ラプソディ・イン・ブルーの
初演は1924年の2月12日。
クラリネットのソロの
ゆっくりしたトリルから
2オクタ―ブ以上にわたって
クレッシェンドしながら
上行していく異様な響き。
会場を埋めた聴衆は
この出だしを聴いた途端に
とりことなっていました。
作曲者ガ―シュイン自身の
独奏する華やかなピアノと
オ―ケストラのかけ合いに
会場は興奮のるつぼと
化したようです。
ニュ―ヨ―クでの初演は
満員の盛況で、招待席には
ストラヴィンスキー、
ラフマニノフ、ストコフスキー、ハイフェッツ、エルマン
クライスラ―など
超一流の音楽家達が
ずらりと並んでいました。
初演は大成功。
「アメリカ人の、
アメリカ人による
アメリカ人のための
オリジナルな作品が登場
した」とどこかで
聞いたことのあるような
言葉を並べた
批評までもが登場し、
ジョ―ジ・ガ―シュインの
名は一夜にして
アメリカ全土に響き渡り
ました。
✨✨✨✨✨✨
ジャズとクラシックを
結合させた独自の作風で
アメリカはもちろん
ヨ―ロッパまで知られる
ようになりますが、
自分の名声が高まるにつれ
音楽の基礎の不足を痛感
するようになります。
売れっ子の流行歌の作曲家
でしたが、常に高名な作曲家について基礎から勉強を
やり直したいと
考えていたようです。
✨✨✨✨✨✨
最初はラヴェルに弟子に
してほしいと頼みますが
「あなたは一流のガ―シュインなのに、なにもニ流の
ラヴェルになることはないでしょう」と断ったそうです。
次にストラヴィンスキ―の
門を叩きましたら
「あなたは現在どのくらいの
収入がありますか」
年収は10万ドル以上ですと
答えたガ―シュインに
「それならわたしのほうこそ
あなたのところに弟子入り
したいです」と言われた
そうです。
二人ともガ―シュインの
ユニークな才能を高く
評価していたのです。
✨✨✨✨✨✨
アメリカ音楽界の寵児
でしたが、マスコミに
追いまわされたりで
過労もあり、38歳の若さで
この世を去りました。
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「サマータイム」
ルイ・ア―ムストロング。
エラ・フィッツジェラルド