NEST OF BLUESMANIA

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音曲日誌「一日一曲」#435 ウィリー・ディクスン「I Ain’t Superstitious」(Columbia)

2024-06-14 08:06:00 | Weblog
2024年6月14日(金)

#435 ウィリー・ディクスン「I Ain’t Superstitious」(Columbia)




ウィリー・ディクスン、1970年リリースのアルバム「I Am The Blues」からの一曲。ディクスン自身の作品。アブナー・スペクターによるプロデュース。

米国のブルースマン、ソングライターにしてプロデューサー、ウィリー・ディクスンことウィリアム・ジェイムズ・ディクスンは1915年7月、ミシシッピ州ビックスバーグ生まれ。14人兄弟のひとりだった。4歳で教会で歌うようになる。

その後はジャズ・ピアニストのリトル・ブラザー・モンゴメリーを愛聴していたが、10代でミシシッピ州の刑務所農場で服役中、ブルースをよく聴くようになる。

10代後半、ゴスペル・グループ、ジュビリー・シンガーズを率いていたセオ・フェルプスに師事、ハーモニーを学んで自身も曲作りを始める。

1936年にシカゴに移住。巨体を生かしてボクシングの道に入り、イリノイ州ゴールデン・グローブズ選手権のヘビー級で初優勝し、1939年にプロボクサーになる。金銭トラブルがあり、4試合で廃業。

ボクシング・ジムでブルースピアニスト、レナード・キャストンと知り合ったことがきっかけで、シカゴのボーカルグループに参加するようになる。キャストンの勧めにより、ベースやギターも弾き始める。

39年、キャストンを含む4人のメンバーと共にファイブ・ブリーズを結成、ブルースとジャズを融合させたサウンドを生み出す。第二次大戦が始まり、兵役を拒否したディクスンは投獄され、音楽活動はストップしてしまう。

終戦後の40年代後半はフォー・ジャンプス・オブ・ジャイブスを経て、再会したキャストンらとビッグ・スリー・トリオを結成する。このグループは筆者も以前「一枚」にて取り上げている。

51年にトリオを解散した後は、チェス・レコードと契約を結び、スタジオ・ミュージシャン、そしてレーベルの管理業務につくようになる。

ディクスンはマディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、リトル・ウォルター、ボ・ディドリーら多くのブルース・ミュージシャンのバックをつとめ、彼らに楽曲を提供することでチェスの黄金時代を支えたのである。代表的なヒットは54年のマディ・ウォーターズの「Hoochie Coochie Man」、60年のハウリン・ウルフの「Spoonful」。

彼はチェスとその傘下のチェッカーだけでなく、50年代後半にはコブラレーベルでも働き、オーティス・ラッシュ、マジック・サム、バディ・ガイ、リー・ジャクスンらをプロデュースする。

ディクスンはレーベルを越えて、シカゴ・ブルース界全体でもトップ・プロデューサーとなったのだ。

59年以後は、自身名義のアルバムもリリースしていく。59年ブルースヴィルレーベルよりリリースした「Willie’s Blues」を皮切りに、ヴァーヴ、フォークウェイズなどから、ピアノのメンフィス・スリムとの共演盤を年1枚程度のペースで63年まで発表して、シンガー、ペース・プレイヤーとしての存在感をアピールしている。

しばらくの沈黙の後、70年にリリースされたのが、本日取り上げた一曲「I Ain’t Superstitious」(「迷信嫌い」と邦訳されることが多い)を含むアルバム「I Am The Blues」である。

これは彼が招集したシカゴ・ブルース・オールスターズをバックにレコーディングされた。メンバーはハープのビッグ・ウォルター・ホートン、ピアノのラファイエット・リーク、同じくサニーランド・スリム、ギターのジョニー・シャインズ、ドラムスのクリフトン・ジェイムズ。いずれも、シカゴ・ブルースを代表する名プレイヤーだ。もちろん、ボーカルとペースはディクスン自身である。

収録された9曲はいずれも、過去に彼が作曲して他のアーティストに提供し、ヒットしたナンバーばかり。つまり、まるごと一枚、セルフカバーのアルバムなのである。

「I Ain’t Superstitious」のオリジナルはハウリン・ウルフ。61年12月に、ベースのディクスン、ピアノのヘンリー・グレイ、ギターのヒューバート・サムリン、ジミー・ロジャーズ、ドラムスのサム・レイ、そしてボーカルのウルフというメンバーでレコーディングされている。

本曲の、従来のブルースとはひと味違ったポップなセンスに注目したのは、ヤードバーズを脱退後、ボーカルにロッド・スチュワートを迎えて自らのグループを結成したロック・ギタリスト、ジェフ・ベックだった。

68年7月リリースのデビュー・アルバム「Truth」で本曲のカバー・バージョンが収録された。そのハードでアグレッシブなサウンドは、当時のリスナーに大きな衝撃を与えたものである。

この近年のカバーバージョンを強く意識してのことだろう、「I Am The Blues」にも本曲が、数あるディクスンの作品群の中から選ばれた。

アレンジは、オリジナルやベック版のようなストップタイムを用いず、全編軽快なテンポのシャッフル。歌い口もウルフやロッドのようなアクの強さはないが、ディクスンらしい歯切れのいいものだ。

バックで目立っているのは、リズミカルなビッグ・ウォルターのハープだな。シャインズのギター・ソロもシブい味を出している。

このいかにも陽気なアレンジが、本曲の持つブラック・ユーモアをうまく引き立てているのである。

このアルバム「I Am The Blues」は1986年にブルースの殿堂入りを果たす。また、「I Ain’t Superstitious」も、2017年にオリジナル・バージョンがブルースの名曲として同殿堂入りを果たしている。

ディクスンはその後もアルバムリリースやライブなどで活躍を続け、1988年のアルバム「Hidden Chrams」でグラミー賞を獲得する。長年のブルースに対する貢献が認められたのである。

1992年1月、76歳の時カリフォルニア州バーバンクでこの世を去る。彼の体躯と同様、堂々たる人生であった。

若い頃には悪ガキで、ヤンチャもいろいろとやって臭い飯を食べていた時期もあったが、音楽が見事に彼を更生させたのだと思う。

筆者も残る人生、ディクスンには到底及ばないが、音楽に我が身を捧げて生きていきたいものだ。

「俺がブルースだ」と言い切った男、まさにブルースの権化のようなウィリー・ディクスンの、畢生の力作を味わってくれ。






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