波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

米連邦最高裁欠員判事の指名

2005-07-21 01:41:04 | 米国事情
 以前の記入で米連邦最高裁判事の一人が引退し,空席状態になったことを書いたが,19日の夜,判事候補が指名された.本来ならば,今月末になると予想されていた指名発表が急遽繰り上げされた背後には,米報道媒体上で大統領顧問のKarl Roveが漏洩事件で最近乱れ打ち状態にあり,報道媒体の注目の的を逸らす火消し的意図があったとされている.
 今回指名された候補(John G. Roberts, Jr.)は,現政権誕生後,周到に用意されていた「養殖候補」の一人と思われる.共和党政権下で経験を十分に積んだ忠誠度が鉄板の候補者群から,粒よりの候補を連邦高裁に予め送り込んでおくが,連邦議会上院での承認過程で批判の手ががりを与えないように,連邦高裁での任期は短めにして判例における意見から正体が露見しないようにする,という養殖法だ.安定した人間社会の建前的規範の一つとして,人を疑うよりも信じるべきである,というものがある.そのような規範の下で,他意を密かに抱いている者に対して,「他意あり」とあからさまに批判することは非常に難しい.「性根が素直でない」と批判を受けるのが関の山だ.これと同様の状況が,同指名候補の承認過程で生じるに違いない.当該指名候補が共和党政権下で果たした役割や彼の妻が妊娠中絶反対団体の役員であること等から総合すると,10月より始まる次期連邦最高裁開期中に,妊娠中絶に関する上告があった場合,現職のKennedy判事が保守派に付くと,1973年の妊娠中絶を合法化した判例は,形骸化(合法であるが,その他の法的拘束により医者が実質的に実施不可能)されるか,名実ともに覆されるか,の何れかになるだろう.これも,現政権に投票した保守系鉄板福音主義者その他に対する報酬の一つである.
 中絶反対の立場を米語で通称"pro-life"と読んでいるが,これは外見と中身が一致していない名付け方だ.より正確な名称は"pro-birth"になる.彼等は,出産までは口を酸っぱくしてあれこれ説教を垂れるが,出産後の育児等の生まれた子供が社会の中で健やかに育つための政策その他には殆ど関心がない.十代妊娠の母子家庭で育った子供が,生活環境の劣悪さから,社会に様々な危害を引き起こし,その対策のため納税者の税金が多大に出費されたとしても気に留めない.何故なら,彼等は,大抵,養子と基督教で全てが解決する,というような単純な世界観で社会の物事を見ているからだ.あの悪名高い禁酒法を成立させた思考と同根の発想だ.確かに節度に欠けた飲酒が社会に問題を引き起こしていることは確かだが,それを御法度にしても,人間の性根は変え難く,却って,御法度以前以上の害毒を撒き散らしたことは否めない.妊娠中絶という手術が望ましくないのであれば,なぜ強姦事件等の際に用いられる妊娠防止薬の市販に反対したり,そのような妊娠防止手段が存在することを強姦被害者に伝えることに反対するのであろうか.また,彼等は阿弗利加等で猖獗(しょうけつ)をきわめているAIDSに対する拡散防止手段としてのcondomの配布に反対しているため,米共和党政権は米国の国連拠出金がcondomの配布等を含んだ家族計画等に支出されないようにしている.救える人々を救わず,AIDSは神の教えに背いた天罰と切り捨てるような立場が,果たして"pro-file"というような代物だろうか.結局,行き着くところは,基督教教父時代,自分の奔放な性欲に振り回された聖Augustineと性愛を肯定する立場の伊太利の司教Julinaとの間で交えられた性愛論争で,前者が多数派工作に勝利し,その後の基督教教義の正統に地位を得た時点になるだろうか.昨年発表されて調査によると,皮肉なことに,保守系福音主義が強い米南部の州では,自由主義傾向が相対的に強い北東部の州等と比較して,離婚率が非常に高い.これは,婚外での性交渉に対する宗教上の禁忌圧力が南部では高いため,後先考えずに,性交渉が原因で10代で結婚,後日自らの短慮を後悔して,あっさり離婚してしまう,とうい説明が説得力がある.
 1960年代の公民権の確立課程においては,人種隔離政策を維持してきた南部の州に対して,連邦法・判例による外圧を必要とした.あれから40年の間,公民権法等に見られる全国一律的法執行に反対する保守派は,米憲法修正第10条(本憲法によって合衆国に委任されず、また州に対して禁止されなかった権限は、それぞれの州または人民に留保される)を盾に,州権の国権に対する優越を主張して,保守化が進む連邦最高裁で数々の勝訴を引き出してきた.ところが,行政,立法,そして司法も自らの手中に収めようとしている今,inside out(裏返し)的に,従来あれ程嫌ったはずの国権を行使して,自らの価値観を全米に遍く浸透させようとしている.この辺りに,米保守派の正体,一般大衆に振りまく建前・見かけ(昔気質の一本気)とは全く異なる,御都合主義的な一環性の欠如が顕在している.
 来年,もし上記1973年の判例が覆され,且つ,薬物による妊娠防止等も実質非合法となれば,禁酒法と同じく,闇での中絶,特に未成年によるものが再浮上し,短慮の少女が若い身空で命を落とすという,1973年以前の世界が再現される可能性が高い.そのような惨事が出来しても,彼等にとっては,相変わらずの,「神の教えに背いた天罰」という紋切り型の答えしか戻ってこないに違いない.

註:
 1960年代以前の米共和党は南部での浸透力が弱く,南部の福音主義系基督教集団の影響力は限られていた.前世紀初頭,汚職追放・行政改革等の原動力となった進歩主義を唱道したのは,民主党ではなく,共和党系の政治家だった.そのような経緯もあって,1960年代以前は共和党内に「経済政策では保守だが社会政策では中立・進歩的」という政治家が未だ多く存在し,例えば,41代大統領がその昔Texas州選出の連邦議会下院の駆け出し共和党議員の頃,彼は家族計画支持者だった(勿論,1980年の大統領選で副大統領候補になるまでに,彼は転向を済ませていたが).しかし,1960年代半ばの公民権法施行以降,南部の旧人種隔離政策賛成派が古巣の民主党から飛び出して共和党に鞍替えしたことにより,共和党内での南部の影響力が高まり,選挙その他で強力な実力を発揮する保守系福音主義基督教集団との強い提携が生まれ,上記の社会政策では非保守という立場の政治家は共和党内で少数派に転落,現在,東西両岸の自由主義的州にのみ棲息できる絶滅に瀕した集団となってしまった.加州の知事や紐育市の市長は現在共和党所属だが,南部の鉄板共和党員からすれば,二人とも選挙のために「共和党」の看板を掲げただけの中身は民主党員のそれと瓜二ついう評価になるだろう.
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