赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴京都「仁和寺」⇒河内国『天野山金剛寺』⇒越中国【衆徳山総持寺 千手観音像】 の法灯!!

2021-02-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■富山県高岡市福岡町赤丸周辺に在った平安時代から続く庄園「越中吉岡庄」⇒南北朝時代末期から「越中五位庄」


■「宇多天皇」が創建された『仁和寺』の法灯を継ぐ寺院としては、「河内天野山金剛寺」や「等持院」が在った。室町幕府第3代将軍「足利義満」の子で、母は義満の御台所の「日野業子」で在った「法尊」【※応永3年12月30日(1397年1月29日)~ 】
は「仁和寺門跡・准后」に任じられている。「足利義満」の母は「宇多天皇」と「越中蜷川氏」の末裔の「紀良子」で、「足利義満」は「宇多天皇」の流れを汲むとされる。「越中国五位庄」を室町幕府の御料所とした「足利義満」は、後に「室の日野業子」の供養料として「五位庄」を自らが創建した「臨済宗相国寺」へ寄進して、「管領畠山満家」、「政所代蜷川新右衛門」に越中国礪波郡の統治を委ねたと云う。(※「蜷川村の郷土史」・「富山県史中世」)この時に、「越中守護畠山氏」の居城の「赤丸浅井城」の周辺からは、「臨済宗寺院以外の寺院」の立ち退きが命ぜられて、この時期に、現在、高岡市関町に在る「高野山真言宗越中総持寺」は「礪波郡赤丸村」の地から海沿いの地へ移り「浜総持寺」と称したと云う。(※「名古屋大須観音古記録」射水市松山学芸員論文)







「御室仁和寺」


■河内金剛寺を開かれた「後白河上皇」は「越中吉岡庄」(※「越中五位庄」の前身の庄園)を『蓮華王院三十三間堂』の庄園として寄進されて、三十三間堂に1001体の千手観音像を祀られた。







■富山県高岡市の『衆徳山総持寺』の「千手観音像」は『天野山金剛寺』から伝わったとされる。











■南朝が衰退し北朝になってくると「五位庄」は足利幕府が直轄し、「足利義満」は「五位庄」を[臨済宗相国寺]に寄進した。

・【明徳の和約】明徳3年/元中9年(1392年)年に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で和議と皇位継承について結ばれた協定で「明徳の和談」、「元中一統」とも云う。
この和約に従って同年閏10月5日(1392年11月19日)、南朝の「後亀山天皇」が吉野から京都に帰還し、北朝の「後小松天皇」に三種の神器を譲って退位し、南北朝の合一が成った。これに因り建武3年(1336年)以来の朝廷の分裂状態が終了した。
・明徳三年(1392年)足利義満により相国寺は伽藍の大造営が行われ、大法要が営まれた。(※「相国寺供養次第」)
・応永12年(1405年)足利義満により「五位庄」の半分を室日野業子(ナリコ)(定心院)の追善料として『京都相国寺』に寄進される。「金閣寺」は相国寺の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為金閣寺と呼ばれている。
・応永22年(1415年)足利義持により五位庄の半分が足利氏菩提寺の臨済宗等持院(京都市左京区)に寄進され下地は守護畠山満家に預け置かれた。(福岡町史)
→実際の管理は守護代の神保氏が担当していたと云う。
※「等持院常住記録」の寄進状記録による。(富山史壇2000.03 第131号)
※足利尊氏が夢想疎石を開山として請い、代々 足利氏の菩提寺になった「等持院」は、元々、「仁和寺」の一子院を前身としており、「足利義持寄進状」では守護請け地とされている。「衆徳山総持寺の千手観音像」が伝えられたとする「河内天野山金剛寺」も仁和寺末で有り、越中と能登の境に立地して後白河上皇や後鳥羽上皇が祈願寺にされたと云う『石動山天平寺』も仁和寺末で在ったと言う。『石動山』は勅許により毎年、近郷から米五升を集め、赤丸村の『川人山鞍馬寺』は同じく勅許により近郷53ケ村から各戸毎に毎年米一升を集めたと云われ、この習慣は現在も続けられている。高岡市の『総持寺』は、赤丸浅井神社の伝承では川人山鞍馬寺の48坊の一寺とも伝わり、天野山金剛寺は後白河上皇が開基とされ、越中吉岡庄は後白河上皇の庄園で在った事から、何れも後白河上皇の系統の寺で在った事が法灯を繋いだ原因の様だ。総持寺の千手観音像はこの時期の後白河、後鳥羽上皇の法灯を伝える重要な観音像なのだ。










★「足利義満」は「相国寺」を建立して盛大な供養を行った。この時には、北陸では承久の乱で幕府側に着いた加賀の「富樫氏」、越中の「井口氏」等がこの「相国寺供養記」に登場している。





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