■「菅原道真」の編纂による「六国史 三代実録」の記載には「坂上氏は後漢孝霊皇帝の末裔」とされ、百済からやって来たと記されている。
■東大寺大仏造営の時に「米五千石」(※「東大寺要録」)を寄進して国司待遇の「員外介」に昇任した「利波臣志留志」の子孫は「越中石黒氏」とされる。「石黒光景」は赤丸浅井城を築き、その子の「石黒光弘」は福岡町の木舟城に在城したと伝わる。「越中石黒氏」については、「孝霊天皇」の子孫とされる系図と、その次の「孝元天皇」の子孫とされる二つの系図が在る。「古事記」では「孝霊天皇」の子の「日子刺肩別命」の子に「高志利波臣」が登場する。一方、「孝元天皇」の子孫の「武内宿弥」を祖先とする系図では、「射水臣」の同族として登場する。北陸各県の県史では一般的にこの「武内宿弥」を祖先とする系図が採用されている。
■菅原道真の編集とされる清和源氏の祖の清和天皇の時代の記録の「三代実録」には興味が有る事が記載されている。その上巻823(※大岡山書店版)には、「後漢の孝霊皇帝の四代の孫、阿智使主の子孫の坂上伊美吉能文等九人に坂上宿弥と賜姓した」、「百済から来た」と記されており、この「孝霊天皇は後漢の孝霊皇帝の名前を借りたもの」だった事を記している。何故、後漢の皇帝の名前を借りたのか? 漢の末裔の血筋が入っていたものか? 後漢の末裔の坂上田村麿とは縁者だったのか? 日本の歴史の中でこの時代は「欠史八代」と呼ばれ、実在が懸念されている。勇将「坂上田村麿」の一族は百済から来たとされ、古事記に登場する「高志利波臣」は「百済系」の一族とされ、東大寺の大仏造営の勧進をした「行基」も「本姓高志氏」とされ、百済氏族だったとその墓誌銘には記載される。「僧行基」は有名で各地に伝承が残る事から架空の人物の様に考えられているが、実際にその骨壺の断片も発掘されている。(※下記の記載中の黒い部分が残欠部分)
■一方、越中石黒氏が「武内宿弥」の系統という事になれば、この一族は蘇我氏や紀氏等の朝廷の中核になった貴族の系統という事になる。従って、この系統とされれば、この「利波臣」は大和系の一族という事に成り、説明がし易い。
そこで、疑問とされるのが、聖武天皇の発願によって東大寺の大仏造営が進められた時にその中心に在った僧「行基」の勧進に、何故、越中の「利波臣志留志」が率先して筆頭になる位の「米五千石」もの大金を寄進したかと言う疑問が残る。当時としては、寄進の額によって昇進が決まっていた事は勿論その背景に有るが、同じ「高志氏」の「行基」により「利波臣」が協力を求められたとすれば、分かりやすい。
■「行基」は各地に寺社を建てたとされるが、石黒氏が居城とした「赤丸浅井城」の守護神である「赤丸浅井神社」も、「行基」が開いたと伝わる事も、石黒氏と行基の繋がりを窺わせる。
古代には、中国の秦の始皇帝の子孫が日本に逃れて「秦氏」の姓を受け、京都の太秦等に機織りの文化を伝え、或は、百済や新羅等の韓国系貴族が亡命して、大和朝廷で姓を受け、領地を授けられて優遇されている。
特に清和天皇の時代に「坂上氏」の姓を受けた一族から、蝦夷征伐の英雄「坂上田村麿」が出現して、京都の「愛宕山」や「清水寺」では本尊として「坂上田村麿」の騎馬像「将軍地蔵」が奉られ、その後も武士が戦場に出向く時には、冑の中に「冑仏」としてこの「坂上田村麿」の騎馬像を納めて戦っている。「三代実録」によると、この「坂上田村麿」が「高志氏」、「利波臣」(※石黒氏)が同族という事になれば、見方によれば「武内宿弥」と「坂上田村麿」との混同が在った事も考えられる。この「三代実録」や「利波臣系図」、「越中石黒系図」の記録はどれもが作為的に改変されている事も考えられるが、「古事記」が意図的に改変されているとする歴史学者もおられ、この「三代実録」の記載では新たな第三の系統が出現した事に成り、疑問は広がるばかりだ。
「赤丸浅井神社」の背後にはこの「坂上田村麿」の「将軍地蔵」を祀った「愛宕社」が在り、この神社の別当は後に還俗して「愛山」を名乗っており、「赤丸浅井神社」鳥居や設備に愛山氏の寄進が多い事から、この愛宕社が「越中石黒氏」と相当の関係が在った事も窺わせるのだ。この「将軍地蔵」は、明治の廃仏毀釈の後に「愛宕社」が閉鎖され、神官の愛山氏が北海道へ去った時に、高岡市関町の「天景寺」(※元々赤丸村に在った。)へ客仏として動いたものと見られる。
(※「赤丸浅井神社三社権現」の一社の「舞谷八幡宮」もこの「坂上田村麿」や「武内宿弥」を武神とした越中石黒氏の信仰に繋がるものだろうか?
🔽「京都愛宕社」と「赤丸愛宕社」の「将軍地蔵」(※坂上田村麿像)
🔽「京都清水寺」の「坂上田村麿像」
■「越中石黒氏」の先祖の「利波臣志留志」は東大寺大仏造営に際して全国の豪族に率先して米五千石(※東大寺要録)を寄進して国司待遇に昇進して、越中に30%近く在った東大寺の庄園開発に当たっており、「東大寺庄園図」にも志留志のサインが在る。⇒「利波臣志留志」は「利波臣志留」と言う人物で「志 サクヮン」と言う当時の役職で在った人物と云う意味で有り、当時の役職ー正八位下【大志】、従八位上【少志】と言う位階から当時の地方官の役職を示している。当時の「四部官制」と言う役職により「カミ、スケ、ジョウ、サカン」は様々な文字で表されており、「神祗官」では伯・副・佑・史、「省」では鄕・輔・丞・録、「職」では大夫・亮・進・属、「寮」では頭・助・ 允・属、「国」では守・介・掾・目と異なった文字を使用するが、すべて『かみ』『すけ』『じょう』『 さかん』と読み、【兵衛府、衛門府、検非遣使】では「督」、「佐」、「尉」、「志」を使用している。「利波臣」は武人としてこの「志 サカン」を当てた官職だった様だ。
⇒★この御指摘は東大寺に御問い合わせの上確認済み。一般的にその名前を「利波臣志留志」としているのは誤りである。)
■東大寺大仏造営の時に「米五千石」(※「東大寺要録」)を寄進して国司待遇の「員外介」に昇任した「利波臣志留志」の子孫は「越中石黒氏」とされる。「石黒光景」は赤丸浅井城を築き、その子の「石黒光弘」は福岡町の木舟城に在城したと伝わる。「越中石黒氏」については、「孝霊天皇」の子孫とされる系図と、その次の「孝元天皇」の子孫とされる二つの系図が在る。「古事記」では「孝霊天皇」の子の「日子刺肩別命」の子に「高志利波臣」が登場する。一方、「孝元天皇」の子孫の「武内宿弥」を祖先とする系図では、「射水臣」の同族として登場する。北陸各県の県史では一般的にこの「武内宿弥」を祖先とする系図が採用されている。
■菅原道真の編集とされる清和源氏の祖の清和天皇の時代の記録の「三代実録」には興味が有る事が記載されている。その上巻823(※大岡山書店版)には、「後漢の孝霊皇帝の四代の孫、阿智使主の子孫の坂上伊美吉能文等九人に坂上宿弥と賜姓した」、「百済から来た」と記されており、この「孝霊天皇は後漢の孝霊皇帝の名前を借りたもの」だった事を記している。何故、後漢の皇帝の名前を借りたのか? 漢の末裔の血筋が入っていたものか? 後漢の末裔の坂上田村麿とは縁者だったのか? 日本の歴史の中でこの時代は「欠史八代」と呼ばれ、実在が懸念されている。勇将「坂上田村麿」の一族は百済から来たとされ、古事記に登場する「高志利波臣」は「百済系」の一族とされ、東大寺の大仏造営の勧進をした「行基」も「本姓高志氏」とされ、百済氏族だったとその墓誌銘には記載される。「僧行基」は有名で各地に伝承が残る事から架空の人物の様に考えられているが、実際にその骨壺の断片も発掘されている。(※下記の記載中の黒い部分が残欠部分)
■一方、越中石黒氏が「武内宿弥」の系統という事になれば、この一族は蘇我氏や紀氏等の朝廷の中核になった貴族の系統という事になる。従って、この系統とされれば、この「利波臣」は大和系の一族という事に成り、説明がし易い。
そこで、疑問とされるのが、聖武天皇の発願によって東大寺の大仏造営が進められた時にその中心に在った僧「行基」の勧進に、何故、越中の「利波臣志留志」が率先して筆頭になる位の「米五千石」もの大金を寄進したかと言う疑問が残る。当時としては、寄進の額によって昇進が決まっていた事は勿論その背景に有るが、同じ「高志氏」の「行基」により「利波臣」が協力を求められたとすれば、分かりやすい。
■「行基」は各地に寺社を建てたとされるが、石黒氏が居城とした「赤丸浅井城」の守護神である「赤丸浅井神社」も、「行基」が開いたと伝わる事も、石黒氏と行基の繋がりを窺わせる。
古代には、中国の秦の始皇帝の子孫が日本に逃れて「秦氏」の姓を受け、京都の太秦等に機織りの文化を伝え、或は、百済や新羅等の韓国系貴族が亡命して、大和朝廷で姓を受け、領地を授けられて優遇されている。
特に清和天皇の時代に「坂上氏」の姓を受けた一族から、蝦夷征伐の英雄「坂上田村麿」が出現して、京都の「愛宕山」や「清水寺」では本尊として「坂上田村麿」の騎馬像「将軍地蔵」が奉られ、その後も武士が戦場に出向く時には、冑の中に「冑仏」としてこの「坂上田村麿」の騎馬像を納めて戦っている。「三代実録」によると、この「坂上田村麿」が「高志氏」、「利波臣」(※石黒氏)が同族という事になれば、見方によれば「武内宿弥」と「坂上田村麿」との混同が在った事も考えられる。この「三代実録」や「利波臣系図」、「越中石黒系図」の記録はどれもが作為的に改変されている事も考えられるが、「古事記」が意図的に改変されているとする歴史学者もおられ、この「三代実録」の記載では新たな第三の系統が出現した事に成り、疑問は広がるばかりだ。
「赤丸浅井神社」の背後にはこの「坂上田村麿」の「将軍地蔵」を祀った「愛宕社」が在り、この神社の別当は後に還俗して「愛山」を名乗っており、「赤丸浅井神社」鳥居や設備に愛山氏の寄進が多い事から、この愛宕社が「越中石黒氏」と相当の関係が在った事も窺わせるのだ。この「将軍地蔵」は、明治の廃仏毀釈の後に「愛宕社」が閉鎖され、神官の愛山氏が北海道へ去った時に、高岡市関町の「天景寺」(※元々赤丸村に在った。)へ客仏として動いたものと見られる。
(※「赤丸浅井神社三社権現」の一社の「舞谷八幡宮」もこの「坂上田村麿」や「武内宿弥」を武神とした越中石黒氏の信仰に繋がるものだろうか?
🔽「京都愛宕社」と「赤丸愛宕社」の「将軍地蔵」(※坂上田村麿像)
🔽「京都清水寺」の「坂上田村麿像」
■「越中石黒氏」の先祖の「利波臣志留志」は東大寺大仏造営に際して全国の豪族に率先して米五千石(※東大寺要録)を寄進して国司待遇に昇進して、越中に30%近く在った東大寺の庄園開発に当たっており、「東大寺庄園図」にも志留志のサインが在る。⇒「利波臣志留志」は「利波臣志留」と言う人物で「志 サクヮン」と言う当時の役職で在った人物と云う意味で有り、当時の役職ー正八位下【大志】、従八位上【少志】と言う位階から当時の地方官の役職を示している。当時の「四部官制」と言う役職により「カミ、スケ、ジョウ、サカン」は様々な文字で表されており、「神祗官」では伯・副・佑・史、「省」では鄕・輔・丞・録、「職」では大夫・亮・進・属、「寮」では頭・助・ 允・属、「国」では守・介・掾・目と異なった文字を使用するが、すべて『かみ』『すけ』『じょう』『 さかん』と読み、【兵衛府、衛門府、検非遣使】では「督」、「佐」、「尉」、「志」を使用している。「利波臣」は武人としてこの「志 サカン」を当てた官職だった様だ。
⇒★この御指摘は東大寺に御問い合わせの上確認済み。一般的にその名前を「利波臣志留志」としているのは誤りである。)