赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴📃 【延喜式内社赤丸浅井神社】と【頭槌カブツチの太刀】のルーツ⇒「神道名目類聚抄」!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
🔻富山県高岡市福岡町赤丸の「城ヶ平山古墳」から「神々が帯びた」と伝わる【頭槌の太刀】が発掘されている。

■「神武天皇の東征」に見られる「頭槌の太刀」


■「古事記」では【頭槌太刀】は神世に天尊降臨の時に帯びられたとされる。






■「赤丸浅井神社」に伝わった古書の「神道名目類聚抄」には神道の奥義や皇室の三種の神器、神道の建物、祭具、祭式等についての細部が記されている。
その中には皇室の「神剣」とされる刀剣にも、往古は幾つかの神剣が伝えられたと云う。
龍神が造ったと言う「御剣」は「御太刀」とも言い、「八握剣 ヤツカノツルギ」、「九握剣 ココノツカノツルギ」、「十握剣 トツカノツルギ」等が在ったと言い、「十握剣」は「四指を以て十を計ふ」とされる。

▼『神剣』
・「蛇麁正剣 オロチノアラマサノツルギ」;蛇を殺した剣を「蛇の麁正 アラマサ」と言い、今は石上イソノカミに在り。
・「蛇韓鋤 オロチノカラサヒ」;スサノオノミコトは計りて毒酒を醸して以て飲ましむ大蛇は酔って眠る。スサノオノミコトは「蛇韓鋤之剣 オロチカラサヒノツルギ」を以て頭を斬り腹を斬りその尾を斬り玉う 蛇を斬り玉へる剣は今吉備神部キビノカンベの許に在り。
・「天蝿斬之剣 アメノハエキリノツルギ」;スサノオノミコトは即ち天蝿斬之剣を以て彼大蛇を斬り玉う。
・「羽々斬剣 ハハキリノツルギ」;古語拾遺に云う。スサノオノミコト天よりして出雲国簸之川上に降到 天十握剣を以て八岐の大蛇を斬 その名は 天羽々斬 今石上の神宮に在り 古語に大蛇をこれを羽々 ハハと云う 言ば大蛇を斬也
・「大葉刈 オオハカリ」;神戸剣 カンドノツルギ 神代巻に云う 味耜高彦根神アジスキタカヒコネミコト 天に登りて喪を弔う 此神の容貌まさに天稚彦アメノワカヒコの平生イケル時のよそおいに類たり 故 天稚彦親屬妻子アメノワカヒコチチハハウカツヤカラメコ 皆思わく 吾君アガシナギは猶ましけりと云う 衣帯に攀牽ヨジカカリ 且つよろこび且つまどう時に味耜高彦根神いかりおもほてりして曰 朋友トモガラの道理宜ミチコトワリウベハヒ とぶらう故 汚らわしきを憚らず遠より起哀オキカナシむ 何為ナンスレぞ我を亡者にあやまつと云て 則其帯剣大葉刈ソノハカセルオオハカリ を以て喪屋を斬り仆す 亦名は神戸剣カンドノツルギ 云々
⇒葉は刃の義 刈りは斬りの義なり 神戸は喪屋を斬り倒すより云り


■「大伴氏」の祖先神「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」を祀る「延喜式内社赤丸浅井神社」と「大伴連」が使用した「頭槌の太刀」⇒大伴一族佐伯氏発祥の「真言宗開祖空海」と赤丸村の真言宗寺院「総持寺」のルーツ!!



■「頭槌剣」は赤丸村城ケ平山古墳群から発掘されて、現在は「国立東京博物館」に展示されている。















■「頭槌剣」は「大伴連の遠祖の天忍日命アメノオシホノミコトが来目部(久米部)の遠祖の天串津大来目を率いて、背中には弓矢を背負って地上に降り立たれた」事が記載され、軍事部族の大伴連が武人の久米部を率いて戦われたとされる。
又、後には九州に繁栄していた「隼人族が朝廷の大甞会の時に腰に帯びた」と記されている。
これは古事記の記載を引用したものだが、この「頭槌の太刀」が大和朝廷の軍事を司った「大伴氏」「久米氏」の所縁の剣と云えるだろう。「越国」は大和朝廷が東北の「蝦夷」を攻めた時には軍事の最前線基地で在ったと伝わり、「大伴氏」の一族「佐伯氏」が駐在して、やがて、降伏した「蝦夷」を朝廷から賜り「佐伯部」と云う軍隊を構成して「佐伯氏」に従ったと言う。

★この「佐伯氏」の一族が四国に渡り、後に真言宗の開祖「空海」を産み出した。赤丸村に古くから在った寺院は「真言宗」や「天台宗」が多く、明治維新の廃仏毀釈の時に「本山派修験道」は「天台宗」、「当山派修験道」は「真言宗」に組する様に明治政府は改編した。(※赤丸村の「川人山鞍馬寺」は三井寺系の「本山派」で在り、衣裳には白い房を着ける。真言宗系当山派の醍醐寺派と天台宗系本山派の聖護院派が在った。)



■延喜式内社赤丸浅井神社には一条天皇が勅使を遣わされた時に勅使お手植えの二本の桜の大木が昭和初期迄在ったが、この大木は「木花咲夜比売」の御神体として長く進行され、その為に同じく「木花咲夜比売」を祭神 とする真言宗の白山信仰も深く関係した。「川人山鞍馬寺」の前には白山を開いた「泰澄」が境内に庵を開いたとされて元々、白山修験道とは密接で在ったが、「越中吉岡庄」の領主の「後白河上皇」の皇子が「聖護院」の門跡になられた事から「聖護院派」に組み込まれた様だ。この習慣は現在も続き、白山修験道の山伏が「延喜式内社赤丸浅井神社」や高岡市関町の「総持寺」に拝礼すると言う。
「空海」が高野山を開いた時には地主神の導きと了解の上に高野山を開いたと言われ、真言宗「空海」や天台宗「最澄」の教えの中に神道を敬う「両部神道」の教えが在った事から、「川人山鞍馬寺」にもこの二つの修験道が持ち込まれたものと見られる。「浅井神社48坊」と呼ばれた寺院は「真言宗」や「天台宗」の寺院が含まれていた様だが、浄土真宗が入った頃から改宗が進んだ。

🔻【赤丸浅井神社の勅使桜】
「一条天皇」の時に「赤丸浅井神社」へ勅使「川原左京」(※河原町の左京職藤原道長の事か? 一条天皇は藤原道長の甥。)を遣わされ、その時に赤丸浅井神社の敷地内に二本の桜木を植えられた。これが「勅使桜」、「遅桜」と呼ばれ、この地域の田植の目安になったと云う。この二本の桜木は昭和初期迄生存して、この桜木を使用した額にこの桜の写真を納めて赤丸浅井神社の拝殿に現在も掲げられている。






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