医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

可哀想な犬に必要だった物語

2004-12-22 05:37:57 | 医学ネタ
昨日の飲み屋で教わった話。いつも一緒に陽気に飲んでくれる人なのだが、その人の家で飼っていた犬がだんだん弱って左半分が動かなくなってしまったそうだ。で、家の人が病院に連れて行ったところ理由がわからないからとりあえず脳のCTをとりましょう、と。しかしその人はそれを拒否して帰ってきたそうである。何故?と聞いてみると、医師もこちらも犬が助からない事は薄々わかっていた。なのに何故さらに原因検索する必要があるのだろうと。ここでもし原因がわかったとしてどうなっただろう、何か変わっただろうかと、思ったらしい。彼は酔っ払いながらさらに持ち前の毒舌を続けてくれた。医療が一体どんなつじつまのあった原因論を展開してくれるというのだろう。仮にそうであったとしてもそれが受け入れられるかどうか、は全く別次元の話なのじゃないかと。

私は最近多い犯罪事件のことを思い出していた。誰かが(今回は娘としよう)殺される。親が犯人を見つけるまでは整理がつかないと訴える。そして何故殺したのかをはっきりさせて欲しいと。そうしないと浮かばれないと。しかしである。おそらく犯人が捕まっても親の怒りは収まることはないだろう。理由がはっきりしても、である。(しかもその理由などというものは非常に常識的なレベルに還元されて初めて理由になるのだ)

現在医療の原因論は見た目科学的に行われている、とされている。しかし、少し勉強すればわかることだが、科学だって非常にいんちき臭いものが多い。つじつまが合うから、という理由だけで採用された概念が山のように出てくるのである。しかも、仮につじつまが合ったとしよう。それを人が受け入れられるかは確かに別の問題なのである。親に「勉強しなさい」と言われるとそんなことは自分だって十分承知しているのにやりたくなくなる、受け入れられなくなるのと同じである。正しい(これも怪しい言葉だが)事を言えばそれが受け入れられるわけではない。

彼はまさに「物語」の話をしていたのだ。科学が作り上げる「物語」が面白いと感じるのはほんの一握りである。残りの大勢の人たちはそんな物語に興味などないのだ。それならまだ安倍晴明が花山天皇の頭痛を治療する話の方がよっぽど効果的かもしれない。花山天皇の前世は高尚な行者であったが熊野の山の中の岩にその骸骨が挟まったままになっており、雨が降ると岩が水を吸って膨張し、その頭蓋骨を圧迫する。そのせいで頭痛が起きるのだ、と。いうわけで、天皇はその頭蓋骨を探させるのである。結局見つかって天皇の頭痛はウソのように消えたそうである。(古事談)
骸骨は天皇の力のおかげで見つかるのだが、この話見つからなくてもよかったと思う。結局人は運命的に受け入れなければならない痛み、不利がある。それをどういたわって受け止めていけるか、が特に頭痛や腰痛なんかでは大切になってこよう。その時にこういう「物語」は当時大きな助けになったに違いない。

彼は話を続けた。別に医師にあれこれ言ってもらわなくても全然いいんだ。むしろ余りに機械的に処理してくれても構わない。その方が自分たちで考えることだってできるから。下手に医師に解釈(診断)されるのが最もむかつくんだと。随分医者という仕事も低く見られたものだが、その気持ちは私もすごくよくわかるのだ。今の医療の解釈モデルは余りにお粗末である。「癌になりました、治療法はこれとこれとあります。どれになさいますか?」

解釈モデルをどこにゆだねるのか、も問題ではある。先の殺人事件では常に裁判所と警察にゆだねられるが、そこは物語を教えてくれる場所ではない。では医療はどうなのだろう。これはとても微妙なところである。宗教と医療はかつて一緒であった。我々はそこに戻る事ができるのであろうか?そのために必要なコミュニケーション、言葉、技法はとっくに廃れてしまったのである。我々は一から作り直さねばならないのかもしれない。

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