赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🔹🔸 【孝明天皇 綸旨】(真筆)に見られる幕末の「尊皇攘夷」の動き⇒「聖護院派寺院 川人山鞍馬寺」と加賀藩の思惑!!

2021-04-19 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■「明治天皇」の父で在った「孝明天皇」は、頑固な「攘夷論者」で在ったと云われる。

■「正住院」(愛知県常滑市保示町1-56)の住職が「徳川家康」の従兄弟が住職を勤めた常滑市の「常楽寺」出身という事もあり,「正住院」にも「徳川家康」所縁の品々も保存されている。この寺は、「本能寺の変」で「織田信長」が殺害された時に逃げ帰った「徳川家康」が、命からがら海路逃げてこの寺に立ち寄った寺と言われる。
この寺は常滑では屈指の大寺で在り、この「綸旨」は「正住院」に対して、開国に動く徳川幕府を牽制して「天皇の寳祚を祈る様に申し付けた」綸旨。
(※発給は「左少弁万里小路博房」―藤原氏勧修寺流)
【天気執達如件】は綸旨の常套句で在り、「天皇の意向」で在る事を示している。









■この「孝明天皇」の子は「明治天皇」で、妹は幕末の「公武合体政策」の犠牲に成った「和宮」。「孝明天皇」は一時期、火災で皇居が焼かれて門跡寺院【聖護院】を行宮にされた。




■「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当【川人山鞍馬寺】はこの「聖護院末寺」で在り、幕末の加賀藩第十三代「前田齋泰」はこの時期に「浅井神社 」へ「書」を遣わしている。この書から「浅井神社」の額が製作されており、又、加賀藩板橋下屋敷には「赤丸山 」と云う築山が設けられていた。
加賀藩としても「孝明天皇」の攘夷論に同調するか、薩長連合に加担するかの分かれ目に在り、天皇家と密接な「聖護院派」に対しての懐柔作戦とも見られる。









「加賀藩第十三代藩主 前田斎泰」の親筆【浅井神社】





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