2024年5月22日(水)
#412 フェントン・ロビンスン「Somebody Loan Me A Dime」(Alligator)
フェントン・ロビンスン、1974年リリースのアルバム「Somebody Loan Me A Dime」のタイトル・チューン。ロビンスン自身の作品。ブルース・イグラウアーによるプロデュース。
米国のブルースマン、フェントン・ロビンスンは1935年、ミシシッピ州グリーンウッド生まれ。T・ボーン・ウォーカー、B・B・キングなどを聴いてギターを始める。
51年、生家を離れてテネシー州メンフィスに移り、プロのミュージシャンを目指す。
初レコーディングは57年、ミーティアレーベルからリリースしたシングル「Tennessee Woman」。
出世作は59年、デュークレーベルからリリースの「As The Years Go Passing By」。この曲はプロデューサーのディアドリック・マローン(ドン・ロビー)の作品となっているが、実際にはブルースマン、ペパーミント・ハリスが書いたものだ。のちにアルバート・キングのカバーでよく知られるようになる。
62年にシカゴに移住。クラブで演奏する一方で、いくつかのレーベルでレコードを出す。67年にパロスレーベルでレコーディングした一曲が、当時シカゴを襲った異常な吹雪のため、全国リリースが中止されるという常ならぬ事態が起きてしまう。その曲とは、本日取り上げた「Somebody Loan Me A Dime」である。(当時のタイトル表記は「Somebody (Loan Me A Dime)」。
この曲はそれでも、一部に愛好者を生み出す。その明らかな証が、2年後の69年、駆け出しの頃の白人シンガー、ボズ・スキャッグス(1944年オハイオ州生まれ)がアルバム「Boz Scaggs」でカバーバージョンをレコーディングしたことである。タイトルは「Loan Me A Dime」。
その時、作者のクレジットがスキャッグスとなっていたために法廷での係争にまで発展するという、余計なおまけまでついてしまったものの、この曲に強い魅力があることの証明ともなった(裁判はロビンスン側が勝訴)。
初のアルバム・レコーディングは1971年、セブンティセブンレーベルから。そして1974年、ロビンスンはアリゲーターレーベルで、この因縁の曲の再録音版を含むアルバムをリリースすることになる。7年ぶりのリベンジである。
再録音バージョンのメンバーは、ロビンスンのほかギターのマイティ・ジョー・ヤング、ピアノのビル・ハイド、ベースのコーネリアス・ボイソン、ドラムスのトニー・グッデン、そしてトランペットのエルマー・ブラウンをはじめとするブラスセクションだ。
曲調はミディアム・スローのブルース。ちょっとイレギュラーな転調を含むコード進行が特徴。
歌詞内容はごくシンプルで、読んで字の如し的なストレートなものだ。心変わりして自分から離れていこうとする恋人を引き留めるため、電話をしないといけない、どうか僕にダイム(10セント硬貨)を貸してくれないかという、悲痛な願いの歌である。
この歌詞が聴き手の心に刺さり、この曲、そしてアルバムはヒットとなった。日本でもポニー・キャニオンでアルバムが出た。これは、当時としてはかなり異例の、ブルースレコードのリリースだった。
そして、このアルバムや3年後にリリースされた「I Hear Some Blues Downstairs」がきっかけで、ロビンスンは日本でも人気が高まるようになる。70年代、わが国でレコードが最も売れたブルース・ミュージシャンは、実はロビンスンだったとも言われている。
ロビンスンの歌と演奏には、一聴して彼だとわかるものがある。やや高めで繊細な声による泣き節、チョーキングをあまり使わずにグリッサンドを多用し、フレーズにジャズィな雰囲気が濃厚なギター・プレイ、そして多くの曲に漂うメロウなムードがそれである。
ひとことでいえば、オトナのブルース。
若さ、快活さ、パワーよりも、熟練、都会的な洗練、落ち着きみたいなもので、聴き手を魅力するのである。
その後ファンの強いリクエストにより、日本公演が予定されていたが、事情により入国ビザが発給されず、公演は中止となってしまった。ようやく初来日公演が実現したのは、89年のことだった。
米国のブルースマン、フェントン・ロビンスンは1935年、ミシシッピ州グリーンウッド生まれ。T・ボーン・ウォーカー、B・B・キングなどを聴いてギターを始める。
51年、生家を離れてテネシー州メンフィスに移り、プロのミュージシャンを目指す。
初レコーディングは57年、ミーティアレーベルからリリースしたシングル「Tennessee Woman」。
出世作は59年、デュークレーベルからリリースの「As The Years Go Passing By」。この曲はプロデューサーのディアドリック・マローン(ドン・ロビー)の作品となっているが、実際にはブルースマン、ペパーミント・ハリスが書いたものだ。のちにアルバート・キングのカバーでよく知られるようになる。
62年にシカゴに移住。クラブで演奏する一方で、いくつかのレーベルでレコードを出す。67年にパロスレーベルでレコーディングした一曲が、当時シカゴを襲った異常な吹雪のため、全国リリースが中止されるという常ならぬ事態が起きてしまう。その曲とは、本日取り上げた「Somebody Loan Me A Dime」である。(当時のタイトル表記は「Somebody (Loan Me A Dime)」。
この曲はそれでも、一部に愛好者を生み出す。その明らかな証が、2年後の69年、駆け出しの頃の白人シンガー、ボズ・スキャッグス(1944年オハイオ州生まれ)がアルバム「Boz Scaggs」でカバーバージョンをレコーディングしたことである。タイトルは「Loan Me A Dime」。
その時、作者のクレジットがスキャッグスとなっていたために法廷での係争にまで発展するという、余計なおまけまでついてしまったものの、この曲に強い魅力があることの証明ともなった(裁判はロビンスン側が勝訴)。
初のアルバム・レコーディングは1971年、セブンティセブンレーベルから。そして1974年、ロビンスンはアリゲーターレーベルで、この因縁の曲の再録音版を含むアルバムをリリースすることになる。7年ぶりのリベンジである。
再録音バージョンのメンバーは、ロビンスンのほかギターのマイティ・ジョー・ヤング、ピアノのビル・ハイド、ベースのコーネリアス・ボイソン、ドラムスのトニー・グッデン、そしてトランペットのエルマー・ブラウンをはじめとするブラスセクションだ。
曲調はミディアム・スローのブルース。ちょっとイレギュラーな転調を含むコード進行が特徴。
歌詞内容はごくシンプルで、読んで字の如し的なストレートなものだ。心変わりして自分から離れていこうとする恋人を引き留めるため、電話をしないといけない、どうか僕にダイム(10セント硬貨)を貸してくれないかという、悲痛な願いの歌である。
この歌詞が聴き手の心に刺さり、この曲、そしてアルバムはヒットとなった。日本でもポニー・キャニオンでアルバムが出た。これは、当時としてはかなり異例の、ブルースレコードのリリースだった。
そして、このアルバムや3年後にリリースされた「I Hear Some Blues Downstairs」がきっかけで、ロビンスンは日本でも人気が高まるようになる。70年代、わが国でレコードが最も売れたブルース・ミュージシャンは、実はロビンスンだったとも言われている。
ロビンスンの歌と演奏には、一聴して彼だとわかるものがある。やや高めで繊細な声による泣き節、チョーキングをあまり使わずにグリッサンドを多用し、フレーズにジャズィな雰囲気が濃厚なギター・プレイ、そして多くの曲に漂うメロウなムードがそれである。
ひとことでいえば、オトナのブルース。
若さ、快活さ、パワーよりも、熟練、都会的な洗練、落ち着きみたいなもので、聴き手を魅力するのである。
その後ファンの強いリクエストにより、日本公演が予定されていたが、事情により入国ビザが発給されず、公演は中止となってしまった。ようやく初来日公演が実現したのは、89年のことだった。
97年にも再来日の予定があったが、ロビンスンの体調不良により中止となった。よくよく日本との縁が薄い人である。
そして同97年、脳腫瘍の合併症により62歳でロビンスンはこの世を去っている。
今となっては、かつての人気はすっかり忘れ去られてしまったが、この「Somebody Loan Me A Dime」というアルバムが彼のベストな作品という事実にはゆるぎがない。
何度聴いても、その完成度の高いサウンドに、ブルース愛好家の心は躍るのである。
ロビンスンの哀感に満ちた歌声、そして魂を揺さぶるようなギター・プレイに耳を傾けてくれ。
そして同97年、脳腫瘍の合併症により62歳でロビンスンはこの世を去っている。
今となっては、かつての人気はすっかり忘れ去られてしまったが、この「Somebody Loan Me A Dime」というアルバムが彼のベストな作品という事実にはゆるぎがない。
何度聴いても、その完成度の高いサウンドに、ブルース愛好家の心は躍るのである。
ロビンスンの哀感に満ちた歌声、そして魂を揺さぶるようなギター・プレイに耳を傾けてくれ。