赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚📖  【蔭涼軒日祿】➡ 【 室町時代の「 越中五位庄」 の変遷】「越州総持寺への安堵状」 ⇒ 「応永22年(1415年)」に「足利義持」が「越中五位庄の半分を等持院に寄進した」!!

2021-02-08 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸







■「足利義満」が「相国寺」に寄進した「越中五位庄」は、その後、「足利義持」によって「五位庄の半分」が足利家菩提寺の「等持院」に寄進された。その後は、この残りの「五位庄の半分」も足利家菩提寺の「等持寺」に寄進され、後には、「等持院」・「等持寺」が連帯して「年貢の未進」に対応している。





▼【蔭涼軒】
京都五山の一つの「相国寺」山内の塔頭寺院(タッチュウ寺院)「鹿苑院ロクオンイン」の南坊にあった寮舎の事。第三代将軍「足利義満」が鹿苑院内に設けた寮舎に,「将軍足利義持」が【蔭涼軒】と名付けた。1425年(応永32年)に「相国寺」が炎上し【蔭涼軒】も焼失したが,1439年(永享11年)に「将軍足利義教」によって再建された。しかし,「応仁の乱」で再び焼失して以後再建はされなかった。【蔭涼軒】は将軍の小御所的なもので,「軒主」は将軍であったが,「留守職」として近侍の禅僧が充てられた。(※「世界大百科辞典」)





■【蔭涼軒日祿】に見える室町幕府から「越州国総持寺」への「安堵状」と、「等持院」・「等持寺」の庄園「越中五位庄」。

長禄三年十月の項には、「越中五位庄」に在った「越中国総持寺」の所領が安堵された事が載っている。
(※「能登総持寺」は別に「能登国総持寺」と記載されている。)
⇒「衆徳山総持寺」は元々、越中五位庄の赤丸村に在った(※「国宝概説」)が、足利義満がこの庄園を「相国寺」に寄進した時に、「国主の意向で赤丸村を去った」(※「総持寺由緒」池田家伝承)とされるが、その後、「総持寺」は伏木港の六渡寺村辺りに動き、この寺で「守護畠山満家」の三回忌が雅楽の演奏で盛大に執り行われたと云う。(※「名古屋大須観音文書」)









■この年に足利将軍家菩提寺の「等持院」・「等持寺」から、時の将軍「足利義政」に対して、【守護畠山氏が年貢をしっかり納めない為に、この庄園「五位庄」を寺の直轄管理にしたい】と申し入れた。





■「長禄四年」、「等持院」の「竺雲和尚」と「等持寺」の「笑雲和尚」の二名が連名で幕府に対して「直接管理」を要望した。









■「寛正二年九月」、「等持院」と「等持寺」は「越中五位庄」の訴えがどうなって居るのか問い合わせの書状を送った。



▼「蔭涼軒日祿」には、寺側が、この庄園について、度々の訴訟や文書での確認を行ったものの、幕府からはナシのツブテで在った事が記されている。その後も、「応仁の乱」の後の混乱した世情の中で、次第に各地の庄園は、管理を委ねられていた守護や地頭の知行地として横領されてゆく。




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