父の日記 昭和17年

昭和17年の日記 
ようやく召集解除 神武屯を発ち東京へ向う

昭和17年4月7日

2005-04-07 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
7日 (火) 晴れ 暑し
朝六時頃青木大尉に起される。本部機関がこんな
に早く来るとは思はなかったので少し慌てた。早速林
軍曹と二人でテクテク歩いて4AのR本部をみつける。
野砲の放列は此の附近にあるのだがR本部は
何処か分らない。散々探した挙句やっとみつける。
20号道路のオヨングの近くの所にゐた。早速行
って申告する。4Aは前進したくも進路が破壊さ
れてゐて前進出来ないから道路がなほるまで此処
で待機してゐるのだと。歩兵はどんどん前進してゐるの
にのんきな4Aだ。稲葉少尉の所の▽所へ来て
此の状況をⅡ大隊ΔにゐるR長に申し上げる。R長
は第一線の状況や4AのRΔの位置等を知らせと
言はれたが4Aでも第一線と連絡とれず状況不明
4AのR長は4Dはどんどん前進中で我々との連絡
はつかない第一線は我々の来るのを待ってゐるだらうが
道路が出来なければ前進出来ないから仕方がないな
どと呑気な事を言ってゐる。うちのR長にせきたてられて
それではこれからΔ偵察に行かうとて朝十時出発
サマット山頂上を越えて第一線近くに陣地偵察
に行く事になる。僕は連絡のため無線一ヶ分隊を
連れて行く。割石伍長以下5名。4Aの給与を受
けるつもりで糧秣は少しも持参しなかった所4Aでも
あまり携行した糧秣が多くなく支給して呉れない。
我々は朝は欠食。昼にはサマット山中で4Aから貰
った飯を食ふ。前戦から後送される土民兵の捕
虜のオビタゝシイ数。皆腹が減ってフラフラして歩いて
ゐる。我々の残飯を餓鬼のやうにむさぼり食ふ。
昨日の戦果で4Dだけで捕虜700名とか。
サマット山を過ぎて中腹をマリベレスに向ひ第
一線に追及。暑さは暑し水はなしなかなか苦しい
行軍だ。夕方4Dの左翼隊長谷口少尉に連絡
する。地点はどこか分らぬ。此処で休憩中敵
戦車襲撃など言ふものがあって此の附近皆慌て
たが何もない。此の騒ぎで無線手の林が一人
何処かへ行ってしまって見えなくなる。いくら探しても
みつからぬ。あきらめてそのまゝ前進すると真暗にな
ってから道路で林に会ふ。我々が休んだときに林は
知らずにどんどん先に行ってしまったさうだ。
今夜は山の中で左翼隊本部と、4A本部等と一緒
に寝る。朝から一回も本部と連絡しないので夜無線
の連絡をとらうとしたら4A長が弾が来るから無線をやって
はいけないと言ふ。やめてしまふ。而し無線をやらなくて
も今夜は敵の砲撃を此の附近に受けて割石伍
長は右掌を破片で怪我をする。大した傷ではないが。


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「バタン半島死の行進」に遭遇したものと思われます