🔻「応仁の乱」の原因にも成った「越中守護」、「能登守護」の「畠山家の相続問題」
➡北陸の豪族が争った【応仁の乱】で「足利義満」が創建した「相国寺」は焼き払われ「京都」は戦乱の渦中に在った。
「相国寺」の僧で在った「連歌」の「宗祇」も「相国寺」の庄園の「越中五位庄」(※高岡市福岡町赤丸他➡「延喜式内社赤丸浅井神社」は五位庄53ヶ村惣社)を訪れ数々の歌を遺している。
この時、「越中五位庄」は、「連歌」の高弟で富山市蜷川の蜷川城の城主「室町幕府政所代蜷川新右衛門」が「利波郡」を知行されていたと言う。(※「蜷川村の郷土史」
越中国利波郡五位庄赤丸村には、畠山家の騒乱の元に成った「越中守護畠山持国」の居の【赤丸浅井城」が見られる。(※「万山編年精要」、「畠山文書」羽曳野市資料叢書)
【越中五位庄】と「赤丸浅井城」
(旧富山県西礪波郡福岡町赤丸村;現在は高岡市福岡町赤丸)
◆「畠山系図」
➡「応仁の乱」は「室町幕府管領畠山持国」の後継者を巡る「畠山義就」と「畠山政長」の争いでも在った。
(※「越中絵図」羽曳野市資料叢書)
🔽「赤丸浅井城」は「累代、越中石黒氏の居城で在った」と「富山県西礪波郡紀要」等に記載される。
「越中石黒氏」は、「東大寺大仏造営」の時に「聖武天皇」の呼びかけに応じて「米五千石」を寄進して、「越中国司大伴家持」の後に「越中国司」に任じられた越中の古代氏族利波臣を先祖に持ち、「孝霊天皇」の末裔と言われる。現在も伝わる「礪波郡」は石黒氏の先祖の「利波臣」(礪波臣)の名前に由来する。(※「東大寺要録」・「続日本紀」)
この「越中石黒氏」は、「織田信長」に一族が暗殺されて勢力を失ったが、その後も豊臣、徳川、前田、朝倉等の家臣となり、現在も全国に多くの子孫が残る。
■【室町幕府御粮所越中五位庄】
「南北朝時代末期」迄続いた皇室庄園【越中吉岡庄】は、南北朝を統一した「足利義満」の頃から「越中五位庄」と呼ばれた。(※「東寺百合文書」)
「室町幕府第三代将軍足利義満」は妻の菩提を弔う為に、室町幕府の御粮所で在った「越中五位庄」を「臨済宗相国の寺」の庄園として寄進した。(※「相国考記」・「万山編年精要」)
■【重編応仁記・応仁後記・続応仁後記】
【細川官領家】に従った越中の諸将、「畠山」・「遊佐」・「石黒左近」・「長九郎左衛門」等の活躍を記録する。
【📕【応仁の乱】の渦中に在った越中国・能登国】
越中、能登の北陸の諸将は【室町幕府将軍】の軍隊として、【応仁の乱】では都へ攻め上り、【管領畠山満家】の子供の「畠山義就」と「畠山政長」軍に分かれて激戦を交わした。
(※「応仁記」)
「畠山系図」
🔻【越中石黒氏】は、「東大寺大仏」の造営の時に「米五千石」を寄進して、「越中国司」になった「利波臣志留志」の末裔とされる古代豪族で、歴代「赤丸浅井城」を拠点とした。鎌倉時代に「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」では、「越中吉岡庄」(富山県高岡市福岡町赤丸)の領主でも在った【後鳥羽上皇】に従い、各地で戦ったが、敗れた後は「赤丸浅井城」、「木船城」を失い、「福光城」を拠点としていた様だ。この頃、「赤丸浅井城」に「室町幕府越中守護畠山持国」、「福光城」に「石黒氏、「木船城」には「遊佐氏」が見られる。(※「越中絵図」畠山文書)
越中国司利波臣志留志
🔽「大阪府羽曳野市」の「畠山文書」の中の「越中絵図」には、「赤丸浅井城」に「室町幕府越中守護畠山持国」の記載が在る。又、越中諸将の「遊佐」・「石黒」等の記載も在る。
🔽【石黒左近成綱】(生年不明 - 天正9年7月6日(1581年8月5日))は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で通称は左近蔵人。別名に成親。子は成栄。[※越中国礪波郡木舟城主。]
🔻【応仁記・応仁後記・続応仁後記】
【近江九里備前守誅殺される。】
1600年代、越前一乗谷の【波着寺】の僧空照(九里氏)は加賀藩前田利家の信仰を得て金沢に移り「高岡城」の地鎮祭を行ったとされる。
(※「三壺記」加賀藩記録)
🔻【応仁別記】
🔽【畠山政長】の執事「神保長誠」の記載➡「神保長誠」は、室町時代から戦国時代の武将で「越中放生津城」を拠点とする射水・婦負郡守護代及び紀伊分郡守護代であり、畠山政長の家臣。
【※越中に二つの「神保氏」が在り、富山城を拠点とした薩摩島津氏同族の惟長氏系統の「神保長誠」、「神保長住」と、高岡守山城を拠点とした能登畠山家の系統の平姓良文系統の「神保氏張系」が在る。いずれも徳川に仕え、江戸城近くに屋敷を構え、惟長系の屋敷跡は「東京神田神保町」に名前を遺し、良文系神保氏張は織田信長の妹を妻にして、上杉謙信の家臣名簿にも残る。この一族は徳川に仕えて、千葉県に知行地を持った。この二つの系統は混同が見られ、注意が必要。
🔽惟長系神保氏➡九州の「阿蘇惟長」とは阿蘇惟憲の長男で、阿蘇惟豊の兄。阿蘇惟将の叔父にあたる人物。一時期、菊池家当主となって菊池武経(きくち たけつね)と名乗っていた時期もあった。(1480年-1537年)。菊池氏は藤原氏で在り、惟長氏は元々、渡来してきた一族と言う。】
🔽「畠山系図」
◆「応仁別記」には、現在も「越中(富山県)」、「肥後(熊本県)」を中心に多く残る「開一族」が「室町幕府」の「管領細川氏」の軍として記載される。「越中五位庄」は「室町幕府御粮所」として、南北朝の騒乱の後は「室町幕府直轄地」で在ったが、「第三代将軍足利義満」によって義満が創建した「臨済宗相国寺」の庄園となり、その後も足利一族の菩提寺の「等持院」、「等持寺」の庄園として続いた。その結果、「越中五位庄赤丸村」の「赤丸浅井城」には「越中守護畠山持国」が配置された。「越中国」には、「室町時代に守護の在地支配は無く」、それぞれの城には「守護代」が置かれたと云う。(※「開一族」⇒「群書類従20」の「応仁別記」、「室町幕府御粮所」⇒「角川地名大辞典」)
因みに、「越中国利波郡五位庄赤丸村」は「富山県史中世」の「東海和尚録」に初見される。
🔻【足利一族の室町幕府管領畠山満家】
小矢部川河口の六渡寺村に一時期動いていたと言う【衆徳山総持寺(浜総持寺)】では、「畠山持国」が父親の「管領畠山満家」の三回忌法要を営んだと言う。「畠山文書」の「越中絵図」では、この頃には福野町辺りから小矢部川河口迄「五位庄」が拡がっていた事が判る。
(※尾張国大須観音記録、「東寺百合文書」)
・公卿の「徳大寺家庄園般若野庄」《※高岡市中田~砺波市にかけての庄園》には庄川から小矢部川にかけての地域の「五位の東庄」も含まれていた。
・「公卿の徳大寺家の越中下向」
・「やなた文書」
▼「衆徳山総持寺」(高岡市関町)の【国指定重要文化財木造千手観音座像】
≪慶派仏師「幸賀・頼真作」≫
🔻元々、「河内国金剛寺」から【後醍醐天皇】の庄園「越中吉岡庄」(西礪波郡福岡町赤丸村)の「総持寺」へ伝来した「黄金の千手観音座像」は、「五位庄」を「足利義満」が「臨済宗相国寺」の庄園として寄進した時に、五位庄の外れの「六渡寺村」の「浜総持寺」へ動き、その地では「雅楽」を交えた盛大な落慶法要が行われた。これは「越中守護畠山持国」が父親の故室町幕府管領「畠山満家」の「三回忌法要」を執り行ったもので在った。
「総持寺由緒」には「この千手観音像は六渡寺浜より上がりたる尊像」と伝わる。
(※「総持寺由緒」高岡史料・「尾張国大須観音文書」)
➡北陸の豪族が争った【応仁の乱】で「足利義満」が創建した「相国寺」は焼き払われ「京都」は戦乱の渦中に在った。
「相国寺」の僧で在った「連歌」の「宗祇」も「相国寺」の庄園の「越中五位庄」(※高岡市福岡町赤丸他➡「延喜式内社赤丸浅井神社」は五位庄53ヶ村惣社)を訪れ数々の歌を遺している。
この時、「越中五位庄」は、「連歌」の高弟で富山市蜷川の蜷川城の城主「室町幕府政所代蜷川新右衛門」が「利波郡」を知行されていたと言う。(※「蜷川村の郷土史」
越中国利波郡五位庄赤丸村には、畠山家の騒乱の元に成った「越中守護畠山持国」の居の【赤丸浅井城」が見られる。(※「万山編年精要」、「畠山文書」羽曳野市資料叢書)
【越中五位庄】と「赤丸浅井城」
(旧富山県西礪波郡福岡町赤丸村;現在は高岡市福岡町赤丸)
◆「畠山系図」
➡「応仁の乱」は「室町幕府管領畠山持国」の後継者を巡る「畠山義就」と「畠山政長」の争いでも在った。
(※「越中絵図」羽曳野市資料叢書)
🔽「赤丸浅井城」は「累代、越中石黒氏の居城で在った」と「富山県西礪波郡紀要」等に記載される。
「越中石黒氏」は、「東大寺大仏造営」の時に「聖武天皇」の呼びかけに応じて「米五千石」を寄進して、「越中国司大伴家持」の後に「越中国司」に任じられた越中の古代氏族利波臣を先祖に持ち、「孝霊天皇」の末裔と言われる。現在も伝わる「礪波郡」は石黒氏の先祖の「利波臣」(礪波臣)の名前に由来する。(※「東大寺要録」・「続日本紀」)
この「越中石黒氏」は、「織田信長」に一族が暗殺されて勢力を失ったが、その後も豊臣、徳川、前田、朝倉等の家臣となり、現在も全国に多くの子孫が残る。
■【室町幕府御粮所越中五位庄】
「南北朝時代末期」迄続いた皇室庄園【越中吉岡庄】は、南北朝を統一した「足利義満」の頃から「越中五位庄」と呼ばれた。(※「東寺百合文書」)
「室町幕府第三代将軍足利義満」は妻の菩提を弔う為に、室町幕府の御粮所で在った「越中五位庄」を「臨済宗相国の寺」の庄園として寄進した。(※「相国考記」・「万山編年精要」)
■【重編応仁記・応仁後記・続応仁後記】
【細川官領家】に従った越中の諸将、「畠山」・「遊佐」・「石黒左近」・「長九郎左衛門」等の活躍を記録する。
【📕【応仁の乱】の渦中に在った越中国・能登国】
越中、能登の北陸の諸将は【室町幕府将軍】の軍隊として、【応仁の乱】では都へ攻め上り、【管領畠山満家】の子供の「畠山義就」と「畠山政長」軍に分かれて激戦を交わした。
(※「応仁記」)
「畠山系図」
🔻【越中石黒氏】は、「東大寺大仏」の造営の時に「米五千石」を寄進して、「越中国司」になった「利波臣志留志」の末裔とされる古代豪族で、歴代「赤丸浅井城」を拠点とした。鎌倉時代に「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」では、「越中吉岡庄」(富山県高岡市福岡町赤丸)の領主でも在った【後鳥羽上皇】に従い、各地で戦ったが、敗れた後は「赤丸浅井城」、「木船城」を失い、「福光城」を拠点としていた様だ。この頃、「赤丸浅井城」に「室町幕府越中守護畠山持国」、「福光城」に「石黒氏、「木船城」には「遊佐氏」が見られる。(※「越中絵図」畠山文書)
越中国司利波臣志留志
🔽「大阪府羽曳野市」の「畠山文書」の中の「越中絵図」には、「赤丸浅井城」に「室町幕府越中守護畠山持国」の記載が在る。又、越中諸将の「遊佐」・「石黒」等の記載も在る。
🔽【石黒左近成綱】(生年不明 - 天正9年7月6日(1581年8月5日))は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で通称は左近蔵人。別名に成親。子は成栄。[※越中国礪波郡木舟城主。]
🔻【応仁記・応仁後記・続応仁後記】
【近江九里備前守誅殺される。】
1600年代、越前一乗谷の【波着寺】の僧空照(九里氏)は加賀藩前田利家の信仰を得て金沢に移り「高岡城」の地鎮祭を行ったとされる。
(※「三壺記」加賀藩記録)
🔻【応仁別記】
🔽【畠山政長】の執事「神保長誠」の記載➡「神保長誠」は、室町時代から戦国時代の武将で「越中放生津城」を拠点とする射水・婦負郡守護代及び紀伊分郡守護代であり、畠山政長の家臣。
【※越中に二つの「神保氏」が在り、富山城を拠点とした薩摩島津氏同族の惟長氏系統の「神保長誠」、「神保長住」と、高岡守山城を拠点とした能登畠山家の系統の平姓良文系統の「神保氏張系」が在る。いずれも徳川に仕え、江戸城近くに屋敷を構え、惟長系の屋敷跡は「東京神田神保町」に名前を遺し、良文系神保氏張は織田信長の妹を妻にして、上杉謙信の家臣名簿にも残る。この一族は徳川に仕えて、千葉県に知行地を持った。この二つの系統は混同が見られ、注意が必要。
🔽惟長系神保氏➡九州の「阿蘇惟長」とは阿蘇惟憲の長男で、阿蘇惟豊の兄。阿蘇惟将の叔父にあたる人物。一時期、菊池家当主となって菊池武経(きくち たけつね)と名乗っていた時期もあった。(1480年-1537年)。菊池氏は藤原氏で在り、惟長氏は元々、渡来してきた一族と言う。】
🔽「畠山系図」
◆「応仁別記」には、現在も「越中(富山県)」、「肥後(熊本県)」を中心に多く残る「開一族」が「室町幕府」の「管領細川氏」の軍として記載される。「越中五位庄」は「室町幕府御粮所」として、南北朝の騒乱の後は「室町幕府直轄地」で在ったが、「第三代将軍足利義満」によって義満が創建した「臨済宗相国寺」の庄園となり、その後も足利一族の菩提寺の「等持院」、「等持寺」の庄園として続いた。その結果、「越中五位庄赤丸村」の「赤丸浅井城」には「越中守護畠山持国」が配置された。「越中国」には、「室町時代に守護の在地支配は無く」、それぞれの城には「守護代」が置かれたと云う。(※「開一族」⇒「群書類従20」の「応仁別記」、「室町幕府御粮所」⇒「角川地名大辞典」)
因みに、「越中国利波郡五位庄赤丸村」は「富山県史中世」の「東海和尚録」に初見される。
🔻【足利一族の室町幕府管領畠山満家】
小矢部川河口の六渡寺村に一時期動いていたと言う【衆徳山総持寺(浜総持寺)】では、「畠山持国」が父親の「管領畠山満家」の三回忌法要を営んだと言う。「畠山文書」の「越中絵図」では、この頃には福野町辺りから小矢部川河口迄「五位庄」が拡がっていた事が判る。
(※尾張国大須観音記録、「東寺百合文書」)
・公卿の「徳大寺家庄園般若野庄」《※高岡市中田~砺波市にかけての庄園》には庄川から小矢部川にかけての地域の「五位の東庄」も含まれていた。
・「公卿の徳大寺家の越中下向」
・「やなた文書」
▼「衆徳山総持寺」(高岡市関町)の【国指定重要文化財木造千手観音座像】
≪慶派仏師「幸賀・頼真作」≫
🔻元々、「河内国金剛寺」から【後醍醐天皇】の庄園「越中吉岡庄」(西礪波郡福岡町赤丸村)の「総持寺」へ伝来した「黄金の千手観音座像」は、「五位庄」を「足利義満」が「臨済宗相国寺」の庄園として寄進した時に、五位庄の外れの「六渡寺村」の「浜総持寺」へ動き、その地では「雅楽」を交えた盛大な落慶法要が行われた。これは「越中守護畠山持国」が父親の故室町幕府管領「畠山満家」の「三回忌法要」を執り行ったもので在った。
「総持寺由緒」には「この千手観音像は六渡寺浜より上がりたる尊像」と伝わる。
(※「総持寺由緒」高岡史料・「尾張国大須観音文書」)