父の日記 昭和17年

昭和17年の日記 
ようやく召集解除 神武屯を発ち東京へ向う

昭和17年4月6日

2005-04-06 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
6日 (月) 晴れ 暑し

昨夜は寝た所を直に命令があり3時頃までかゝっ
てしまふ。昨夜も睡眠不足。
今日は愈々R本は移動と言って其の準備をしてゐる。
夕方、Δから電話があって連絡掛将校は今度は
野砲四へ連絡に行けと言ふ。今夜相川中尉が
Ⅱ大隊のΔへ行くからそれと一緒に指揮車で行けと。
砲兵司令部の幹部に申告して夕方相川中尉と共に
出発する。相川中尉はこんなにおそくなって陣地
偵察なんかさせやがってとフンガイする事。指揮車で
暗夜を福山橋迄辿る。Ⅰ大隊戦砲隊が陣地
変換中に会ふ。福山橋から先は車輌が混雑
して通れないので徒歩で行く事にする。暗い道を辿り
つゝやっと20号道路(Balanga-Baac道)へ
出る。此れから先はすぐ目の前がサマット山で近
いのだが真暗で道も分らぬでまだ敗残兵が
出没する状態なので4Aをみつけるのをやめて道路
上へ一眠りやってしまふ。Ⅱの通信掛稲葉少尉が
通信系の中間点を此の道路上に設けて休んでゐたの
でそこへ一緒に泊りこむ。
今夜Ⅰ大隊の本部、中隊の指揮キカン等に遭
ひ、木村大尉に会ふ。此の間の総攻撃に三中隊
の放列で下士官以下四名傷したのは敵弾ではなく
て過早破裂に依る負傷ださうだ。射界の清掃
を十分にやらなかったゝめだ。そんな事で貴重な生
命を二つも失っては誠に申訳ない話だ。

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