赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴《富山県高岡市福岡町赤丸》【赤丸浅井城】と【赤丸城】⇒養老年間から続いたと伝えられる知られざる越中の古城【赤丸浅井城】!!!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





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■「赤丸浅井城」は越中の江戸時代の古書「肯搆泉達録」には、「赤丸浅井神社を創建された元正天皇の二宮が在城された」と記載され、「赤丸浅井城」が「養老年間」からの「越中の古城」で在った事を伝えている。その後、一向一揆の首領「下間和泉在城」とも記載されている。











「本願寺坊官下間頼龍から赤丸村信徒への志納銀受取状」
(※⇒「城端別院《一向一揆》文書」富山県立公文書館)


■室町時代の「畠山家文書(羽曳野市資料叢書)」には、「越中の古城 赤丸浅井城」を表示した【越中絵図】が遺されている。
「赤丸城」は往々にして城ヶ平山の古城と理解されているが、「赤丸浅井城」の城主「中山直治」の由緒(※敦賀市立博物館所蔵)には「赤丸浅井城城主中山直治」として記載されており、「赤丸浅井城」が主城で有り、「赤丸城」は見張りの役を担う別の城で在った事は間違いない。「富山県西砺波郡紀要」等に遺される記録にも「赤丸浅井城は兄の中山国松」が守り、「赤丸城」には弟の「中山次郎兵衛」が守ったと記載されている。(※敦賀市立博物館の「中山家文書」には、「天正年間の城主中山治部左衛門国松が赤丸村の長善寺へ米を貸し付けた証文」が遺されている。)





■足利家菩提寺「臨済宗等持院」の記録【等持院常住記録】には、「足利義持が五位庄の半分を等持院に寄進した時に下地は室町幕府管領畠山満家に預け置かれた。」と記され、「越中絵図」の「赤丸浅井城」には「畠山持国 上分」の記載が見られる。
この事から、「五位庄の半分の下地からの収穫物は管領畠山満家の管理の下で等持院へ納め、越中地域の地頭として息子の越中守護畠山持国が赤丸浅井城を居城として越中全体の行政を担当した」事が分かる。

(※室町幕府領の氷見郡阿怒庄《1878年【明治11年】から射水郡》は「蜷川新右衛門親元」が政所代として統治したが、代官として守山城の神保氏が代行している。越中守護畠山持国は京都や大阪府羽曳野市の本城に住み現地には代官神保氏が当たっている。⇒「蜷川家文書」大日本古文書 家わけ第21)






「室町幕府御料所 越中五位庄」が記載される羽曳野市の「畠山文書」!






■当初、「越中五位庄」が「足利義満」によって「臨済宗相国寺」へ寄進され、その後、「五位庄の半分」が等持院へ寄進されている。この頃、「赤丸浅井城」の在った「赤丸村」からは、「臨済宗以外の寺院が立ち退きを命ぜられた」と越中(富山県高岡市柴野)の「元臨済宗寺院三光寺」に現在も伝えられる。
(※「三光寺」には南北朝時代に越中吉岡庄へ移住したという「宇多刀工」の墓所とともに「畠山家」の墓所も在る。)
赤丸村に在った古刹の「越中総持寺」はこの頃、小矢部川河口の「六渡寺村」へ動き、その落慶法要が盛大に行われ、この時に「越中守護畠山持国が父親の管領畠山満家の三回忌を営んだ」という「名古屋大須観音」の記録とも合致する。(※「赤丸浅井神社記録」、「射水市松山学芸員論文」)









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