■「後白河上皇の時代」に魚津から富山市、立山町にかけての広大な「新川郡堀江庄」は1147年には「祇園社」(※京都八坂神社)の庄園として見られ、この庄園は「射水宿彌」が「判官代」として統治していた様だ。この時期に、「越中吉岡庄」は「平清盛」が「後白河上皇」の為に建立した京都の「蓮華王院三十三間堂」の庄園として寄進された。この「祇園社」は度々、「平清盛」に対抗して「神與」を押し立てて押し掛けた事件は有名だ。
★「祇園社記」には珍しい「射水宿彌」の署名が見られる。この「堀江庄」は「越中蜷川氏」の祖先の「宮道氏」によって1142年に「祇園社」に寄進された。
(※広大な「祇園社」は明治維新の廃仏毀釈で「八坂神社」と名を変え、その敷地は政府に没収されてそこに現在の「祇園」が拡張された。)