NEST OF BLUESMANIA

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音曲日誌「一日一曲」#446 セルジオ・メンデス&ブラジル’66「Mas que Nada」(A&M)

2024-06-25 07:31:00 | Weblog
2024年6月25日(火)

#446 セルジオ・メンデス&ブラジル’66「Mas que Nada」(A&M)




セルジオ・メンデス&ブラジル’66、1966年リリースのシングル・ヒット曲。ジョルジ・ベンの作品。ハーブ・アルパート、ジェリー・モスによるプロデュース。

ブラジルのピアニスト/コンポーザー、セルジオ・メンデスは1941年2月リオデジャネイロ生まれ。父親は医師で、幼少期からピアノを習い、クラシックの奏者を目指して音楽学校に通う。

メンデスは10代に入るとジャズに興味を持つようになり、50年代後半、アントニオ・カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルトらにより台頭してきたボサノバにも大きく影響を受けて、そういった曲をクラブで演奏するようになる。

61年、ボッサ・リオ・セクステットを結成、ヨーロッパと米国をツアーし、キャノンボール・アダレイ、ハービー・マンら米ジャズ・ミュージシャンとも共演する。

64年に米国に移住、活動の拠点を移す。65年、セルジオ・メンデス&ブラジル’65としてレコードを2枚リリースする。

翌66年、グループ名をブラジル’66と変えて出したアルバムが全米7位、ジャズチャート2位と大ヒットして、世界的なボサノバ・ブームの牽引役となった。

本日取り上げた一曲「Mas que Nada」は、そのアルバムからシングル・カットされて全米47位、イージーリスニングチャート4位、カナダ54位のスマッシュ・ヒットとなり、アルバムの売り上げ拡大にも大きく貢献したナンバーだ。

日本でもよく聴かれて、メンデスの特徴あるヒゲ面は、われわれ日本人にもお馴染みのものとなった。今考えてみれば、当時メンデスはまだ25歳。これには驚く。筆者も含めてリスナーは彼のことを、年齢よりだいぶんアダルトな人だと錯覚していたわけだ。

のちにメンデス自身が「ポルトガル語の曲が米国や世界中でヒットしたのはこれが初めてだった」と語ったように、本曲のヒットは、ブラジル産のローカルな音楽が、世界中に認められた最初の一歩だったのである。

この曲のレコーディング・メンバーは、ピアノ・コーラスのメンデスのほか、女声リードボーカルのラニ・ホール(1945年米国生まれ)、同じくコーラスのビビ・フォーゲル、ベース・コーラスのボブ・マシューズ、パーカッション・コーラスのホセ・ソレアス、ドラムスのジョアン・パルマという、ブラジル・米国人混成の構成であった。アレンジはメンデスが担当。

本曲はもともとブラジルのシンガーソングライター、ジョルジ・ベン(現地発音ではホルへ)が、63年にシングルリリースした自作曲だ。

ベンは39年リオデジャネイロ生まれ。63年にアルバム「Samba Esquema Novo」でレコードデビュー、その中から本曲が同時にカットされたのである。

オリジナル版は本国ブラジルでも大ヒットとはならなかった。だが、この曲の強い魅力に目を付けたメンデスが、その存在を地味なままでは終わらせなかった。

軽快なアレンジと流麗な歌、コーラスにより、「Mas que Nada」(原意は「それ以上」)は、ポップ・チューンとしてその装いを新たにして、華麗に甦ったのである。

その哀感を含む独特なメロディラインが、米国のポピュラー・ソングにはなかった味を持つ一曲。

しかし、現地のボサノバ・サウンドをそのまま紹介しただけでは、おそらくヒットには繋がらなかったに違いない。

米国のジャズをしっかりと学び、知悉したセルジオ・メンデスだったからこそ、ボサノバとファンキーなジャズを完璧に融合させて、米国人にもアピールする音楽へと昇華出来たのである。

以降、メンデスはブラジル音楽を紹介する一方で、ジャズ、ロック、ポップスなどさまざまなスタイルの音楽をボサノバとして料理していく。

そのアレンジの巧みさで、60年代後半のポップ・シーンをリードした男、セルジオ・メンデス。とても20代青年の仕業とは思えない妙技を、最初のクリーン・ヒット曲で味わってほしい。




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