父の日記 昭和17年

昭和17年の日記 
ようやく召集解除 神武屯を発ち東京へ向う

昭和17年4月8日

2005-04-08 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
8日 (水) 晴れ 暑し

未明出発。昨日正午以来一回も本体と連絡をとら
ないので嘸心配してゐる事と思ふが無線を開設して
ゐれば4Aにおくれてしまふし丁度うまく時間の切りに休
憩はして呉れないし、仕方がない。今日は4A本部におく
れてもかまはぬつもりで朝八時に無線を開設し連絡を
とる。20分で連絡がとれる。連絡事項は只第一線
の情況だけだが未だ第一線は敵を急追中。止まる
所を知らずと言ふ工合。次の連絡時を12:00と
約束する。今朝から糧食がないのですこしづゝ他
の部隊から貰ふ。戦車から貰ったり、山砲から圧搾
口糧を貰ったり。これでどうやら今日の食事には困
らぬやうになる。無線を撤収して追及する。
Mamala Riverで左翼隊長に追い附く。状況
は相変らず追撃中。昨日からⅡ/isaの連絡
掛今井少尉がやはり無線をつれて左翼隊に
連絡に来てゐる。食料を給与してくれないで困ってゐ
ると言っていた。
左翼隊長谷口少将は軍砲兵は此の道を来て
も道路が悪くてだめだから野重一のやうな機
械化部隊は海岸道を追撃した方が早いだ
らうと言ふ意見。此のことを12:00の連絡で伝
へやうとしたが連絡とれず。先
方で時間を間違へたか、或ひは移動中か。
13:00も駄目。
今夜は此のMamala河畔に泊る。夕方
20:00頃無線を開設してみるとかすかに連
絡がとれたが連絡事項伝達せぬ中に、4A
の指揮班長が、此処で無線をやると敵の弾
丸が来るからもっと離れてやって呉れと言はれ、位
置を変えたらもう連絡とれず。
毎日着のみ着のまゝで汗と土塵にまみれて顔も
シャツも真黒。そのまま天幕一枚敷いてゴロリと横
になる。