医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

Macintoshとの思い出

2011-10-06 19:04:02 | 日記
スティーブ・ジョブスが亡くなった。昼前それを知った時思いもよらず込み上げるものがあった。私とMAC、いやMacintoshの出会いは長い。当時中学1年(もう20年も前になるが)だった私はとある人の家で初めてそれを触った。確かMacintosh IIであった。パソコンといえばNECの98、ゲームもやっとスーパーファミコンが登場したころであった。マウスで操作できることの驚きと、クラリスワークスで色々なものが作成できたこと、adobe photoshopなんかも当時から入っていて落書きの楽しかったこと、どれも強烈なインパクトを与えてくれた。その人の家ではインターネットもかなり初期の段階で導入しており、初期の頃はホームページ作りの仕事もさせてもらっていたものだ。
 大学に入ると作業の面やソフトが高いことからしばらくWindowsに乗り換える失態を犯してしまった。Windowsは98、2000、Xpまで8年ほどつかっただろうか。私にMachintoshを教えてくれた方はその間、独特の認識システムの開発を夢みられ、住んでいた家を売り払い東京へ出ていかれた。そしてある時突然転倒して入院したと連絡を頂く。本当はこの時に見舞いに行くべきであったのだが、忙しさにかまけていくことが出来なかった。彼は認識システムの表面のデザイン(マスコットのようなものだが)を私に作って欲しいと話してくれていた。しかしその数カ月後連絡が来たときはなんと声がしどろもどろになっており、その時に初めて彼がALSという難病になっていたことがわかったのである。体の運動神経がやられ動けなくなり、最後は呼吸の筋肉もやられてしまう病気である。そしてその後連絡がとれなくなり、彼の足取りを追ったもののもはやどこにいるかもわからなくなってしまったのである。
 その方はどちらかと言うと少し変わり者だった。面白い事を考えてはみんなでするのが好きな人だった。大人はきっと誰も相手してくれず、相手してくれたのは子供ばかりだったのだろう。ただ本当に物知りでいろんなことを教えてくれた。今の私がいるのは明らかにその方のお陰であった。そして彼のお陰で惹きつけられたMacintoshだったのである。物事には面白さやデザインが大事なこと。つまんないことばかり考えていた自分をそっと伸ばしてくれたこと。Macは確かに今も私の仕事を支えてくれているが、今でのその気持ちは大切に頑張れている。ジョブスの死に対し急に感傷的になってしまったのはこの方のことがかぶってきたからだと思う。改めて当時伝えられなかった感謝の気持ちを記したい。
 突然おもむろに彼の名前をgoogleで検索してみた。すると1件だけ、特許欄で引っかかった。その内容を見た時私は衝撃を受けてしまった。その特許はなんと、かつて僕がその人と面白がって発明コンクールに出した食器だったのである。そのコンクールは一次審査は通ったものの二次審査で賞を逃したものであった。私は今までこの思い出深いガラクタが特許になっていたなんて知らなかった。しかも彼の名前でヒットするのはこれのみなのである。ネット上で唯一の情報がこの私との思い出だけ、というのも悲しいと同時に少しでもつながりの歴史が残されていたことに感謝の気持ちでいっぱいになった。

みかんの謎にせまる

2011-01-29 18:41:12 | 日記
週2回の糖尿病外来で毎回のように食事療法が守れない方々と格闘中の日々ですがいかがお過ごしでしょうか。土地柄もあるのでしょうが、みかんを果物と思っていない人がたくさんいて困ります。「血糖高いですね。果物なんかは食べてませんか?」「果物は食べてないです」「みかんは?」「あぁ、みかんは少ししか食べません。みかんも果物なんですか」(当たり前だろうが!)「少しって具体的には何個ですか」「毎食後2個ぐらい」「え??6個。じゃあ多いって何個なんですか」「多いっていうたら10個以上、20個とかちゃいますのん」てな会話が1日数回繰り返されます。

 皆がこぞってたべるこの冬の代名詞みかん、正式名は「温州みかん」と呼びます。温州とは中国の地名ですが、出身はなななんと!鹿児島。突然変異で登場したらしいですね。日本で生まれたのにイメージだけで中国名をつけられてしまったくらい、当時は中国ブランドがあったのでしょう。子供にシャネルちゃんとつけるのと一緒ですな。この温州みかんちゃん、あまりにかわいい子供だったので瞬く間に日本中に広まったというわけでまさに日本の大スター。さらにアメリカのイケメン俳優「トロビタオレンジ」君との間に「清見」ちゃんまで生まれてしまいました。浜崎あゆみは温州みかんちゃんを手本に芸能界をわたってきたんですね。さらにこの清見ちゃんも美人で有名となり、さすがスターの子はスター。今度はインドからやってきた大富豪「ポンカン」さんとできてしまい生まれた子供は「デコポン」君。両親に似合わず顔は美形ではありませんでしたが、かなりできるやつでみかん業界をブイブイいわせています。

 さて、今回なんでこんなにみかん一族の話をしているかというと、一族の家系図を知らないと解決できない医療上の問題があったからなのです。私、みかんの王国に来てはや6年、未だにみかんの種類に疎いのはまずいと思いちょうど良い機会、ちょっと復習しておきましょう。さて先ほどは温州みかん一族ですが、今度はザボン一族です。私の親は高知の人なのでザボンより文旦の方が通りがよいので文旦一族で話を進めますね。鹿児島で遭難した中国船を助けたお礼に文旦をいただいて日本に居着くようになったようで、ベトナムなまりが入っていたようです。私なんかはよく食べたので身近ですがこちらではあまりメジャーではないみたい。見た目も黄色くてごっついので地味な存在。しかしこいつがやり手だったのです。日本に来てからというものいろんなみかんちゃんと乱交しまくりたくさんの子供を作っている。伊予柑ちゃん、夏みかんちゃん、はっさくちゃんなんかはだれの子か相手がわかっていないんだからかわいそうだ。現在母親探しの旅を続けているらしい。その中でビックカップルの誕生。なんと、文旦とオレンジがカリブのバルバドスでバカンスを満喫中に生まれたのがグレープフルーツちゃんなのだ。そして文旦の悪いところはここからである。なんと娘のグレープフルーツちゃんにも手をだしてしまったである。生まれたのがスウィーティちゃん。もともとはアメリカでオロブランコちゃんと呼ばれていたが、理由はわからないが何らかの事件に巻き込まれイスラエルに亡命した際に名前も心機一転スウィーティに変えたらしい。

 さて、先ほどの医療上の問題。飲み合わせ問題なのである。とある降圧剤や免疫抑制剤などとグレープフルーツをとると薬の効き目が強くなりすぎたりするため、とらない様注意喚起がされています。グレープフルーツの果肉に含まれている「フラノクマリン」なんていう北海道ぽい名前の物質が薬を代謝する酵素の働きを止めてしまうためだ。ある患者さん、免疫抑制剤がある日突然すごく高い血中濃度になっており、グレープフルーツをとっていないか、ほかの薬を飲んでいないかなどチェックしたが原因がはっきりせず。しかしふとした会話でみかんは食べていると。当県ではみかんといえば温州みかんで、このみかんにはフラノクマリンは含まれていないはず。しかしよくよく聞いていみると近所で作っているハッサクを食べていたとのこと。実はフラノクマリンはグレープフルーツだけでなく文旦一族にはほぼ全員含まれているのです。だからそういう薬を飲んでいる人はグレープフルーツだけでなく、スウィーティも伊予柑もはっさくも夏みかんも食べない方が無難というわけです。そうなるといちいち患者さんに「温州みかんはいいけど、あれはだめで・・・」なんて説明をするのも面倒くさいので今度から「柑橘類は温州みかん以外はやめてください」と説明することにしました。しかしそうなるとデコポンは大丈夫なのに、報われないデコポン君ごめんなさい。

人を動かすのは本当に情熱でよいのか

2010-12-29 21:58:24 | 日記
 人を動かし幸せにする人は品行方正で賢いやつではない、たとえ人間味にあふれすぎていても何かをよくしたいという情熱がある人だ。ただし熱過ぎてはいけない。

 正論をテレビでとうとうと述べる政治家やコメンテーターはそれだけでは結局人を社会を動かすことはできないですよね。理解するだけでは人は動かないのだから。たとえやろうとしていることが自分の思っているよい方向へ進まないものだったとしても、そして逆に悪い結果を及ぼすことになったとしても、よくなると信じて情熱を持って伝え動いてゆくほうがはるかに周りを幸せにするのだろうと。何せ自分のやろうとしていることが本当に良い方向へ向かうのか、などということはやってみなければわからないのだから。おそらくは田中角栄も野中広務も鈴木宗男もそういう政治家だったんだろうと思うのです。ただこの人たちに共通するのは熱過ぎたのだと思うのです。

 熱い風呂が本当に好きな人は限られていますから。入りたての身体が冷えている間は熱い風呂も気持ちいものですけど、だんだんのぼせてきてしんどくなるでしょう。だんだん煙たく感じる人も出てきて、敵も作ってしまうのだと思うのです。私も昔は熱い人に憧れていましたが、それにずっとついてこれる人は本当に限られているものです。このブログでは(特に初期のころには)人を動かすのは情熱だと、ずっと書いてきました。しかしどうもそれだけではいけないようです。もう少し熱過ぎず寒くない、丁度ころあいの良い暖かさを伴った感情。その暖かさで人が集まってくるような。イソップ童話で「北風と太陽」というのがありますよね、旅人のマントをはがすのに北風は強い風で失敗し、太陽は強く照らすことで熱くして脱がすことに成功した。どちらも無理やり脱がしてるんですよ、結局。この話には前座があって、旅人の帽子を脱がす勝負をその前にしているんです。太陽は強く照らして熱さで脱がそうとしたところ日照りが強すぎてかぶったままだった。北風は突風で一気に帽子を吹き飛ばした。勝負は1勝1敗だったんですね。結局強い力はうまくいかないこともあるということです。本当に勝つには春の陽気な天気で旅人に「この天気で帽子やマントいるか?」と思わせるようなのが一番よいのでしょうね。

 そもそも「情熱」という言葉自体が北村透谷によるpassionの訳だそうです。明治に入るまでこの言葉は日本になかったのですね。passion自体とても強い感情が込められています。そもそもがキリストの受難を意味する言葉ですから、相当強い感情ですね。恋愛感情をこのpassionに込める西洋の感覚、相当に苦しく激しい感情がうかがえます。ということで今日よりひとを動かすのは「情熱」ではなく別の言葉を選ばねばならなくなってしまいました。言葉探しの旅に出てゆくわけですが、それまでは「ただし熱過ぎてはいけない」と注釈つきで保留とさせていただきます。

何と戦おうか、いややめておくか

2010-11-18 02:30:42 | 日記
 双方の利益が衝突することほど厄介なことはない。世の中のほとんどの問題はこの衝突に帰着することがほとんどだ。一見どうみても改悪にしか見えない出来事も極一部の人の利益が絡んでいる。世の中なんとか良くしたいと戦っている人たちもおそらくはこの見えない敵と戦っていることになる。または一見いいことのように見せかけて実際は違うところで個人が大きな利益を得ていることもあったりして、まわりまわって悪い影響を及ぼしていたり。
 
 明治維新はその典型であった可能性がある。確かに坂本竜馬は欧米に搾取されないよう日本の近代化を進め、植民地から守る立役者だったのかもしれない。だが一方で見方によってはただ単に近代化・西欧化でひと儲けしたいだけだった可能性も残されている。かれの亀山社中は商売としてはあまり成功していないが、その意思を受け継いだ岩崎弥太郎は西欧化と軍国化で多大に儲けたわけである。日本人として富国強兵は必要であったかもしれないが、その間失われた文化・精神は多数あったと思われる。その立役者は明治維新の一部の上層部である。

 このようなケースの場合はあらがうべき目的や相手がはっきりしない。西欧近代化は生活を良くすると刷り込まれているし、着物を着る文化が失われた原因の一つに個人の利益が関与しているなど誰も考えはしない。おそらく現代も同じような構図があるわけで、だからと言ってそれを解決するのは困難にも思われる。というのは歴史をさかのぼって考えてみるに、あの明治維新の時代に仮に着物文化を完全に保持するためにはいかなる発想や運動が必要だったかを考えてみるとその困難さが見えてくる。洋服のほうが動きやすく便利だからと言って国民に勧めることの何が悪かったのか、ということになる。ダムの建設問題だってそうだ。おそらく表向きの利益と裏腹に一部の人の巨額の利益のために住民たちが振り回された。住民の一部はその利益のおこぼれに乗っかっただろうし、抵抗した人たちもいただろう。費やした時間は返ってこず、遂行されなければ全員が損害を被るような状態になっている。つまり時間がかかればかかるほど結果的に遂行されることにより全員に相対的な利益がでてしまう。

 医療問題の20年先を考えたときに、何かがおかしくなっているのは明白である。しかしわずか50年前までたかだかインフルエンザで日本でも何千人と亡くなっていることを考えると医療は格段によくはなっているはずなのである。できるだけ多くの人が幸せに全うできる人生を送るためにどうするか。決して医者や看護師や介護師を増やすことでも医療費を増やすことでもない。ましてや少子化対策をすることでもない。これら政策は一部の利益が十二分に絡んでいる。それならばまだ愛について考えたり、絆について考えたりするほうがよっぽどましである。死に接することが少ない現代ならば、それについての豊かな資料、つまりは豊かな作家たちの作品を見聞きし、それについて酒を飲みながら雑談するほうがよいのではないか。とはいってもそんなことを考える暇もないのも現代社会ではあるのだが。せめて入院している時くらいはそんな時間も作っていただきたいし、話題を提供したいものなのだが、いかんせん病室とベッドではそんな雰囲気・気分にはなりませんなぁ。だからと言って見えない敵と戦うのはやっぱり難しいものだ。

まっくら街のうた

2010-10-21 00:40:35 | 日記
 夜が気持ちいい季節、特に深夜、車も減ったころが素晴らしい。全く静かな、澄み切った空気の中散歩していると日常とは違う感覚が周囲を包んでくれる。その瞬間は昼間とは明らかに違う自分が歩いている。この感覚は学生のころから変わらずあって、京都の街の深夜は特に楽しんだ。深夜の平安神宮の前の閑散とした感じ、丸山公園のさびしくも怪しい感じ、大文字山から望む暗い京都の街並み、そして深夜の大学の校舎。どれもとても孤独だったけどその間に心の奥底に少しずつエネルギーをため込んでいった感覚が残っている。こっちに来てもそういう感覚はやっぱり思い出すし、また少し違う感覚も芽生えてくる。それを楽しみながら散歩したりするのだが、最近ちょっと事情が違う出来事が。

 家々につく「あのライト」である。誰が入れ知恵したのか知らんが、人が通るとパッとつくあの防犯ライト。もうすべてぶち壊しである。しらない家の前を通る時にパッと点かれて驚かしいことはもちろんだが、防犯ライトがあるのがわかっている家の前ですら通るのがストレスになる。そもそも防犯のためなのだろうからストレスをかけるのが仕事なのだろうが、善良な市民にまでストレスをかけることはなかろうに。はっきり言って最初から煌々と照らし続けてくれているほうがまだましである。あれを設置した時に住人は何とも思わなかったのだろうか。何となく自分のところだけ良ければよいという利己的な発想がして好きになれない。あんなものがすべての家についているのを一度想像してほしいものだ。防犯するならもうちょっと奥ゆかしい方法を考えてほしい。たとえば敷地内に入ったら重力感知で家の扉がすべて自動で開くとか。逆にビビって入らない気がする。やっぱり夜は夜らしくいてほしいものなのだ。

 夜はとにかく暗くて情報が遮断されているもの、妄想・想像の時間なのだ、いい意味でも悪い意味でも。夜の真っ暗な商店街を歩いてみる、そこでちょっと目をつむってみる。ほら、何かいいものが見えてくる、何かのヒントが見えてくる。シャッター通りの夜は悲しみ愁うための場所ではない、そこにかつてあったであろう活気と、これから来うる活気を思い浮かべる場所なのだ。だからその通りにはあまりライトを立ててはいけない。できるだけ真っ暗で、でもそこにぽつんとしがない屋台なんかが一つだけ出ていると想像を掻き立てるのでよい。穴のあいたシャッターを覗いてみると壊れた机とその上に割れたコーヒーカップがぽつんとあるとなおよい。そんな建物が並んでいればまるで美術館・テーマパークである。夜の真っ暗な博物館。そういえばみんなのうたで「まっくら森のうた」がありましたね。まさに現代社会の森を表現できる場所だとも思うのですが。

魅力的な講義と執行猶予

2010-07-15 02:02:40 | 日記
サンデルの講義について今回その内容については議論するつもりはない。あくまでその構造のみに注目したい。
彼の講義が非常に魅力的で引き込まれてしまう背景には「わからないという不安感」がベースにあると考えられる。つまりは今の社会で直面している答えのない問題、に対する。彼はその問題を最近のニュースなどからピックアップし明らかにする。そしてそういう問題に対し思想の参考となる哲学を引っ張り出す。アリストテレスやカントなど、その当時このような哲学が発達した背景に触れ、同様の問題・構造が現代にあることを指摘する。彼はこれらの問題に対して答えを持っているのかもしれないが、講義でははっきりと披露はしない。あくまで哲学の使い方を教え、直面する問題にどうアプローチするのかを提示するのみである。

我々は漠然とした不安に対する恐怖に常にさらされている。それは健康に関しても同様。征服者は最後に不老不死を求める。しかし健康に関する講義は全く面白くない。血圧が高い人はこれだけ心筋梗塞を起こす、この薬で血圧を下げれば心筋梗塞のリスクはこれだけ減る。しかし一方で最近は厳格に血圧を下げてもあまり変わりないというデータもあったりする。我々医師もきっちりと治療することにどれだけ意味があるのかわからず混沌としている。データで有意差があるといっても200人ほどその薬を飲んでたった数人だけ助かるレベルもある。そんな中患者の不安に対してある程度理論を持って治療はしなければならない。患者も医師も不安だらけ。

サンデルの講義が教えてくれた魅力はその不安に対しアプローチする、考える方法を教えてくれるということである。おそらく問題は簡単に解決はしない。しかしそれに対し何らかの考える時間があり、何らかの対処法を考える時間ができる。その間人間は少しでもその不安を払拭する時間ができるのかもしれない。
最近とある商店街を歩いていると、いつもある店に沢山の老人が集って大盛況。何の店かと思ってのぞいてみるとなんと健康食品の店。不況のいまどき健康食品屋さんがこんなに集客できるわけがなく、からくりがあるに違いないのだが店の中ではホワイトボードを使って誰かが講義をしている。ちゃんと聴いてみたわけではないが随分軽快に威勢よく講義している。が、中身はろくでもなくもちろん健康食品を買ってもらうためのもの。しかし老人方はみなワイワイ聴いている。一種のサロンになっている。これは驚きの光景であった。悪く言えば不安を食い物にする商売だがその中にもしかしたら不安を先延ばしにさせてくれる何かがあるのかもしれない。ただ単にこれを飲めば健康によい、というだけでない。結局この薬で血圧を下げれば脳梗塞になりにくいですよ、というだけでは飲む瞬間しか不安をぬぐえない。不安感が強い人は皆1日に何回も血圧を測り下がっていることを確認するばかりだ。それならばその間社会貢献できるような活動をして気を紛らわせているほうがよっぽどいいと思うが、誰もそんなことを提示してくれる人はいない。

現代医学は確かに治らなかった病気がいくつも治せるようになった。特に感染症領域は抗生剤の登場という医学界の革命で劇的に治るようになった。(この劇的な感動は最近GINという漫画・ドラマでうまく表現されている)しかしその歴史はまだわずか50年の話で、人間の歴史を考えればホンの一瞬の時である。抗菌薬の成功は医療への期待を過剰にしたことは間違いない。しかし病気についてわかっている、治せる領域はまだ限られている。我々はまさにこのギャップと戦っているし、患者もうすうすはわかっている。その不安感を患者と明らかにし、どう考え対処できるのか、日常生活で何ができるのかアプローチする方法を考える必要がある。魅力的な講義とはこの要素を含んでおり、ある種の思考的な執行猶予を作ることにあるのかもしれない。

燃えるような講義講演

2010-05-26 23:22:53 | 日記
最近腎臓内科ばかりか糖尿病・内分泌内科外来、感染症コンサルトもやるはめになってしまい大忙しです。もうどんな医者になりたいのかよくわからない状態。講義や講演も増えてきました。曲者なのはこっちで医療関係の講義講演って、基本的に面白くない。色んな講演会・発表会に参加してきたが目からうろこが落ちたり、興奮したりするような講演・発表て本当に数えるほどしかない。データがどうだとかエビデンスがどうだとかそんな話ばかりで、そこに新しい何かなど一つもない。では数少ない興奮する講義・講演には何があったか。

最近印象派展が目白押しである。ルノワール展なんかもなかなか良かった。光のあたる風景や人物画が作品として好まれ沢山の名作がならぶ。印象派の絵を見ているととにかく光の表現方法に今までなかった新しい手法が用いられている。その場の空気、雰囲気までをどうやって表現するか、写実を超えた何かを。そこには「見えたままに描く」という意味が問われている。写実だけでは表現しきれないものがある。それは写真では伝わらない雰囲気、と似ているのかもしれない。そこに生まれた斬新な手法、鉛を使った輝かしい白と勢いのあるタッチ、実際には見えていない色を添えて強調される色。しかし考えてみればその対象となる風景・人物は昔からその場にそのままの姿であったわけで、結局とらえる側の変化が新しい作品を生んでいる。

逆に表現にポリシーがないためにダメになってしまった例にルパン三世がある。私にとってルパンは初代ルパンが最もかっこいいルパンであった。おそらく私の好きなルパンをダメにしたのは宮崎駿なのだが、カリオストロの城で(これはこれで名作ではあるのだが)彼の考えるかっこいいルパンを表現したわけだがそこにいたルパンは本当に一般的なカッコよさを追及したルパンであった。初代ルパンとの決定的な違い、それはカッコつけないことである。そして真剣な顔はしない。しれっと適当な感じで、少々ドジっても結局はさらっと困難を解決するのが私の好きなルパンである。ルパンは基本的に顔に集注を持ってきてはいけない、眉間にしわを寄せて口をぎゅっとつぐんではいけない。こういう顔がいけている、と考えたのは一体誰なのだろう。真剣さのカッコよさの集大成はおそらくキムタクなのだろうが、ルパンにそれを求めてほしくはなかった。

結局表現方法のポリシーなのだろうと思う。たとえばパワーポイントを使わない発表、今アメリカではパワポに頼った発表はよくないし、印象にも残らないと極力減らす風潮にあるようだ。いつから学会発表はパワポを駆使する、むしろ使わないほうが変わっているような感じになってしまったのだろう。NHKで今やっているサンデル教授のハーバード大学の講義はパワポなど使わなくても引き込まれる優れた講義である。では教授は口だけで、どのような内容、話の進め方で観客を引き込んでゆくのだろうか。もちろん圧倒的に充実した内容はもちろんだが、それだけでよいのだろうか。

そういえば、このブログの初期に同じような問題提起をしたことを思い出した。当時感染症の講義に燃えていた私はそれを「ライブ」と表現していた。魅せるためのライブのために必要なことは第一に熱意。細かい内容は2の次で少々間違っていても抜けていてもよいのだと。熱意が伝われば後は自分たちで感染症を勉強してくれる、それで十分だ。実際私も大野先生のライブの熱意がまさに感染してここまで興味をもてた部分が大きい。しかし今回はそこからさらに一歩踏み込んで考えてみたい。今私たちができる魅力的な講演講義、つまりライブ。そのポリシー・視点の変化、細かい中身はまた次回に考えることにしてみよう。

ほめて伸ばすべきなんて

2010-01-22 01:27:38 | 日記
巷では賢い子育てブーム、とあるテレビでもとあるおばあちゃんが大人気。子育て・人を育てるというのは何よりも大切で、とてもエネルギーの要ることで、とてつもない財産になるものです。数ある子育て・人を育てる方法をみていると、このところその基本になる考え方は「ほめて育てる」ということにあるようです。が、それは本当にそうなのでしょうか。そこに何らかの意図や食い違いがあるような気がしてならないのです。大きな問題は二つあると思われます。まず賢いとは何をさしているのか。そして育てた結果どうしたいのか。

ほめて育てることをもてはやす背景には、なかなか育てるときにほめてあげられないことが関係しています。多くのケースで、自分の感情が優先されてけなしてしまったり、間違ったことをとりあげて反省を促したりするわけです。結局のところ「上手に育てられなかった」という結果が残り、その理由を我々のやりがちな癖に押し付けているのです。しかしそもそも「上手に育てられなかった」とはどういうことなのでしょう、簡単に言えば自分の思い通りにならなかっただけではないのでしょうか。しかし子供にしろ部下にしろ思い通りにすることなど困難極めることで、おそらく完璧に「ほめて育てても」思い通りにはならないはずです。人は何でもかんでもほめ続けることができないのでこういういいわけが通るわけです。

しかしまぁ仮にある程度ほめて育てられたとしましょう。彼らの理論によると、ほめられることで嬉しい。嬉しいから頑張れる。頑張れるから伸びる。伸びるからまたほめられる。これを繰り返すことでぐっと伸びるという寸法です。おそらくそうなるでしょう。ほめられればきっと伸びますよ、その人。ほめるというのは評価するということです。えらい、とか上手とか。ということは評価があるからできるわけで、じゃぁ評価されなかったらどうでしょう。ほめられないから嬉しくない、嬉しくないから頑張れない、頑張れないから伸びないと。坂道を転がっていきます。ですから、そういう教育をされたひとは評価のあるところに飛びつきます。東大は受かれば人生のかなりの範囲で評価を受けます、だから受験に頑張れます。大学予備校ではテストの点が上がれば評価されます、だから頑張れます。ずっと評価のあるところで生活できればその人は幸せでしょう。でも世の中そんなにどこでも評価されるってことはありません。

とあるところで評価されたことが別のところでは全然評価されなかったり、時代とともに評価を失ったりそんなことは日常茶飯事です。おそらくその人は評価される狭い世界でだけ生きることになります。評価されないところへ羽ばたいたり、評価されないものを評価されるよう努力したりすることはきっとなくなります。そこに創造性は一切ありませんし、外からの評価のために生きているようなものです。評価は操作する人が必ずいます。ですから評価の奴隷です。じゃぁどう育てたらよいのか。結局けなして反省させるのがよいのか。それだって評価をしているわけですから一緒です。これがダメだからこうするのが良いのだと。

人間ってもっと生きる力があるように思います。評価をぶち破る創造性。そのパワーはそうしたい、そうなりたいという気持ちだけです。子供が何か新しいことができるようになったとき、つかまり立ちができるようになったとき、「えらい」とか「すごい」とか言ってはいけないのです。子供達はほめられたくてやっているのではないのですから。少なくとも初期の段階では。みんながほめるから学習してほめられるように動き出すだけであって、最初は立ちたいから立ったにきまってるのです。誰に言われるわけでもないのです。だからそういう時にはたぶん「お、立ったのか。楽しいね」とか「気持ち良いね」とか言う方がいいのです。そのほうがまだ相手の意思・気持ちを尊重している気がします。もうちょっといい声かけがあればいいのですが今のところまだ思いつきません。

けど、そう声かけしたほうが相手も「そうか、これは自分の意思でやっているんだな」と気付いてくれるはずです。それが積み重なれば評価されないことでも積み上げてやる力が身につくのではないかと、思うのです。どうも現代はすぐに評価されることを望みます。この原点にはこの「ほめて伸ばす」方法に問題があるきがしてなりません。部下を育てるときもできるだけ評価をはさまず「できたか、面白いだろ」というようにしたいですね。

ひきこもりは効率主義の適応者なのか

2009-12-24 01:24:38 | 日記
突然上記タイトルについて頭にふと浮かんだのでそれについて考えてみることにした。

効率主義は小さい頃から徹底してたたきこまれます。現在初等学校で教えられることはほぼすべてこの効率主義に基づいている。そしてその習得方法にまで効率主義が徹底されており、それを専門に扱うのが塾といわれる場所なのである。子どもたちはいかに短い時間で大量に暗記・処理できるかを競う。その勝者が受験の勝者であり、現代社会で「頭がいい」と言われる価値基準をみたした者なのである。彼らは社会人になっても手際よく情報を処理し、仕事の効率化を徹底することで「できるやつ」と言われるようになるのである。ものを覚えるのに時間がかかり、何かを処理するのに時間がかかる人は「頭が悪い」と判断される。現代社会の「頭がいい」基準なんて所詮そんなものである。たとえば、確かに医学や法学の勉強をするには大量の情報を処理する必要がある。効率が悪ければ6年たっても網羅できないだろう。そういう意味で別に効率主義が悪いとは言わないが、ほとんどそれだけで評価されている現在の賢さの基準なんてずいぶん薄っぺらいものである。

効率化はいかにして獲得できるものなのだろうか。一言でいえば適切な「反射」が身についているということである。何らかのインプット、刺激があったときにすぐに期待されるアウトプットができる。そのためにはその間にある回路はとても単純でなければならない。複雑であれば瞬時に反応することができない。記憶も単純化されなければ大量に覚えることはできないし、すぐに必要な記憶が呼び起こされることもない。そしてこの単純化は科学の理論に基づいてなされている。

科学は数々の要素をできるだけ取り除き純粋な状態で起こる出来事を予想する。数学も化学も物理もそうやって発達を遂げた。(確かに今は複雑系なる概念も浸透し頭打ちになりつつあるが)細かな要素を排除すればするほど単純な力学になり、結果の予想がつきやすい。こうやって発展した科学は産業革命以後人間の文明の進歩を加速的にすすめたのは事実である。効率的なエネルギーの抽出、効率的な物質の生成。そのためには他の要素は極力減らしたい、下界の刺激はできるだけ避けたい。純粋な場所が必要になる、それが実験室であったり工場であったりするわけです。

話を学童期の子供たちにもどそう。とにかくそういう効率化を求められて子どもたちは育つ。大量の情報処理を強いられる中、やはり多くの要素はそれを邪魔するのである。横にテレビがあれば勉強が進まないのは当たり前、友人達との人間関係もその人の心をわずらわせたりもする。そんな状態では効率化は達成できるわけもない。そいういう中でも適当にできる子供もいるのですが、人間には能力差が歴然としてあります。どんなに訓練しても100メートルを11秒台で走れる人はそうそういない。それでもよい大学に受かって良い企業にいく、そこでの超効率的な処理を求められる。彼らに残された究極の戦略が引きこもりだろうと思うのです。とにかくすべての刺激をシャットアウトする。現時点で自分の処理できることをとにかく効率的に処理することに躍起になる。目の前のテレビゲームやネットの世界での処理にいそしむわけです。よく考えればテレビゲームなんてのは究極の効率主義です。シューティングもアクション系もとにかく与えられた反射を鍛えるゲームです。ロールプレイングでもかなりの効率性を期待されています。

家の中という純粋な空間・環境では自分の予想通りにほぼことが運ぶ。この中では効率的にふるまえる。せいぜい母親との関係をなんとかすればよい。彼らは効率主義の世界にそうやって適応している。しかしそれでは予想外の刺激、変化は当然受け入れられない。思考回路の硬直とともに、身体の硬直も生むのだろうと。こうして引きこもりは出来上がってしまうのではないかと。効率主義の徹底した形が引きこもりに反映されているのではないかと、思ってしまうのである。

効率主義は常に競争をベースに持ち込まれます。他よりいかに早く処理をしてこちらに勝利と利益を呼び込むか。そして適切なすばやい反射は戦争にも応用されるわけです。現在効率主義が資本主義を引っ張っています。処理の遅い人、反射の遅い人は社会にとって使い物にならないと評価されます。ひきこもりは資本主義の究極の適応者であり犠牲者です。そして資本主義を容認している我々は加害者に他なりません。仕事ができることを誇るのはもうやめたいものです。そういう意味で健康を誇るのも長寿を誇るのも全部やめたいものです。

月をめでる感受性

2009-12-03 00:37:17 | 日記
今日の月は奇麗でした。その月を見ていると本当に吸い込まれていきそうになるくらい。その月を通して一体何を見ていたのでしょうかね。豊かな時間。しばらく見ていると透きとおった空気の存在を感じてきます。どうやら月影が空間を照らしていたのですね。自分と月との間にある何かを。

もしかしたらこの瞬間、自分の身体には何らかの変化が起こっていた可能性があります。鈍感なので気づいていないだけかもしれません。でも何らかに感動したり、安心したり、勇気づけられたりした瞬間、その人の身体には変化が起こっていると考えてよいと思います。身体に変化を起こす、これを医学用語では治療すると呼びます。何らかの薬を使ったり、手術をしたりすることで身体に変化を引き起こし以前とは違う状態にもっていくわけですから。その変化が前より心地よい状態、良い状態であればそれは治療と呼べるわけです。

究極の治療はその人の価値観まで変えてしまうような変化だと思います。たとえば末期癌の人で、自分の不幸をうれいて嘆いている毎日。抗がん剤・放射線治療で少し進行を遅らせて長生きできるようにするのも治療のひとつでしょうが、その間にその人に何らかの身体の変化が感じられて、人生を受け入れられたり、喜びを見つけられたりできたときに治療の甲斐があったなぁと思えます。そうであれば月をめでることは素晴らしい治療足りえると思えるのです。

医療業界はエビデンスでいっぱいです。血圧を下げれば脳卒中の死亡率が下げられるだのなんだのをたくさんの人体実験(言い方は悪いですが)で証明するわけです。血圧を下げない人たちと下げる人たちに分けて。でもその差は結構微々たるもので、もしかしたら月をめでている方が良い効果があるかもしれない。それは誰も証明していないだけで、また証明するのも今の実験方法ではかなり困難なだけで。というのは実験では多くの寿命に関わりそうな考えうる要素をできるだけ排除しないと証明にならないからです。そもそも月をみて「ああ、いいなぁ」と思える人にも個人差がかなりあります。ヨーロッパ人にはそのような習慣があまりないと聞いていますし、どちらかというと不吉で恐ろしい対象に感じる人たちもいるようです。

結局人間の身体感覚はかなり個人差があります。降圧剤ひとつとっても現れる副作用も多様で、その効果も多様です。もしかしたら、降圧剤を飲み始めてちょっと動悸がするから重い荷物を持たなくなったことが脳卒中を減らしたかもしれない。その薬を飲み始めて行動様式がほんの少し変わったことが影響を及ぼしているかもしれないのです。だから医学のエビデンスは相当微妙なところだと思います。なので私はあまり信用はしていません。月をめでて感じることが人それぞれ全く違うであろう位に治療の効果も違うのだろうと思うのです。その平均をとったらたまたま少し有意に出ただけだろうと。

また今日、あの満月を眺めた時間が長い人ほど身体によい変化があったからと言って、長い時間月を眺めていればいいというわけでもありません。その人はおそらく何か感じるものがあったから長い時間眺めていただけであって、眺めるほど健康になれるわけでもないのです。あの満月をいいなぁと思える感受性をどこかで身につけなければならない。そう、そういう意味での「感受性」がどうも治療に大きな影響を及ぼしている気がします。(決して僕らが普段医学で使う「抗菌薬の感受性」のような意味ではなく)