赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌔鎌倉幕府の歴史を伝える『吾妻鏡』に登場する[ 越中吉岡庄 ]⇒南北朝後期から[五位庄](※「宝永誌」)

2021-04-17 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「吾妻鏡」の「越中吉岡庄」の記載








■古くは第五代孝昭天皇(紀元前393年崩御)の時に創建されたと伝わる「延喜式内社赤丸浅井神社」の記録に拠ると「近郷53ケ村」としてその中には「後の国吉郷23ケ村、宮島郷2ケ村を含む」とされており、白河天皇の時に初めて「上賀茂神社の庄園として登場する」古い庄園の「吉岡庄」は、近代迄続いた「五位庄」の領域と少し異なっていた様だ。





■「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄、皇室領・後院領で在った「越中吉岡庄」は南北朝後期に「五位庄」となった。(※「東寺百合文書」、「宝永誌」)
【鎌倉時代】の事を記載した「吾妻鏡」には「吉岡成佐不法の事」として「源頼朝の書状」に見られ、「義経記」では『勧進帳』のモデルとなった『二位の渡しの事件』として、又、【南北朝時代】の記録の「群書類従」中の『花営三代記』には南朝と北朝の激戦が行われた『桃井直常の五位庄の戦い』のシーンとして、【室町時代】の記録「東海宗洋の法語録」(※「富山県史」)では『川人山鞍馬寺』に於ける「藤原直家主催の法要記録」として、又、「東寺百合文書」で「おいの庄」「五位庄」として登場するこの庄園は、古くから、越中西部の西山丘陵と小矢部川流域の両岸に栄えていた。暴れ川で在った「小矢部川」下流は遠く福光の奥から流れ出る「小矢部川」と、遠く飛騨山脈から流れ出る「庄川」が合流していた為、両河川から毎年供給される肥沃な土に恵まれ、歴代の皇室や藤原氏、又、その関係の都の著名な神社・仏閣の費用を賄う「米の生産地」として重宝され、その為に、権力者同士の政争や戦争の舞台となってきた。しかし、この著名な庄園は、その関係者が余りにも「高貴な皇室」や時の「最高権力者」であり、それ故に幾多の戦乱の舞台ともなった為、現地にはその殆どの記録が焼かれて残されていない。しかも、余りにも以外な領主の所有した庄園で在った為に、世間の学者も耳を疑い、この庄園研究をためらい、在る者は真っ向から「あり得ない事」として頭から否定してきた。これが、この庄園が「伝聞」として地元の古老に言い伝えられるだけの庄園として扱われてきた理由だ。
しかし、平成26年に「国立歴史民俗博物館」が、「吉岡庄は新川郡(富山市吉岡村)、氷見市吉岡村、福岡町赤丸の三ヶ所が考えられている。」として学者が逃げていた通説に切り込み調査して、「越中吉岡庄は京都賀茂神社の庄園で在った。」「岐阜県史に登場する蓮華王院領越中吉岡庄」とする記録等を参考に、「越中吉岡庄は富山県福岡町も含む後の五位庄域」との見解を確定してこの博物館の「庄園データーベース」に掲載した。この確定はこの地域の歴史研究にとっては画期的な事である。それまで権威の象徴とされていた「東京大学資料編纂所」の各種データーベースでは、わざわざ「越中吉岡庄」について「新川郡」と註釈がつけられていた。その為、歴史研究の学者は頭からこの「定説?」を信用して、疑う事も無く東京大学の資料に準拠して「歴史研究」を進めてきた。
又、平成28年には「東寺百合文書」に見られる三通の文書を検討して、「おいの庄」とされる文書も「五位庄」を表現しているとの見解を統一して、庄園データーベースの「五位庄」の解説を修正、追加した。これで、越中の中心的な庄園で在った「越中吉岡庄」「越中五位庄」の歴史が認定され、初めてこの地域の歴史研究が端緒に就いたのだ。

■【延喜式内社赤丸浅井神社由緒】には【「保元の頃は「吉岡庄」と呼ばれた】と記載されている。











●『吾妻鏡』に見える「越中吉岡庄」⇒義経主従が奥州に落ち延びていた期間の「吉岡庄地頭」は「吾妻鏡」の記載からすると「成佐」と言う武将になる。
   
1187年 (文治3年 丁未)
…………………………
・3月2日 甲辰
後白河上皇の側近の藤原経房から『吉岡庄の地頭成佐』が収穫を送って来ない事を督促する文書が源頼朝に送られて、早く交替させよとの申し入れが在った。

【越中の国吉岡庄地頭成佐不法等相累ねるの間、早く改替せしむべきの由、経房卿の奉書到来す。仍って則ち御請文を献ぜらる。 去る月十九日の御教書、今月二日到来す。謹んで拝見せしめ候いをはんぬ。越中の国吉岡庄地頭成佐の事、御定に任せ、早く改定せしむべく候。但し彼の庄未だ復本 せざるの間、御年貢式数せざるの由、成佐これを申し候き。重ねて相尋ね候て、他 人に改めしむべく候なり。この旨を以て漏れ達せしめ給うべく候。頼朝恐々謹言。 三月二日 】

・ 3月4日 丙午
源頼朝が平家に焼かれた『東大寺』の復興の為に材木を調達する様に周防の国の地頭に命じた。

【東大寺造営の間、材木を引かんが為、人夫の事を仰せらるるの処、周防の国の地頭等対捍に及ぶと。二品殊に驚き申せしめ給う。精勤を致すべきの由、今日彼の地頭等中に仰せ遣わさると。 】

・3月5日 丁未
『義顕(幕府は義経を義顕と呼んでいる。)』が奥州に逃れて秀衡の下に匿われていると聞き、詮議を命じた。

【豫州義顕陸奥の国に在る事、秀衡入道結構を為すの由、諸人の申状符号するの間、厳密に召し尋ねらるべきの旨、先度京都に申しをはんぬ。仍って御沙汰に及ぶの由、右 武衛能保これを申さると。 】


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