赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴皇室庄園「越中吉岡庄」(※赤丸村)と高岡市街の宇多刀工の「槌宮ツチノミヤ」🔨、総持寺、極楽寺等!!

2021-02-10 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■赤丸浅井城、浅井神社を核とした「越中吉岡庄」は上賀茂神社、藤原摂関家、後白河上皇(蓮華王院三十三間堂)~後醍醐天皇迄の「後院領」、足利義満の相国寺(金閣寺)等、中央政権の権力者の庄園として続いた。











■越中吉岡庄の中心地の赤丸村には延喜式内社浅井神社・川人山鞍馬寺が有り、その周辺には48のお寺があったと云う。中心寺院の川人山鞍馬寺も7つのお寺で構成されており、衰退期にはその中の東房のみが残り、両部神道の西宝院と名乗って浅井神社に奉仕していた。川人山鞍馬寺は、浅井城城主の石黒氏が北条氏に追われて新川へ去ると、中山氏が浅井城の城主となり、中山氏によって攻撃されて福岡町一歩二歩に逃れたが数回にも亘り中山氏に焼き討ちされたと伝わる。川人山鞍馬寺はその後、浄土真宗に改宗して「法筵寺」になり、現在は無住の寺として残っている。その他、後醍醐天皇の皇子の宗良親王開基と伝わる「極楽寺」や天皇の胎内名が記されている全国的にも著名な「千手観音像」を祀る「衆徳山総持寺」、前田家の菩提寺として金沢へ移った「雲龍寺」の末寺の「天景寺」等が高岡市の博労町周辺に移転しており、「博労町校下の観光案内」にも掲載されている。
更に、この天景寺、総持寺のある一画に在る「槌宮ツチノミヤ」(※総持寺の門前に在る)も元々、赤丸村に在り、南北朝の頃に現在の高岡市上関宮前一番地に移されたもので、元々「名刀練工の士の帰依厚く、一般には、この神社の木槌で母乳をさすると乳が溢れる」として御利益が在ったと言う。赤丸村領三日市村には全国的にも著名な「宇多刀工」が工房を構えたと伝わる事から、この「槌宮」はこの宇多刀工の崇敬した神社と見られる。
⇒【※ この祭神は「大戸道尊、大戸辺尊」とされている。(大戸之道尊 オオトノジノミコト―記紀にみえる神。神世7代の第5代男神で,女神大苫辺尊オオトマベノミコトと対をなす。「古事記」では意富斗能地神オオトノジノカミと記す。親神は「泥土煮尊」(土が燃え盛っている時の神)で在り、その子の大戸道尊、大戸辺尊は大地が固まった時に生まれた神、又は男性、女性器のシンボルとされる事から、金属を扱う鍛冶や 子育ての神とされた)】(※「富山県神社誌」富山県神社庁刊)


宇多刀工の鎮守社「槌の宮」は赤丸村から高岡市街地の総持寺前に動いた。(※「富山県神社誌」)


「赤丸村の史跡位置図」




■後醍醐天皇に従い、「五位庄」の戦いで敗れたと「太平記」に記載されている南北朝期の武将桃井直常の三男が創建したと伝わる「光釜山西大寺」は当初、砺波山の麓に創建され、赤丸村舞谷村へ動いたが、その後、高岡市佐野の光釜に移り、高岡開町時に加賀藩から敷地を与えられて小矢部川と千保川の合流地点の高岡市木町に移転している。また、高岡市の聖安寺、和田村の善宗寺等、現在、高岡市内に有る多くの寺がその昔は赤丸村に有ったと伝える。高岡市和田町は加賀藩になった時に、浄土真宗城端別院の指示で赤丸村西部の住民を和田佐吉が開いた和田新村に動かし、赤丸村長善寺を分割して和田善宗寺を興している。高岡市横田町に有る「曹洞宗宗泉寺」の「貞亨二年の由来書」でも「当寺先規は明見寺と號し砺波郡五位庄之内(赤丸村)鞍馬寺村に在之。其後、慶長十七年宗泉と改、高岡横田町江引越 云々」と伝え、「宗泉寺」も赤丸村から移転した事が判る。この「宗泉寺」は横田町の「有磯神社」の前身の横田正八幡宮の別当で在ったと「富山県神社誌」は伝える。( *「三輪国治文庫」参照)
しかし、「高岡史料」の寺社の記載では「宗泉寺」のみが「鞍寺」(赤丸鞍馬寺?)から移転してきたと加賀藩に報告しているが、他の寺院は「由緒が判らない」と報告し、総持寺はその千手観音像が「海から上がった仏」と報告している等意図的に由緒を隠しているのである。天景寺は元、現在の瑞龍寺の敷地に有ったが加賀藩の指示で現在地に移転してきたとのみ報告し、西大寺も由緒をボカしている。赤丸は佐々成政に従った守山城の神保氏張の幕下の柴野城主寺島牛之助、浅井城主中山氏が領有した土地であったから、過去に、前田家と能登末森城で戦った赤丸勢の土地から動いて来たとは言わず、意図的に由緒が判らないと答えて加賀藩からの反感を避けたと思われる。
(※又、高岡市羽広396番地の「諏訪社」の拝殿は、明治維新の時に赤丸浅井神社から移設されたもので拝殿の瓦には皇室の菊紋が着いている。→「富山県神社誌」)





■高岡市開町時に市街地に移転させられた赤丸発祥、所縁の寺院の位置。これ等の寺院は赤丸村に多くの門徒を抱えていた。寺院は防衛上の点から市街地の周辺に配置され、出城の役目を果たさせられていた。敵の佐々成政に味方した赤丸村所縁の寺院や住民は強制的に前田家のお膝元の高岡市街地に移転させられた事を物語る。



■赤丸に在ったという赤丸浅井神社48坊と呼ばれた寺院(花尾村含む)は以下のお寺の名前が解っている。
総持寺、西大寺、聖安寺、性宗寺(浄光寺)、長善寺、宗泉寺(明見寺)、長安寺、善宗寺、法筵寺、天景寺、長光寺、西宝院(東坊)、永賢寺、超願寺、 *鞍馬寺の玉蔵坊、観念坊、寶仙坊、宥坎坊、玄皆坊、寶池坊が何れかは不明。明治に建立された霊寿寺は中山妙心尼が奉仕していた。(※「福岡町史」)
■宗良親王開基の「極楽寺」も元赤丸に在ったと伝わる。(※「越中宮極楽寺由緒」)




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