赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴📝【門跡寺院】  「後白河上皇」、「後醍醐天皇」の皇子が出家された京都の門跡寺院「聖護院」と「越中吉岡庄」の「聖護院派山伏 川人山鞍馬寺」・「延喜式内社赤丸浅井神社」(※高岡市福岡町赤丸)!!

2021-02-03 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
『越中吉岡庄』の庄園領主達


■「藤原摂関家」の長者で権力を振るった左大臣「藤原頼長」は、その冷徹な姿勢から「悪左府」と呼ばれて恐れられ、「越中吉岡庄」・「能登一青庄」を所有し、藤原氏長者として加賀の白山の麓に展開した藤原氏の名門「林一族」等を指揮して北陸の政治を統括させ、奥州藤原氏に指示して奥州平泉周辺の庄園を管理させ、金、馬、布等を上納させたと云う。伝説の「藤原利仁将軍」の末裔とされる藤原一族の名門の「加賀の林一族」には著名な「富樫氏」、「石浦氏」等が在り、越中では「石黒氏」、「井口氏」、「宮崎氏」等が藤原一族として歴史に名前を残している。



■「越中吉岡庄」は「保元の乱」以降は「後白河上皇」の「後院領」に成った。


■南朝の「後醍醐天皇」は「後白河上皇」以来の「越中吉岡庄」を所有し、自らは東寺の重宝の空海の袈裟を身に付けて北条氏を徴伏され、天皇自らの親政を目指された。この理想を実現しようとしたのが明治維新で在った。



■明治維新は「王政復古」を目指した革命で在り、模範を「後醍醐天皇の親政」に置いた。明治維新政府は帝国議会で「天皇の神璽を保有していた『南朝を正統とする議決』」を行って、南朝の「長慶天皇」も正式に認定して「皇統譜」に追加された。
この時に、「後白河上皇」以来、「後醍醐天皇」迄 上皇・天皇庄園『越中吉岡庄』として続いた皇室庄園で、「南朝の牙城」で在った『赤丸村』の「親王塚」・「親王屋敷跡」・「極楽寺跡」・「長慶天皇墓所跡」・「赤丸浅井城跡」等の歴史調査や、富山県の南朝有縁の地域の南砺市福野の「安居寺」等の寺社の調査も行われ、高岡市二塚の「後醍醐天皇皇子恒性天皇の墓」も正式に認定されて「宮内庁管理」の墓所に成っている。









■「越中吉岡庄」の「川人山鞍馬寺」は「門跡寺院・山伏本山派聖護院」の末寺で在った。








■「保元の乱」の戦勝で藤原摂関家藤原頼長の庄園「越中吉岡庄」は没官されて「後白河上皇の庄園(※「後院領」)」に成り、その後も「後鳥羽上皇」から「後醍醐天皇」迄、皇室庄園として伝領した。
(※「平範記」・「人車記」近衛家陽明文庫)




■「人車記」(※「陽明文庫」近衛家文書)に記載される「越中吉岡庄」の記録





■「越中吉岡庄」の中心寺院「川人山鞍馬寺」(※「延喜式内社赤丸赤丸神社」 ・「石堤浅井神社」・「舞谷八幡宮」を含む三社権現)は創建を「元正天皇二宮」(※文武天皇二宮・聖武天皇の弟)と伝えられ、皇室と所縁の強い寺社で在ったが、「後白河上皇」の皇子 で「以仁王」の弟の「浄恵法親王」や「後醍醐天皇」の皇子 で「宗良親王」の弟の「聖助法親王」が「聖護院」で出家された。
(※「群書系図部集」塙保己一・「大日本史料 第六編之一 後醍醐天皇」東京大学・「福岡町史[越州川人山鞍馬寺三社記])



■「後白河上皇」の皇子「浄恵法親王」が「聖護院」で出家された。


■「後醍醐皇子」の「聖助法親王」が「聖護院」で出家された。








■「後白河上皇」の皇子が聖護院初代門跡となられ、その後も「後醍醐天皇」の皇子も聖護院で出家された事から、天皇家庄園「越中吉岡庄」の「川人山鞍馬寺」は「天台宗 聖護院」の末寺と成った。
加賀藩の時代に「石堤浅井神社」の清水神官が高岡市の吉田神道「関野神社」に指導されて、勝手に「延喜式内社」を唱え、神域内の初穂米を本院の「赤丸浅井神社」に先立って集める等の不法を行い、勝手に吉田神道に基づく祭祀を行い初めた為に、「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」は加賀藩寺社奉行と本山聖護院に訴えて裁判に成った。
【※「福岡町史」・「浅井神社一件記録」金沢市立図書館(※皆月文書)】





■「聖護院派 赤丸浅井神社」と「吉田神道 石堤浅井神社」の裁判では富山県内の有力な聖護院派寺院も「赤丸浅井神社」と連帯して訴訟に当たっている。その結果、「川人山鞍馬寺」が勝訴し、「石堤浅井神社」の神官に対して吉田神道の祭具を撤去して元々の形に戻す様に判決が下りた。


■現在も「延喜式内社赤丸浅井神社」には「川人山鞍馬寺」の仏像や「聖護院宮御用」の奉納札が遺されており、神殿には皇室の「菊御紋」が刻まれて、皇室所縁の歴史を遺している。
「川人山鞍馬寺」の本坊は、一向一揆の嵐が五位庄に吹き荒れた頃に、一向宗(※浄土真宗)に改宗して、赤丸城の中山氏に追われ、福岡町一歩二歩に逃れて「法筵寺」と改名した。「一向一揆」の時に「赤丸城」には一揆の指導者「下間和泉」入城したと伝えられ、赤丸村は一揆の牙城に成った様だ。記録では、加賀の一向一揆衆が石川県境の「朝日城」で加賀の富樫氏を破り、越中に雪崩れ込んで「五位庄」に集結したとされる。
(※「越中志徴」・「富樫軍記」)





■明治維新の時、加賀藩の影響で維新政府の神祇官と成った吉田神道「関野神社」の主導で、県内の両部神道は廃止に追い込まれ、「赤丸浅井神社」の祭祀を行っていた「山伏西宝院」は還俗に追い込まれて、神官「川人他治馬」と名乗った。
(※「越中浅井神社古墟図」石川県立図書館森田柿園文庫)



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