赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🏯 【光源東海和尚録】 映画「のぼうの城」と越中国「赤丸浅井神社」と「亀阜和尚」(※蜷川新衛門と富山の最勝寺)!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■[周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれる忍城(おしじょう)の領主・成田氏一門の成田長親は領民から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれていた。]----映画「のぼうの城」の舞台である。この映画は、豊臣秀吉の配下の石田光成が忍城を攻めた時を描いているが、この成田氏が越中と関わりのある武将という事は余り知られていない。
成田氏は、熊谷市を拠点とし、十三代顕時は上杉憲実に従い戦功をたて下総守となり、更に戦功を立て、関東管領足利政知(堀越公方)より、越中富山城を賜ったと云われる。成田顕泰は、現在は富山市にある光厳寺(神保氏の菩提寺。後に前田家の墓所となった)を開いている。光厳寺は、藤原鎌足の後裔といわれる武蔵国忍城城主で後に出家した成田顕泰が、当初、砺波郡増山村で開基となり長禄寺を設立した。その後、射水郡守山城外に移って光厳寺となる。
【註】成田顕泰:一四六五年~一五二四年七月九日没。山内上杉家の家宰を代々務めた室町幕府上野・武蔵守護代の惣社長尾家の三男で成田正等の養子として入る。長尾氏は桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏の一族。源頼朝挙兵の際は平家側だったが平家滅亡後、同族三浦氏の配下となり、執権北条氏と三浦氏が戦った「宝治合戦」の時、ほぼ全滅したが、その後鎌倉時代末期から関東に入部した上杉氏の筆頭の家臣として栄え、代々に亘り山内上杉家と婚姻を重ねて血族となる。長尾氏の越後守護代の家系から長尾景虎が出て、永禄四年(1561年)上杉家から「上杉」の名跡と「関東管領」の職を譲られ、上杉謙信と名乗った。上杉謙信が越中に数回に亘り攻め込んだが、上杉謙信にしてみれば、越中は同族の成田氏の旧領で有り、上杉側からの見方では逆に越中に居た勢力は「侵略者」と考えられる。歴史的に見れば、戦勝者が敗戦者の歴史を塗り潰し、回復を求めて戦った武将は往々にして地域史では「賊將」のレッテルを貼られている事が多い。

■【赤丸浅井神社での法要ー富山県史に記載される[五位庄赤丸在住の藤原直家の法要]の記録】
光厳寺二世で後に「能登総持寺」の三十六世住持になった東海宗洋が「瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香語」で、五位庄赤丸在住の藤原直家が赤丸の川人山鞍馬寺・浅井神社で父の十三回忌(明応四年十一月十六日、一四九五年)、十七回忌(明応八年十一月十六日、一四九九年)を営んだと記録している。これを「光厳東海和尚録」という。東海宗洋は神保氏。(※『光厳東海和尚録』富山県史史料編中世)

◆【越中国利波郡五位庄赤丸村】の名前が歴史上、初めて見られる!!
 

◍亀阜和尚:亀阜豊寿(きふほうじゅ)
一四三五~一五〇一年室町-戦国時代の僧。近江 (滋賀県)の人。近江の曹洞宗新豊寺の雪叟一純について出家し後に同寺天叟祖寅(てんそうそいん)の法をつぐ。能登総持寺、越中瑞泉寺(新川郡林崎)の住持をつとめ、富山市黒崎に最勝寺を開く。(※現在は富山市蜷川) 明応一〇年一月五日死去。六七歳。東海和尚の師匠(旗雲租旭師)の兄弟子に当る。天叟祖寅の直弟子。

■富山市蜷川は一休禅師(一休さん)の逸話に出る足利義満の家臣の「蜷川新右衛門」の一族が領有したとされ、キックボクシングの格闘家武蔵の先祖に当る。「最勝寺」は北陸自動車道富山インター近く、富山県健康増進センター・富山県医師会館の隣地に有る。
古い「最勝寺由緒」に「一休禅師の開基」とするものがある。この時に「越中五位庄」は足利義満の管理下に在り、「金閣寺」で知られる「相国寺」の庄園となっており、この時、赤丸村浅井神社で「赤丸在住の藤原真家の父の法要を亀阜豊寿が導師となって営んだ」記録が富山県史に記載されている。



【註】『足利義満』の時代には「越中五位庄」(元の越中吉岡庄)が『足利義満』により「相国寺」(※塔頭寺院として「金閣寺」がある。)に寄進されている。


■足利幕府関東公方・鎌倉公方と成田氏の盛衰
足利尊氏は権力を掌握すると京都に幕府を開き、関東鎌倉に第二子の基氏を配置して箱根以東の十か国を統治させた。これを関東管領と言ったが、その執事を務めたのが上杉氏だった。尊氏の孫の満兼は富強を誇り、自らを関東公方・鎌倉公方と称して、執事の上杉氏を関東管領とした。しかし、鎌倉は宗家の室町幕府に対抗して独自の動きをした為、絶えず紛争が起こっていた。上杉氏は当初、4家に分かれていたが、扇谷上杉氏・山内上杉氏の両家が残り、満兼の子持氏の時、執事の山内上杉憲実は「永亨の乱」を起こし、室町幕府と通じて持氏を倒し、正式に室町幕府から管領に任じられる。その後、八代将軍足利義政の時、持氏の子の成氏を迎えたが父の仇とする持氏は上杉憲実を殺害。幕府は公方の成氏を攻撃した為、成氏は鎌倉を捨て下総古河を本拠とし「古河公方」と呼ばれた。上杉一門は古川公方に対抗する為鎌倉に将軍義政の弟の足利政知を迎え、伊豆北条の堀越に御所を構え「堀越公方」と呼ばれた。しかし、その結果、山内上杉・堀越公方と扇谷上杉・古河公方の勢力で関東管領職を巡って対立する事になる。延徳二年(1491年)堀越公方足利政知の子の茶々丸の乱行により伊豆は混乱し、この機会を狙っていた伊勢新九郎は堀越公方家の茶々丸を追放し、伊豆一国の領主となり、韮山に築城して北条新九郎と名乗り、出家して北条早雲宗瑞と称した。この家系を「後北条氏」と呼ぶ。北条早雲の孫の氏康が跡を取り小田原城に拠点を構えていたが、北条氏の拡大を嫌った駿河の今川義元は山内上杉の管領上杉憲政に密使を送り援軍を求めた為、対立していた両上杉氏がこれに呼応し、古河公方の足利晴氏もこれに加わった。北条氏の川越城の攻防(川越夜戦)で北条氏康が勝利し、古河公方は下総古河へ逃げ帰り扇谷上杉朝定は戦死した。残った山内上杉憲政は居城の上野国平井の城を北条氏康に責められ、越後の長尾景虎を頼り、上杉の名跡と関東管領の職を譲り、景虎は上杉謙信と名乗る。しかし、北条氏康は関東公方の足利晴氏を捕え相模国波多野に幽閉し、その子義氏(北条氏康の妹である足利晴氏の正妻の子)を関東公方にして遂には関東の実権を握った。ここに、北条氏康、上杉謙信、今川義元の対立の時代となった。
下って天正十八年(1590年)、関八州を制覇していた北条氏に対して豊臣秀吉は三万二千の兵を連れて従わない北条氏康の子の氏政とその子の氏直の追討にかかり、小田原城の北条氏を攻めた。氏政とその子の氏直が秀吉方の上洛要請を蹴り、籠城か迎撃かの論議を長々と行って遂には籠城と決まった。これを「小田原評定」と呼んでいる。しかし、前田、上杉、真田等の秀吉方は諸城を落とし、北条氏の拠点の北関東鉢形城の北条氏那は開城し、小田原城は徳川家康の娘を妻としていた北条氏直の働きで氏政、氏照の切腹を条件として和議が成立した。しかし、この時になっても忍城の成田氏長は唯一降伏しなかった。忍城は埼玉県の利根川、古利根川、荒川、元荒川が流れる行田市の西方の一画にある。文明十年(1478年)、地元の豪族成田正等・顕泰親子は支配していた扇谷上杉氏に属していた同族で武蔵七党にの一つの児玉党の忍大丞一族を滅ぼして、延徳二年(1490年)成田氏十五代目成田下総守親泰が築城した。これに反発した扇谷上杉氏は忍城を攻撃するが扇谷上杉氏の家宰の太田道灌の仲介で和解(後に道灌は扇谷上杉氏に殺害された。)して以後、成田氏の居城となる。その後、北条氏康、上杉謙信の攻撃にも耐えた難攻不落の城であったが、豊臣方の石田光成は地形を利用した「水責め」を行い、周辺の河川を堤防で塞ぎ、籠城する成田氏長と対峙した。このシーンが「のぼうの城」のシーンである。成田長親は成田氏長の従兄弟で城代の父が亡くなった為、父の後を継いだ。成田氏長は忍城を築城した親泰の孫で、石田光成が堤防を造る為に採用した人夫はその食料、賃金を忍城に秘かに運び込み、この策略で氏長は耐え忍び、後には開城した。この後、関八州が徳川家康の所領となり、会津若松の蒲生氏郷の配慮で一万石を与えられ、豪勇の名高い娘の甲斐姫は豊臣秀吉の愛妾となり、成田氏長は烏山三万石の城主になった。成田長親も会津若松に移ったが、その後出家し尾張国に住み、慶長十七年(1613年)亡くなった。菩提寺は名古屋市大須の曹洞宗大光院(開山の明嶺理察は武蔵国埼玉郡忍「現・埼玉県行田市」の清善寺6世)※愛知県名古屋市中区大須2丁目7-25



■越中へ度々侵攻して一時期、越中、能登の一部を占領した上杉謙信。

■神保氏張の家臣の寺島牛之助に対して、天正五年、上杉謙信は「五位庄の安堵状」を授け、寺島牛之助は高岡市石堤の「柴野城」を居城として五位庄を統治した。



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