向す。北国諸檀徒一同して越州九頭龍河辺に於いて合戦す。此時本願寺方大将備後公昭賢討死す。夫より加州へ打入りけるが又勢州方悉く討負け本国へ引帰る。夫より二十二年して天文四年五月十一日「泰高」又一揆の為め自害す。泰雲寺と号す。 仰も富樫家崇徳院天治二年三月八日加州の守護となり下向の後長享二年迄繁昌なり。

📌「畠山文書」[越中絵図]の《赤丸浅井城》には「室町幕府越中守護」の【畠山持国】の記載がある。


🔽「富樫家文書」(※「京都大学」には、【富樫氏】が小矢部川上流の「越中国五位庄野尻」(※「富山県南砺市福野町野尻」)や、「加賀国山代庄」(※石川県山代温泉)等の「地頭職」を室町幕府から知行されていた記録が残る。

《福野町野尻は「旧波多野氏」の所領で在ったが、文和三年、「足利尊氏」によって富樫氏に与えられたと記載されている。》
【波多野氏】;富山県西部の石川県境の山麓を流れる小矢部川に沿って展開した「越中吉岡庄」(※高岡市福岡町赤丸周辺の庄園)は元、藤原氏嫡流の「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」の結果、「崇徳院」・「藤原頼長」の軍が、「平清盛」・「源義朝」の兵に襲われ、「後白河上皇」の「後院領」に編入された。「波多野氏」は「藤原秀郷」の玄孫にあたる「経範」が、はじめて「波多野」を称したが、「後白河上皇」と藤原摂関家長者「藤原頼長」が争った「保元の乱」では後白河上皇軍の源氏方として活躍した。次いで、「越中吉岡庄」を引き継いだ【後鳥羽上皇】が北条氏打倒を目指して旗揚げした「承久の乱」の時には、勝利した北条軍の関東御家人の多くが乱の恩賞地を得て、「波多野義重」は越前国比志庄に移った。この義重の流れは、かれが出雲守であったことから「波多野出雲」と称している。波多野出雲氏は中世を通じて各地に展開した。波多野一族の舞台は京都が中心であったが、波多野義重が【曹洞宗の道元和尚】を所領の越前国比志庄に迎えて【曹洞宗永平寺】を建立し、以後代々曹洞宗の庇護者になるなど宗教史の上でも大きな功績を残した。波多野出雲氏は京にあっては、六波羅探題評定衆を勤め、主に「西国成敗」を任務とし、訴訟裁判や六波羅の政務を担当する重職であった。波多野義重は「道元」を庇護し、その孫にあたる「波多野重通」は、時宗四条派の開祖である「浄阿上人真観」を庇護している。『浄阿上人絵詞伝』には、上人が「越中国野尻」で日蓮宗徒に襲われ、領主の「波多野重通」に助けられ九死に一生を得るという逸話が記されている。重通は時宗四条派の成立に大きな役割を果たし、真観の活動を支援した大檀那でもあった。時宗は越中の小矢部川沿いに拡がり福光町はその拠点の寺院が在った。
(※鎌倉時代に造られ、南北朝時代の正平八年に「越中吉岡庄」の「越中総持寺」に高野山の麓の河内国金剛寺から伝えられたと見られる「国指定重要文化財木造千手観音座像」の「胎内名」には、「後鳥羽上皇の法名」を始めとして多くの「時宗」の署名がある。)
 元弘元年(1331)八月、「越中吉岡庄」の領主の「後醍醐天皇」は突如、京都を出て奈良に行幸して、倒幕勢力結集のた為に奈良の僧兵の軍事勢力を結集した。元弘当時、波多野氏は幕府方の六波羅の指揮下、鎌倉御家人の在京人として活動している。以後、波多野出雲氏は室町幕府の六波羅評定衆の一員として、京都で活動している。この時期に、鎌倉幕府の評定衆であった「飯尾氏」も、室町幕府の評定衆をつとめている。「飯尾氏」は「越中射水氏」の末裔で在ったが、連歌の「飯尾宗祇」は、「室町幕府第三代将軍足利義満」が創建した「相国寺」で出家して「室町幕府御糧所越中五位庄」を訪れて歌を残している。

《さとのなを こんかきくけこ ごえのしゃう  宗祇》



🔽この時期に、「延喜式内社高瀬神社」が立地する「東大寺庄園高瀬庄」(※「富山県南砺市井波町」)は、「足利尊氏が東大寺へ寄進した庄園」で有り、「南北朝~室町時代の成立」としている。
南北朝時代の末期には、越中の北西には、南朝の【後醍醐天皇】の庄園【越中吉岡庄】が在った為に、敵対した「足利尊氏」は、その隣接地の現在の南砺市の位置を侵略して「東大寺八幡宮領」として寄進している。
(※「東京大学資料編纂所」、「山内家文書」)






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