赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚 🏯 🐎【義経勲功記】「越中吉岡庄」で繋がる 平家の猛将「平盛俊」と「源義経」の因縁の戦い!!

2021-04-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








「飛騨国治乱記」




●「国吉名佐賀野」には平家の豪の者「越中次郎兵衛盛嗣」が居館を構え、能登の目代を務めたと云う。その父の「平盛俊」も越中守に任じられ、その後、強盗を逮捕して勇名を馳せている。「平家物語第巻十一嗣信最後」には「讃岐国八島の戦い」で「源義経」と対峙して、「平盛嗣」が義経を「一年平治の合戦に父討たれてみなし子にてありしが、鞍馬の児して、後にはこがね商人の所従になり、粮料せおうて奥州へおちまどひし小冠者のことか」と罵る場面があり、父の「元越中守平盛俊」(※「先の越中前司盛俊」は‥‥と記されている)と共に「越中倶利伽羅谷の戦い」では平家の先鋒となって「木曽義仲」と戦い、屋島、壇ノ浦の戦いでも勇名を轟かせた平家の豪勇の士で有った。



■「源義経の一代記」 で在る「義経勲功記 全十九巻」の「第一巻」の「牛若殿出奔東山」の項には、「平盛俊」と「義経」の因縁が記載されている。
「源義経」の乳母の父は「増尾十郎権頭兼房」と云い、「義経(牛若丸)」の母の「常盤御前」とは一族で在った。兼房は「近衛天皇」の時に朝廷に仕えて先祖伝来の丹波国を所領としていた。ところが、この領地の百姓と「平盛俊」の領地の百姓が五月の項の田圃の水を巡って争いに成り、「平盛俊」の領地の百姓が「増尾兼房」の領地の百姓を農具で打ち殺すと云う事件が起こった。「兼房」はこの事を聞いて大いに怒り、普段から平家の者共が権勢を誇って世の中を侮っている事を良く思って居なかった事も在り、殺された百姓の子の十五才に成った「吾郎」を引き連れて「平盛俊」の領地の百姓の家に押し入って徹底的に敵を討って仇を取った。
この事件は「兼房がやった事だ」と盛んに訴えたので、「平清盛」は大いに怒り道理を捨て置いて朝廷に申し入れ、「兼房」の所領の「島路郷」をたちまち没収してしまった。「兼房」は已む無く丹波国を退いて洛東の山科に来て、音羽里に隠棲していた。
夫の「源義朝」が「平治の乱」で敗死して、平家の追求が厳しく成った為に、常盤御前はふと思い立って「遠くに送る事は心配だ」と思って「増尾兼房」の住む京都の山科に牛若丸を預け置いた。明けて、仁安元年、「牛若丸」は八歳に成った時に、源氏累代の忠信の須知五郎景吉の子供で出家して「二条の聖」と呼ばれた僧が、秘かに兼房に預けられている「牛若丸」を訪ねて、「父の義朝が清盛に討たれて源氏は滅び、平家は専横の限りを尽くしている」事や、「何れは源氏の旗揚げをすべきだ」と告げた。‥‥‥‥と在る。







■「源義経」にとって、平家一門の「平盛俊」は、「源義経」の一門で庇護者で在った「増尾兼房」の所領を奪い、追い落とした憎い敵で在った。 ましてや、母の「常盤御前」は子供達の助命嘆願の条件として清盛の側女にされると言う屈辱を受けており、この時に常盤御前は清盛との間に女の子供を儲けている。この女子はやがて長じて公卿の「五辻家」に嫁ぎ、この「五辻家」からは後の南朝、北朝の天皇の中宮や、後醍醐天皇にも連なっている。この娘は嫁いで「廊御方」と呼ばれ、「女人高野」と云われた「河内国金剛寺」の「結縁過去帳」に記録を遺している。
この「義経」と「平盛俊」・「平盛嗣」の親子は、運命的な「源平の戦い」で激戦を交わす事になる。
「平家物語」で「平盛嗣」が義経を評して「歯の突き出でて背の小さき者」(※出っ歯でチビの不細工な男)とこき下ろしている背景が二人の因縁に在った事が分かる。






■やがて、義経は兄の頼朝と仲違いして追討され、北陸路を奥州に向かって落ち延びる。「義経記」には義経が戦った「木曽義仲」が、平家と激戦を交わした戦場に建っ倶利伽羅山の「手向けの神」に拝礼して、北陸路を「五位庄」の「二位の渡し」から舟に乗って伏木河口の六渡寺村に向かう。この五位庄(※鎌倉時代は「吉岡庄」)には義経が戦った「平盛嗣」が嘗て居館を構えて越中、能登を支配した「国吉名」が在り、、小矢部川河口の高岡市守山では「木曽義仲」が倶利伽羅山に向かう前に陣揃えを行った。又、「吾妻鏡」には、この時に「源義経」を追討する為に、「後白河上皇」の「後院領」の「越中吉岡庄」(※高岡市福岡町赤丸村、国吉村、小矢部市宮嶋村等)に地頭の「成佐」と言う武将を配置していた事が記載されている。

▼「倶利伽羅の源平戦」では、源氏の「木曽義仲軍」は「後白河上皇」の「後院領吉岡庄」を避けて大きく迂回して般若野を経由して倶利伽羅の「利波山」(※砺波山)の倶利伽羅戦場に向かった。木曽義仲軍には「木舟城」の「石黒光弘」や、赤丸村の「池田氏」、西五位村の「向田氏」、小矢部市の「蟹谷氏」等の国侍達が加わった。





「喜多川歌麿」作の「木曽義仲軍将図」には高岡市福岡町の「木舟城城主石黒光弘」の姿が描かれている。







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