赀䞞米のふるさずから 越䞭のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進垳」の真実、富山県高岡垂犏岡町赀䞞村の消された歎史⇒「越䞭吉岡庄」から「五䜍庄」ぞ

🍀🌞🌿 【高岡垂犏岡町赀䞞】の藀原氏の文化⇒【藀原道長】.【藀原頌長】ず「越䞭吉岡庄赀䞞村」の「鞍銬寺ず48坊」 

2021-04-19 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡åž‚犏岡町赀䞞村















■「越䞭吉岡庄」(※富山県高岡垂犏岡町赀䞞の赀䞞浅井神瀟を郷瀟ずした藀原摂関家庄園)は、「藀原摂関家長者藀原頌長」の庄園で圚ったが、「保元の乱」で「埌癜河䞊皇」に敗れお敗死しお、その庄園は「埌癜河䞊皇」の「埌院領」ずなった。「藀原頌長」は「藀原道長」の埌裔に圓たる。

◎[藀原道長の系図]  
【道長---頌道---垫実---垫道---忠実---頌長】 



【人車蚘】(※近衛家文曞)に蚘茉される「越䞭吉岡庄」




 「越䞭吉岡庄」の領䞻だった「藀原頌長」の先祖は「藀原道長」になる事から、道長時代から吉岡庄は摂政藀原道長の荘園だったのかも知れない。ちなみに「藀原頌長」は先祖の名前の「埡堂藀原道長・宇治殿藀原頌通の埡名字の䞀字」を貰っお呜名されたず云う。




  ※赀䞞浅井神瀟䜜成






■『䞀条倩皇』※圚䜍幎幎


●「越䞭吉岡庄の歎史」

南北朝時代迄「越䞭吉岡庄」ず呌ばれ、埌には「五䜍庄」ず呌ばれた皇宀盎蜄領荘園の䞭心地の赀䞞村には䞉瀟暩珟圢匏の「元正倩皇二宮埡創建」の「延喜匏内瀟赀䞞浅井神瀟」が鎮座しおいる。又、過去には、毘沙門倩を本尊ずした「川人山鞍銬寺」が有り、「赀䞞浅井神瀟」呚蟺には四十八の寺院が有ったず云う。その近くの山䞊には「赀䞞浅井城」があった。「赀䞞浅井城址」は平成17幎11月1日に高岡垂ず犏岡町が合䜵する迄は「西砺波郡」ず呌ばれた地域の「赀䞞村」に有る。た「矩経蚘」の底本にある「五ゐの城」(※小孊通版「矩経蚘」蚻蚘参照)はこの「赀䞞浅井城」を指しおいる。
奥州ぞ萜ちる矩経䞻埓が二䜍の枡しで疑われ、匁慶が扇子で矩経を打擲したのは「赀䞞浅井城」の前に有った小矢郚川の「二䜍の枡し」埌の五䜍の枡しでの出来事である。この城は藀原氏を名乗っおいた砺波臣志留志の末裔の石黒氏が居城ずし、鎌倉時代には矩経の正宀川越氏の嚘ず同じ「秩父平氏」ずされる䞭山氏が居城ずしおいた所だ。その昔、赀䞞村には京郜の「鞍銬寺」が勧請されおおり、珟圚も赀䞞地内には「鞍銬寺 アンバむゞ」ずいう地名も残っおいる。源矩経が幌少の牛若䞞の時代に過ごした鞍銬寺の分霊が奇しくも赀䞞村に勧請されおおり、その「越䞭吉岡庄」埌の五䜍庄を通過した矩経・匁慶䞻埓が赀䞞浅井神瀟の前の「二䜍の枡し」で怜問に䌚い難枋した話が残るのも䜕かの瞁があったのだろうか
※「越䞭吉岡庄」に鎌倉時代に来たずされる「浅井城の䞭山氏」は、「藀原氏」、「源氏」ず名乗る䞀族も圚る。
※「赀䞞名勝史」参照

●「五䜍庄赀䞞村に圚った寺院矀」
浅井神瀟呚蟺には圓初は「川人山鞍銬寺」の四十八坊が有ったが、南朝の衰退により䞃坊になり、倩正八幎瀟殿寺坊烏有に垰し、䞃坊も亊四散し、東坊ひずり焌跡に草瀟を結び奉仕を続けた。明治維新埌、知識匕は停止、神仏分離で「東坊西宝院」は明治幎埩食しお神官ず成り※明治六幎䞡郚神道廃止の倪政官垃告、瀟栌制定に際しお村瀟に列せられたが明治十四幎郷瀟に昇栌。明治䞉十二幎末瀟十䞉瀟を合祀した。 「富山県神瀟誌」参照

赀䞞村に圚ったずいう寺院花尟村含む
総持寺、西倧寺、聖安寺、性宗寺浄光寺、長善寺、宗泉寺明芋寺、長安寺、善宗寺、法筵寺、倩景寺、長光寺、西宝院東坊、氞賢寺、超願寺 ※「川人山鞍銬寺」の玉蔵坊、芳念坊、寶仙坊、宥坎坊、玄皆坊、寶池坊が䜕れかは䞍明。明治に建立された霊寿寺は䞭山劙心尌が奉仕。

・宗良芪王開基の高岡博劎町に有る「越䞭宮安逊山極楜寺」も元五䜍庄赀䞞村の極楜谷に圚った。※「越䞭宮 極楜寺由緒」参照

■赀䞞村には延暊幎796幎藀原南家の「藀原䌊勢人」※藀原䌊勢人は東寺の造営総指揮者で同時に建立された西寺の総指揮者は坂䞊田村麻呂。が私人の寺ずしお創建したず䌝わる京郜の「鞍銬寺」の分寺が盞圓昔から勧請されおいた様だ。この寺は珟圚は犏岡町䞀歩二歩地内に移り名前も「法筵寺」ずなっおいるが、この寺が䜕時赀䞞村に創建されたかはハッキリしない。この寺の䜏職は「鞍銬」ず名乗り、代々「薬王」ず蚀う秘䌝の薬を調合し、王所は「檜扇」を䜿甚しおいた。※赀䞞浅井神瀟の神官にも「川人久良磚」ずいう名前が残されおいる。
埌醍醐倩皇第八皇子の宗良芪王が勧請されたずも䌝わるが、赀䞞浅井神瀟の瀟䌝では初代瀟僧の行基により開かれた埌に癜山山䌏の泰柄が境内に庵を結んだず䌝わる。ずすれば、この寺の由緒はもっず叀く、恐らく「藀原氏所瞁の寺」ずしお勧請されたものず考えられる。京郜の鞍銬寺は近くに有った貎垃犰神瀟の神が藀原䌊勢人の倢枕に立ち、芳音ず毘沙門倩を祀る鞍銬寺の創建を促したず䌝えられ、京郜垂巊京区鞍銬本町の貎垃犰神瀟の近くに鞍銬寺を創建したず云う。石黒氏が居城ずした犏岡町の朚舟城にも貎船神瀟が勧請されおおり、赀䞞村の川人山鞍銬寺は石黒氏が勧請したものず考えられる。
【蚻】朚舟城は江戞期に起こった倧地震で倒壊し、前田氏の䞀族が圧死した為、城䞋を珟圚の高岡垂朚舟町に動かしたず云う。



■「赀䞞浅井神瀟の䞀察の勅䜿桜」ず「藀原道長」 
赀䞞浅井神瀟に䌝わる所に拠れば、昭和初期迄残されおいた「勅䜿桜」の巚朚が神瀟拝殿の巊右に各䞀本有っお、「庚申桜」「遅桜」ずも呌んだ埡神朚であったず云う。神瀟由緒に拠れば、この桜の巚朚は䞀条倩皇圚䜍986幎1011幎の時に党囜的に蝗の害がヒドく、倩皇は「川原巊京」を勅䜿ずしお赀䞞浅井神瀟に遣わされ、この勅䜿のお手怍えの桜が昭和初期迄生き残っおいたのだ。幎近く生き残っおいた蚳で、五䜍庄ではこの桜が開花するのを埅っお田怍えの準備に入ったずいわれる。枯死した桜の朚で額を䜜り、今も拝殿には巚倧な桜の写真が懞っおいる。地元ではこの桜の朚に因んで「桜朚」ず名乗る家も数軒残っおいる。高岡の衆埳山総持寺の囜指定重芁文化財の千手芳音像ず総持寺来歎に぀いお高岡垂史の誀りを匷烈に批刀しお「ある莋䜜ものがたり」を発刊された高岡垂の歯科医垫で斉藀茂吉のアララギ掟の詩人でもあった桜朚成䞀氏はその䞀族で、この家にはこの「勅䜿桜」の写真ずその巚朚の䞀郚が今も保存されおいる。
だが、䜕故赀䞞村に倩皇が勅䜿を遣わすようなかくも重芁な瀟寺が建おられたものか そもそも「川原巊京」ずはどんな人物だったのか 「川原」ず蚀う姓は藀原氏には有るのだろうか 䞀条倩皇は、母が藀原道長の姉の詮子である事から藀原氏を重甚しおおり、幎に若くしお即䜍される。幎氞延元幎にはあの藀原氏党盛の時代を謳歌した藀原道長が「巊京倧倫」ずいう京郜守護の圹職に就いおいる。又、この幎に藀原道長は歳で巊倧臣源雅信の長女倫子ず結婚し、倫子の実家の土埡門第に䜏んだ。この時、道長は埓䞉䜍巊近衞少将ずいう未だ䜎い官䜍だった。埌に、藀原道長は藀原氏の寺の「法成寺」を京郜垂内に建立したが、この旧地は「京郜垂䞊京区河原町荒神口西入ル」で垂バスでは「河原町通りの荒神口䞋車」京郜埡所隣りずなっおいる。これに因み、藀原道長は「法成寺殿」ず呌ばれる。この寺院は広壮な芏暡であったが火灜に遭っお南北朝初期に廃絶した様だ。※法成寺の基瀎は圓時、荒れ果おお倒壊した平安京の壮倧な門の「矅生門」の瀎石を移蚭したず云われる。では、䜕故お手怍えの朚が「桜」だったのだろうか 朝廷には「右近の橘」ず「巊近の桜」が怍えられおおり、朝廷に擬しお栌調の高い神瀟などにも「右近の橘」ず「巊近の桜」が怍えられたらしい。藀原道長が京郜の東半分を統治する圹職の「巊近倧倫」ずいう官䜍に就いおおり、その為に「巊近の桜」を「お手怍えの桜」ずしたものかも知れない。又、浅井神瀟は元々空海の思想を継ぐ䞡郚神道で、赀䞞村には「京郜鞍銬寺」が勧請されお「川人山鞍銬寺」が建立され、代々藀原摂関家が信奉した京郜の䞊賀茂・䞋鎚神瀟が近くの赀䞞村隣地の加茂地内に勧請され、「鞍銬寺」を創建した「造東寺長官藀原䌊勢人」が信奉した鎚川の䞊流に圚る「貎垃犰明神たかおかみのかみ」が小矢郚川支流で䞊流域にあたる犏岡町倧滝地内に勧請されお朚船城に「貎船瀟」が建立されおいる。賀茂瀟-貎船瀟ヌ鞍銬寺は元々関連の匷い神瀟、寺院で有り、䞀時期は貎船瀟の埡神䜓が䞋鎚瀟に祀られた時期も有るず䌝わる。賀茂神瀟では叀く「桜䌚」ずいう恒䟋の法䌚行事が有り、賀茂神瀟ず「桜朚」は密接な関係であった。(※「吉蚘 承安四幎九月五日」「叀事類苑 神祇郚 61 囜立囜䌚図曞通蔵」参照)埓っお、浅井神瀟の埡神䜓「高皇産霊神 タカミりブスナノカミ」ず密接な賀茂神瀟の行事を持ち蟌んで「桜朚」を怍暹したものだろうか?
(※京郜の「賀茂神瀟」は䞊・䞋二瀟が圚り、合わせお「賀茂埡祖神瀟」ず称す。䞊は賀茂ず曞き、䞋は鎚ず蚘す。埡神䜓:䞋瀟 埡祖神 【賀茂建角身呜 西殿】【玉䟝媛呜 東殿】別雷神母、【倧巳貎神倧囜䞻呜】別雷神父)、䞊瀟 【賀茂別雷神】八咫烏、高皇産霊神の苗裔) 。
「赀䞞浅井神瀟」の埡神䜓は【高皇産霊神】ず倧囜䞻神の孫の囜忍富神の劻【葊那陀迊神(別名:八河江比賈神)】。
賀茂瀟には摂瀟、末瀟が倚くあり、䞋鎚瀟の立地する糺の森近くには高野川ず賀茂川が合流しおその地点には叀くから「河合神」が祀られおいるが瞁起は解らないず云う。又、叀くは赀䞞村浅井神瀟の近くに叀代道の「川合の駅」が圚ったず䌝わり、この堎所は「庄川」ず「小矢郚川」の合流地点で圚ったず䌝わる。この堎所に「河の江の神の八河江比賈神」を祀ったのは京郜に倣ったものだろうか?
 
■「藀原道長」は倪皇倪后、皇倪后、䞭宮を皇宀に送り蟌み「この䞖をば我が䞖ずも思ふ望月の欠けたるこずのなしず思ぞば」ず「望月の歌」を詠み、若い倩皇の政暩で暩力を恣にしたずいう。
《※赀䞞浅井神瀟には「十六倜参り」ずいう習慣が叀くから有り、月の出を埅っお歌詠み等の「法楜」を神前で行ったものらしい。珟圚も拝殿には「舞句」ず呌ばれる歌の掲額がかかっおいる。》
藀原氏の平安時代䞭期の著名な歊将の藀原秀郷は京郜近郊の田原に䜏しお「俵田原藀倪」ず呌ばれたず云う。地名ず圹職で読んだずすれば、「川原巊京」ずは「河原町の法成寺を建立した」「巊京倧倫」の意味ではなかったのか 「巊京」は名前では無く圹職であり、「川原」は「河原」で有ったなら、この人物は「藀原道長」その人の「通称」ではなかったか巊京倧倫に就任したのは道長の埌では
≪巊京倧倫≫
藀原道長 幎
藀原遠基藀原垫茔六男
藀原遠床藀原垫茔䞃男幎 
藀原胜信藀原道長四男幎
ずなっおおり、藀原道長の四男も巊京倧倫ずなっおいるが、幎代が䞀条倩皇の時期から倖れる。
「藀原道長」は通称「法成寺殿」ず呌ばれたず云われ、その寺の有った「河原町」から「河原町の巊京倧倫」ずされおいたものではないだろうか
≪※河原町通りに源融の邞宅跡の枳殻邞(きこくおい)・枉成園(しょうせいえん)が有るが、この屋敷に぀いお「今昔物語」に物語が茉っおおり、ここは圓時「河原の院」ず呌んだず有る。≫

■寛匘3幎1006幎䞀条倩皇の時、「藀原道長」の日蚘の「埡堂関癜蚘」にこそ蚘茉は無いが「暩蚘」には「䜜今物忌、臚時祭䜿巊京倧倫云々。」ず蚘茉されおおり、この圓時の旱魃や悪疫の為に党囜の神瀟に奉幣䜿を掟遣しおいた事が「埡堂関癜蚘」に蚘茉されおいるから、藀原道長を代理ずしお(圓時の巊京倧倫を)掟遣しおいたのかも知れない。※「倧日本資料」参照 
【蚻】日本の埋什制床で定められた圹職で郜の叞法、行政、譊察を担圓した「京職」が有った。京内の東偎玉座から芋お巊、西偎玉座から芋お右を担圓した者はそれぞれ「巊京倧倫」、「右京倧倫」ず云う。

■賀茂神瀟ぞの参詣は摂政関癜にずっおは公的な行事で、円融倩皇(圚䜍969984幎)の倩犄二幎(971幎)摂政藀原䌊尹が参詣した時を初めずしお恒䟋の行事になったず䌝わる。前䞉日は神銬が走り、圓日は先ず䞋瀟に拝瀌し䞊瀟に向かう。賀茂瀟には定䟋祭ず臚時祭があり、倩皇や摂関家の拝瀌行事は埌鳥矜院の時代たで続いたずいう。賀茂神瀟の行事ずしお今も競銬の神事が行われおいる。藀原道長や歎代の藀原氏長者も参詣しおいる。
「続叀事談」に拠れば、「堀川院皇子オ゜クむデキ絊ケレバ癜河院ナゲキ絊ヒ---ハラミタマむテ-賀茂神に男子であるように祈った凊、某女が来お生たれるのは男子で右のお尻にアザがあるず予蚀しお消えたず云う。」この時の賀茂神の神嚁に癜河院は寛治四幎(1090幎)賀茂䞊䞋神に䞍茞田六癟䜙町を寄進しおいる。(※「癟緎抄 五 堀川」)この埌、「越䞭吉岡庄」は䞊賀茂瀟に寄進されたず云う。 寿氞䞉幎(1184幎)には埌癜河院庁からの䞋文で加賀囜金接庄ず越䞭囜新保埡厚に察しお頌朝が乱暎狌藉を犁止しおいる。
(※「賀茂蚻進雑蚘 䞋 神領」)【蚻】「叀事類苑神祇郚 吉川匘文通発行」参照
 




■『延喜匏内瀟五䜍庄五十䞉ケ村総瀟郷瀟赀䞞浅井神瀟』の「埐蝗際」は 毎幎六月第䞀日曜日 十時より挙行されたす。




■藀原氏ず荘園-「富山県西郚に展開しおいた藀原氏の寺の東犏寺領」

もう䞀方の藀原氏の寺ずなっおいた「東犏寺」は越䞭で「河口保、四箇保、四箇荘、曜根保、東条保、氷芋荘、宮島保、八代保」ず呌ばれた氷芋、石動山麓、小矢郚川河口から新湊、小矢郚垂の宮島、倧島町の曜根䞀垯を荘園ずしお保有しおおり、氷芋垂の文化財に指定されおいる西念寺の土地の寄進状には氷芋の八代荘の䞀郚ず、越䞭五䜍庄の土地を亀換した蚘録が有り、「越䞭志城」には「五䜍庄はか぀お氷芋の阿尟城䞻の菊池氏の所領だった」ず蚘茉されおおり、菊池氏は元寇の時に九州を防衛した藀原氏の菊池氏の末裔であり、氷芋の八代荘の八代氏ず菊池氏は姻戚ではなかったかずいわれる。八代氏は東犏寺領の荘園を管理しお勢力を䌞ばし、埌には胜登畠山氏の重臣にも加えられおいた。菊池氏も八代氏も菩提寺は「東犏寺」だず云う。
【蚻】東犏寺は藀原氏長者「九条藀原道家」によっお1255幎に完成し、東倧寺ず興犏寺の䞀字を取り「東犏寺」ず名付けられた。鎌倉幕府の摂家将軍「九条頌経」の父 「九条藀原道家」は富山県小矢郚垂の宮嶋郷を庄園ずしお所有したが、埌に囜庫に玍めおいる。※「鎌倉遺文」



■氷芋森寺呚蟺は元八代氏の勢力圏で、八代氏ず氷芋阿尟城の菊池氏は同族で有ったず云う。八代氏の所領の森寺の土地所有者が五䜍庄に土地を所有しおいた事が「氷芋垂の重芁文化財」の文曞から刀る。菊池氏、八代氏は䜕れも東犏寺を菩提寺ずする藀原氏だった様である。織田信長は菊池氏ず八代氏に連名で曞状を発絊しおいる。




■恐らく、呚蟺が殆ど藀原氏所瞁の荘園で、石黒氏利波臣自䜓も藀原氏を名乗っおいたから、叀くから越䞭吉岡庄は藀原氏の所領だった可胜性が倧きい。奥州の藀原氏も呚蟺の荘園を藀原氏長者に寄進したず云われるから、恐らく、利波臣も藀原氏長者の藀原道長や藀原頌長等の氏長者ぞ寄進を欠かさなかったであろう事が掚察できる。保元の乱で藀原氏長者の藀原頌長が砎れ、越䞭吉岡庄は埌癜河䞊皇の荘園の「埌院領」ずなっおいる。石動山も埌癜河䞊皇の寺の「長講堂領」ずなり、䞀垯は藀原氏から倩皇家に枡ったものずみられる。
藀原道長が担圓した「巊京倧倫」ずいう職は京郜の「巊京」を担圓しおいた。京郜の鞍銬寺、貎垃犰神瀟も京郜の巊京に有り、空海ずも密接な「東寺」を長官ずしお造営した藀原䌊勢人も藀原氏で有る。利波臣は埌裔の石黒光久が藀原氏の林氏ず婚姻しお藀原氏を名乗ったず云う。(【蚻】石黒氏系図参照 )
 石黒氏が勧請したずしおも、䜕故、その寺が鞍銬寺であったかを掚枬するず藀原道長の浅井神瀟ぞの勅䜿掟遣の意味も掚枬できる。藀原氏創建の鞍銬寺を藀原氏の石黒氏が赀䞞に勧請し、その際に藀原氏ず密接な䞀条倩皇は叔父で巊京を担圓した藀原道長を勅䜿ずしお掟遣したのではないか
987幎は道長が結婚した幎でも有り、道長はあちこち旅行をするのが奜きだったず䌝えるから、もしかしたらこの勅䜿参向は結婚したばかりの道長の旅行であったものか道長は若くしお呚蟺に認められ、巊倧臣の嚘婿ずしお、䞀条倩皇の叔父ずしお、将来の藀原氏長者ずしお有望だった様だ。 その代参の際に怍えられたのが赀䞞浅井神瀟の「勅䜿桜」だったず思われる。平安京では郜ができた頃から官が䞻催する「加茂祭り珟圚の葵祭り」があり、藀原道長は加茂神瀟を厇敬しお床々参詣したず云う。赀䞞村から隣地の加茂村に至る䞀垯には、昔、䞊加茂神瀟、䞋加茂神瀟が有り、珟圚はそれぞれ鳥倉神瀟ず舞谷八幡宮に合祀されおいるず云う。䞋加茂神瀟に奉玍されおいた舞が、南北朝時代の南朝の歊将「桃井盎垞」の孫が考案した「幞若舞」で、この舞台があった事から地名が「舞谷村」になったず云う。
≪🔻舞谷村には、「桃井盎垞」の䞉男が「西倧寺」を創建しおおり、この寺は高岡垂朚町に珟圚も遺っおいる。≫
䞡加茂瀟は南北朝時代に宗良芪王が京郜を懐かしんで勧請されたず䌝わるが、赀䞞浅井神瀟に勅䜿ずしお遣わされたのが若き日の藀原道長であったずすれば、䞡加茂瀟もこの時代に藀原氏によっお勧請されたものかも知れない。藀原氏の祖は倩の岩戞神事に出おくる䞭臣氏ず云われ、元々は鹿島神宮、春日倧瀟を氏神ずする祭祀を叞った䞀族である。※「倧鏡」参照

【蚻】加茂氏の祖は高皇産霊神。高皇産霊神は倩照倧神日向接姫が皇祖神ずなる前の皇祖神。熊野の加茂氏が京郜に出お加茂神瀟を興した。 加茂氏には幟぀かの流れがあり、枡来氏族の秊氏ずも密接。  修隓道の祖の「圹小角」の拠点の葛朚や、熊野修隓道の熊野ず密接で、五䜍庄に䞊・䞋加茂神瀟が招臎されたのも修隓勢力の拡倧や石黒氏の出自によるものず考えられる。赀䞞浅井神瀟の祭神は「高皇産霊神」であり、その関連で䞡加茂瀟が勧請されたものず思われる。
赀䞞浅井神瀟は幎より斜行された「延喜匏」※埋什制床の现則 の「神名垳」に蚘茉の神瀟であり、赀䞞村にはその「兵郚省諞囜駅䌝銬条」に有る「川合駅」川人駅が有り「駅銬五疋」が配眮され、砺波、射氎、婊負、新川には䌝銬ずしお各五疋が配眮されおいたず云う。銬の他には匓、矢等の歊具も配眮され、亀通の連絡・結節点であるず同時に、治安を担圓する官庁の圹割を果たしおいたず考えられる。藀原道長は延喜匏斜行埌に神名垳蚘茉の赀䞞浅井神瀟に勅䜿ずしお参向した事になる。




■越䞭吉岡庄赀䞞村ず東倧寺倧仏建立
石黒氏の祖の利波臣志留志は、聖歊倩皇の囜家事業であった東倧寺倧仏造営幎に開県䟛逊の際に米五千石東倧寺芁録を寄進し、又、荘園100町歩も寄進しおいる。
【蚻】越䞭囜瀪波郡井山村墟田地図 神護景雲元幎 正倉院蔵 に拠るず「井山村地合壹䌯貮拟町」※町歩
ず有り、砺波郡十二郷の䞀぀の「斌保野」※倧野郷に圚った荘園らしい。  
藀原氏は興犏寺、東倧寺ず密接であり、埌にはこの䞡寺の䞀字を取り「東犏寺」を建立しおいる。藀原道長の姉詮子の子に圓る䞀条倩皇が利波臣勧請の川人山鞍銬寺に勅䜿を掟遣した背景もこの蟺に有りそうである。珟圚も「東倧寺お氎取り行事」の読経に「倧仏造営の際に米五千石を寄進した利波臣志留志」ず名前が読み䞊げられおいる䜍に圓時の利波臣ず朝廷、東倧寺、藀原氏は密接で有ったず掚察できる。ちなみに、利波臣志留志が劂䜕に重芁な圹割を果たしたかは、以䞋の寄進者の名簿を芋れば刀る。この内容を芋れば、寄進者に暩力者の藀原氏の名前は無く、砺波臣志留志偎の事情も有ったで有ろうが、埌の吉岡庄が藀原氏によっお所有され、利波臣志留志はその䞋呜により寄進した可胜性が倧きい。

●[東倧寺芁録]蚘茉の東倧寺倧仏造営の際の事業内容
【材朚知識 五䞇千五癟九十人、圹倫 癟六十六䞇五千䞃十人、金知識 䞉十䞃䞇二千䞃十五人、圹倫 五十䞀䞇四千九癟二人 
財物を加え奉れる人
「利波志留志」 米五千石、「物郚子嶋」 銭䞀千貫、車十二䞡、牛六頭 、「小田根成」 銭䞀千貫、車䞀䞡、鍬二癟柄、「田蟺広浜」銭䞀千貫、「染郚䌊波」 商垃二䞇端、「河俣人麻呂」 銭䞀千貫、「甲賀真束」 銭䞀千貫、「陜候真身」 銭䞀千貫、牛䞀頭、「板茂真釣」 銭䞀千貫、「倧友囜麻呂」 皲十䞇束、屋十間、倉五十䞉間、栗林二町、家地䞉町 自䜙の少財は録さず】

🔻倧口の寄進者は「利波志留志」だが、この埌にも荘園町歩井山村墟田地図町歩を寄進しおいる。知られた氏族では物郚氏、倧友氏が芋られるが、倧口の寄進をした人は少なかった様だ。越䞭の東倧寺荘園の「石粟荘」の図面に「浅井神䞀段」ず衚瀺され、砺波臣志留志が倚くの荘園を開発しお寄莈しおいた事から、この東倧寺荘園の䞀郚を砺波臣志留志ずの繋がりが匷い赀䞞浅井神瀟ぞの奉玍米ずしお東倧寺が寄進したものかも知れない。







■【衆埳山総持寺】ず藀原氏


◎高岡垂関町の衆埳山総持寺の䌝承は 【玀元千六癟六十六幎1006幎に河内囜より瞜院ずいう雲氎赀䞞村に来り䞀宇を建立し次第に䞃堂䌜藍を建立し芳音寺ず称し芳音像を安眮せり。】ず蚀われおおり、これが真実ならば総持寺は䞀条倩皇・藀原道長の時代に勧請されおいる。瞜院ずいう雲氎が河内囜のどの寺からやっお来たのか藀原道長や䞀条倩皇ずどんな関係が有ったものか道長は加茂瀟、貎垃犰神瀟、熱田神宮、䌊勢神宮、吉田神瀟等ず共に芳音寺も信仰しおいたず「埡堂関癜蚘」に茉せられおいるから、この総持寺も藀原道長の信仰によっお元は京郜から勧請されたものかも知れない。「倧日本資料」寛匘元幎十月二十二日➡※東京倧孊史料線纂所) には藀原氏の寺の「興犏寺」に぀いお「法盞宗兌真蚀宗」ず䜆し曞きが有り、珟圚、高岡垂博劎町に圚る総持寺も圓初は興犏寺系の寺ずしお吉岡庄(赀䞞村)に創建されたものかも知れない。珟圚、衆埳山総持寺は高野山金剛峰寺の末寺だが、囜指定重芁文化財の朚造千手芳音坐像が䌝来したず䌝わる河内金剛寺は高野山の「別院栌」、仁和寺を「本寺」興犏寺を「本家」ずする寺院であり、金剛寺犅恵の垫匠の文芳は東寺から移っおきおおり、埌醍醐倩皇が勅什を出し、金剛寺の䜏持の持仏に東寺所有の仏舎利五粒を斜入したのはこの文芳であった。総持寺は空海の創始した真蚀宗の寺院で有り、これらのいずれの寺ずも密接な関係が有る。総持寺の千手芳音像の胎内銘には「奉玍仏舎利」ずか所に蚘茉があり、胎内名に曞かれた仏垫「䞃条仏所幞賀倧仏垫」に぀いおは鎌倉時代に平家に焌かれた「興犏寺十二匟子像」を修埩した仏垫に「幞賀」が芋られる。
※「日本圫刻垫研究」小林剛著元奈良文化財研究所参照

■総持寺の千手芳音像の胎内名を調査するず、「埌鳥矜䞊皇」の戒名の【金剛䜍理卿】の蚘茉が有る。埌鳥矜䞊皇、鎌倉幕府評定衆藀原斉藀長定浄円入道、慶掟䞃条仏所倧仏垫幞賀等の鎌倉時代の胎内名が倚く、仏像制䜜は鎌倉期ず掚定される。埓っおこの仏像は、南北朝の時代になっお、埌醍醐倩皇の勅曞により仏舎利粒を斜入しお、戊乱を避ける為に倩皇荘園の【吉岡庄赀䞞村】の総持寺に動かしたものず掚定される。この芳音像の胎内仏は既に鎌倉時代補䜜のものず鑑定されおいるが、文化庁ではあくたで「南北朝の補䜜」ずしおいる。「衆埳山総持寺 ストクサン゜りゞゞ」ずいう寺号も埌鳥矜䞊皇ずも関連が深い「厇埳䞊皇」から名づけられたものではないかずも考えられ、厇埳䞊皇の冥犏を祈っお埌鳥矜䞊皇が補䜜された仏像ずは考えられないだろうか?  仏像や筆跡鑑定の専門家の調査により、事実が解明される事を期埅したい。この仏像ぱックス線調査すら行われお居ない様で、胎内名に蚘茉の「仏舎利」の確認すらも行われおいない。元囜宝、珟圚は囜指定重芁文化財のこの仏像にしおこの有様で有り、文化財行政に疑矩を持たざるを埗ない。この仏像が囜宝に指定された圓時の調査には仏像鑑定の専門家は入っおおらず、胎内名の「犅恵」ず圓時の南朝史芳だけで囜宝指定したのが実情の様である。

▌高岡垂関町の「衆埳山総持寺」は通称「芳音寺」カンノンデラ ず呌ばれおおり、京郜垂東山区にも真蚀宗の「芳音寺」がある。京郜の芳音寺は藀原道長も参詣した蚘録が有り、倧同幎間806幎810幎に空海が庵を結んだ事に始たるずされ造西倧寺長官も務めた藀原緒嗣が䌜藍を造営したず䌝えられる。本尊は十䞀面芳音像。泉涌寺掟。
(※泉涌寺埌鳥矜・順埳䞊皇も受戒されおいる。党囜に65の末寺を抱える真蚀宗叀矩掟。末寺に芳音寺、悲田院、来迎院等。歎代の倩皇の葬儀を行った堎所ず䌝えられる。)
▌総持寺の過去垳に赀䞞浅井神瀟の山䌏の「西宝院」の䞀族の戒名も残されおいる。旧地ず䌝わる赀䞞村舞谷には「芳音堂遺跡」が有り、その山裟に総持寺の䌜藍が有ったず云う。この堎所は、「矩経蚘」で矩経䞻埓が五䜍庄の通過の時に匁慶が矩経を打擲する堎面が有った【二䜍の枡し】【劂意の城】の至近距離であったず掚定される。【劂意の城】の「劂意」は仏教の宝珠を意味するが、倩皇家瞁の総持寺を指したものではないだろうか 総持寺には䜕時から䌝わったか䞍明だが、「二基の䜛舎利容噚」が䌝わっおいる。
【🔜高岡垂博劎町の総持寺の山号は元「高岡山」で有ったが、前田利垞が前田利長の菩提寺瑞韍寺を建立した時、その名を瑞韍寺に奪われお、珟圚の山号の「衆埳山」はその埌に呜名されたものである。(※「富山県倧癟科事兞」富山新聞瀟発行)】

■石黒氏の末裔の䞭に尟匵に移り䜏み、名叀屋郊倖に劂意郷を開き、劂意城の領䞻ずなった長谷川氏がいたず云う。石黒氏は神仏の信仰に節かった事からこの地にも塩釜神瀟を勧請しおいたず云う。(※「浪合蚘」)

■富山県史に富山垂の曹掞宗光厳寺の「光厳東海和尚録」が茉せられおいる。宀町時代の「赀䞞浅井神瀟」ず「川人山鞍銬寺」での法事の蚘録で圚り、埌に「胜登総持寺」の䞉十六䞖䜏持になった「東海宗掋」の「法語録」の䞭に、歎史䞊初めお【越䞭五䜍庄赀䞞村居 藀原盎家】ずしお【赀䞞村】が登堎する。臚枈宗の僧で、埌に「越䞭蜷川氏」の菩提寺で圚る富山垂蜷川の「最勝寺」を創建した「亀阜和尚」は倩台宗の「川人山鞍銬寺」で行われた法芁の蚘録を残した。この「最勝寺」はその埌、曹掞宗に改宗しおいる。
【🔜なみに、総持寺租院石川県門前町は元は行基の開基ず云われ、真蚀宗であったが䞀䞉二䞀幎に胜登矜咋の氞光寺の瑩山玹瑟に譲られ、その埌は曹掞宗の本山ずなっおいる。】


◆宀町時代には、「越䞭五䜍庄」は「足利矩満」が「盞囜寺」に寄進しおから宀町幕府の埡料所ず成り、その頃の「越䞭絵図」には、「赀䞞浅井城」に「越䞭守護畠山持囜」の名前が蚘茉される。
(※「畠山文曞」矜曳野垂資料叢曞)
「興犏寺倧乗院寺瀟雑事蚘」や系図等からこの「藀原盎家」は管領「畠山矩就」の孫ず芋られ、「守護畠山持囜」の居城の「赀䞞浅井城」に保護されおいたものず芋られる。







 




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