不感症の女がいたとしよう。(あなたが女性なら不感症の男でも構わない。ただ不感症の男の場合は致命的である。ことが進まないのだから。)どう対応するのがいいだろうか。自分だけ楽しかったらそれでいだろうか?そういう訳にはいかない。セックスなどというものは基本は自分の欲望に忠実でなければならないし、自己を見つめる事で相手を見るという高度な作業も必要になるのだから最初は自分だけ楽しくてもいいのかもしれない。しかし明らかに相手も楽しくなければ自分も楽しくない、という微妙な境界問題を提示される。相手が感じていなければ結局こちらも燃えないのである。ゆえに不感症でもずるくて魅力的な女は「ふり」をする。それで構わないという男は今回は対象ではない。こういう問題もある。お互い不感症だったらどうだろう。その場合は一見平和である。お互い興味もないのだから。しかしセックスで繋がるというチャンスは失われている。一つ共感性を失ったのと同義である。
スピリッツに連載されている名越先生の「ホムンクルス」でも同じ問題が扱われていた。キーワードは身体感覚の喪失である。全く身体感覚を失った女子高生が簡単にレイプに応じてしまうのだが突然身体感覚を取り戻し、セックスを拒否しだすのである。ではそれを奪っていたものは何か。記号である。すべての物事を記号でレッテル化しそれを記号で処理していく。「この男とヤレば~してもらえるから」「どうせセックスって~なんでしょ」そこには身体がない。そして私達の生活はほとんどこの作業で埋め尽くされている。「記号処理」である。私の知り合いに好きでもない男と簡単に寝てしまう女達がいるが、完全に2つの種族に分けることが出来る。記号処理の得意なやつとそうでないやつ。記号処理が得意な種族は「ぜんぜん平気だよ。みんなそんなに変わらないし」などといってはいるもののよくよく聞いてみればそろって不感症であった。彼女達にとって快楽もまた記号なのである。そうでないやつはびっくりするくらい身体の感覚が研ぎ澄まされていて本当にセックスが好きな種族である。そういう女性はそろって自分の身体のことを本当によく知っている。嗅覚も何故か優れている。
では不感症の女、記号に縛られた女を見つけたらどうすればいいのか。丹念に前儀をすればいいだろうか?テクニック、と呼ばれるものでカバーできるものなのか?おそらくそれら以前の問題が横たわっているわけで、最も大切なのは「感じる」ことにただひたすら集中してもらうしかない。身体感覚を取り戻すしかないわけだ。がそうは簡単に言うが果たしてうまくいくものなのだろうか。記号化された思考を解放し、身体に耳をすます。今までやってこなければ突然言われても非常に難しい作業である。おそらくは感じることへの集中を妨げる様々な記号もあるだろう。コンプレックスであったり、いやな思い出であったり。これらの現代の解決策は記号でやり込める作業がほとんどなのだが、私は感心しない。負のエネルギーを負の力で解決させるのは戦争を戦争で解決させたりするのと同じである。負の渦に巻き込まれている人に必要なのは外から浮き輪を投げてあげる事であり、その渦に一緒に飛び込む事ではない。ゆえに記号で覆われた問題は記号で解決させるのではなく、やはり感覚で解決させるべきなのではないかと。
感じるという行為は根本的に「考えてはならない」という思想につながる何かがある。考える、という行為は現象を記号化することに近い。考える行為は身体感覚を奪う作業になりがちである。うつ病という概念は身体感覚を失い世界を記号化しすぎたあまりそれに処理が出来なくなってひいてしまう心の風邪なのではないか、と思う事がよくある。現代社会は考える事、を強制してきた。しかしそれは取りも直さず「記号化する」ということだったのだ。そしてそれは身体と心を分離する作業でもあった。それは国家にとって都合もよかった。そしてそのおかげで我々は苦しんでいる。ほとんどの人がその構造に気づかずに。。。
以上の不感症の話、実は別にセックスの話をしているわけではない。これは「喪」の話でもある。我々は今や、死に対して不感症です。医療側、葬儀側も不感症なのでセックスレスで一見平和です。それでいいのなら別に構いません。一つの身体感覚の共感、共鳴を失ってしまう悲しみは私には絶えられないものですが、もはや時代遅れなのかもしれません。が、私は喪に対して微妙な抵抗を続けていきたい。喪に対して「考えてはいけない」。まず違和感をもって「感ずる」事。多くの問題を敏感に感じ取り気づいてゆく。あんな葬儀おかしいよ、あんな死のみとりかたおかしいよ、と。身体に聞かなければならない。そして身体がすっと入ってゆける形、それを追っていくことが喪の問題にとって大切であろうと思う。我々は諸問題に対して脅迫的なまでに考える事を強要されてきた。が考えては解決できない問題は山のようにあるのである。というよりそういう問題ばかりが残されているのである。
スピリッツに連載されている名越先生の「ホムンクルス」でも同じ問題が扱われていた。キーワードは身体感覚の喪失である。全く身体感覚を失った女子高生が簡単にレイプに応じてしまうのだが突然身体感覚を取り戻し、セックスを拒否しだすのである。ではそれを奪っていたものは何か。記号である。すべての物事を記号でレッテル化しそれを記号で処理していく。「この男とヤレば~してもらえるから」「どうせセックスって~なんでしょ」そこには身体がない。そして私達の生活はほとんどこの作業で埋め尽くされている。「記号処理」である。私の知り合いに好きでもない男と簡単に寝てしまう女達がいるが、完全に2つの種族に分けることが出来る。記号処理の得意なやつとそうでないやつ。記号処理が得意な種族は「ぜんぜん平気だよ。みんなそんなに変わらないし」などといってはいるもののよくよく聞いてみればそろって不感症であった。彼女達にとって快楽もまた記号なのである。そうでないやつはびっくりするくらい身体の感覚が研ぎ澄まされていて本当にセックスが好きな種族である。そういう女性はそろって自分の身体のことを本当によく知っている。嗅覚も何故か優れている。
では不感症の女、記号に縛られた女を見つけたらどうすればいいのか。丹念に前儀をすればいいだろうか?テクニック、と呼ばれるものでカバーできるものなのか?おそらくそれら以前の問題が横たわっているわけで、最も大切なのは「感じる」ことにただひたすら集中してもらうしかない。身体感覚を取り戻すしかないわけだ。がそうは簡単に言うが果たしてうまくいくものなのだろうか。記号化された思考を解放し、身体に耳をすます。今までやってこなければ突然言われても非常に難しい作業である。おそらくは感じることへの集中を妨げる様々な記号もあるだろう。コンプレックスであったり、いやな思い出であったり。これらの現代の解決策は記号でやり込める作業がほとんどなのだが、私は感心しない。負のエネルギーを負の力で解決させるのは戦争を戦争で解決させたりするのと同じである。負の渦に巻き込まれている人に必要なのは外から浮き輪を投げてあげる事であり、その渦に一緒に飛び込む事ではない。ゆえに記号で覆われた問題は記号で解決させるのではなく、やはり感覚で解決させるべきなのではないかと。
感じるという行為は根本的に「考えてはならない」という思想につながる何かがある。考える、という行為は現象を記号化することに近い。考える行為は身体感覚を奪う作業になりがちである。うつ病という概念は身体感覚を失い世界を記号化しすぎたあまりそれに処理が出来なくなってひいてしまう心の風邪なのではないか、と思う事がよくある。現代社会は考える事、を強制してきた。しかしそれは取りも直さず「記号化する」ということだったのだ。そしてそれは身体と心を分離する作業でもあった。それは国家にとって都合もよかった。そしてそのおかげで我々は苦しんでいる。ほとんどの人がその構造に気づかずに。。。
以上の不感症の話、実は別にセックスの話をしているわけではない。これは「喪」の話でもある。我々は今や、死に対して不感症です。医療側、葬儀側も不感症なのでセックスレスで一見平和です。それでいいのなら別に構いません。一つの身体感覚の共感、共鳴を失ってしまう悲しみは私には絶えられないものですが、もはや時代遅れなのかもしれません。が、私は喪に対して微妙な抵抗を続けていきたい。喪に対して「考えてはいけない」。まず違和感をもって「感ずる」事。多くの問題を敏感に感じ取り気づいてゆく。あんな葬儀おかしいよ、あんな死のみとりかたおかしいよ、と。身体に聞かなければならない。そして身体がすっと入ってゆける形、それを追っていくことが喪の問題にとって大切であろうと思う。我々は諸問題に対して脅迫的なまでに考える事を強要されてきた。が考えては解決できない問題は山のようにあるのである。というよりそういう問題ばかりが残されているのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます