医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

ムンテラ力を考える その1

2009-01-20 23:46:32 | 日記
 まずは例題1から。少し分かりやすい例から考えたいと思います。80歳の男性の方。慢性腎不全で維持透析中、心筋梗塞の既往もあり心機能もあまりよくないため徐々に透析も困難な状況です。心不全も進行し血圧コントロールも不安定となりほとんど寝たきりの状態となりました。奥さんが付き添ってはいましたが介護にややしんどそうです。いよいよ血圧も下がってきだし、意識も朦朧としてきました。奥さんは夫の状況をもはや受け入れており愛護的な最期を望んでいるようです。そうしているうちに今まで一度も見舞いに来なかった患者の弟がすごい剣幕でやってきました。「いったいどうなっているんだ!なんで兄はこんな状況になっているのか、きちんと説明しろ。もちろんちゃんと助けてくれるんだろうな」とすごんできます。さて、こんな状態の中どのように説明し、事態を収拾し、尚且つすべての人が納得のいく最期に持っていくにはどのようにすればよいでしょうか。

 すべての人間はさいごには死んでしまいます。これは当たり前のことでどの人間も避けることができない事実です。昔高校のころラジオで聞いた早川一光先生もいつも明るく「人間はみんな死ぬんやでー」と言っていたような気がします。どんな医療をしたところでさいごになると人は食事が摂れなくなり、動けなくなり、呼吸が出来なくなってしまいます。一時期の過渡期を過ぎて回復してくる見込みがあれば無理にでも栄養を入れたり、人工呼吸をしてみたりすることも考えますが、もし回復の見込みがないとすれば無理に延命の処置をする意味があるでしょうか。一部の例外を除いてはなかなかないように思います。人はさいごには必ず死ぬのですから、どのように死ぬのが最もよいかを考え、そちらに導いていかなければなりません。私なんかは病院で死ぬことすら抵抗があるのですが、現代の皆さんはどうしても死にそうになると病院へ連れてこられます。いったい何が人をそうさせるのでしょう?人はさいごには死ぬということを、みんな本当はわかっているはずです。それなのになぜさいごを認められない人がいるのでしょう?すべての問いに同じ原因があると思います。それは少なくとも100年前の日本にはなかった理由だと思われます。これは社会が・我々が望んで作り上げた理由です。
 私が実際に使っている、次回書こうと思っている答えが最もよいとは到底思ってもいません。皆さんにはきっともっとよい、画期的なムンテラがあるのかもしれません。出来れば少しでもこの例題についてみなさんの考えをコメントいただけると幸いです。

1 コメント

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「死んでも命があるように」 (ふみ)
2009-01-24 15:37:25
順番は忘れましたが、
「わたしゃ18、女房16、使って減らない銭10両、死んでも命があるように」という小唄がありました。
また、ろくむさい、というのがあって、
「金もなければ地位もなし、・・(間を知らないのですが)・・もなければ、死にたくもなし」というのもありました。
6つも「無い」を重ねるおっさんで、六、無、斎です。

これだけ笑いの中に、人の欲望を詠み込むことができたのはやはり一昔まえのことで、現在では難しいのでしょうね。

まずは弟さんの怒りをおさめる所からでしょうけれども、さて、話の平面に乗ってきていただけるかどうか、そこが難しいのだと思います。
まずは、不安と、それから、今まで関わっていなかったことによる後ろめたさから、攻撃的になってくる、という部分を解決することが大切なのかな、と思います。

しかし、お医者って仕事は、端で見ていても、つくづく大変ですねぇ。

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