Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

潜水服は蝶の夢を見る

2008-04-06 | 外国映画(さ行)
★★★★ 2008年/フランス・アメリカ 監督/ジュリアン・シュナーベル
<京都シネマにて観賞>
「蜜を吸えない蝶の哀しみ」


突然倒れて、病院で一命を取り留め、片目でまばたきするしかないという悲惨な状況に陥ったジャン・ドゥ。しかし、彼のモノローグが、関西弁で言うところの「ぼやき」に近いモノがあって、何だかコミカルな雰囲気が漂います。また、ジャンの目線で描くことによって、病院関係者があの手この手で世話をするのも、ありがた迷惑のようにすら見えます。これだけ気の毒な病状だと、普通はかわいそうだと同情を誘うような演出にするんでしょうけど、全然そんなことはないのです。

ずっと映像は、ジャンの片目が捉えたものです。そして物語も中盤にさしかかった頃、ようやくジャンの状態が顕わになります。唇が歪み、目を剥いた彼の姿は、我々をぎょっとさせますが、ここで観客の視点が転換します。つまり前半は、ジャンの立場で周りの人々をとらえ、このシーンからはジャンを取り囲むひとりの人間としての視点に切り替わるのです。本来ならば死に至るような発作を起こした人が、実に体の不自由な状態となって命を取り留めたこと。それは、本人にとってどういうことか、周囲の人間にとってどういうことか。観客が両方の視点からいろいろと思いを馳せることができる。だから、観た後に何度も思い起こして、あれこれと思いふけることができるのではないでしょうか。

さて、ジャンの周りには、美人ばかり集まってきます。言語療法士、理学療法士、別れた内縁の妻、まばたきを読み取る秘書。あまりにもみなさんとびきりの美人なので、これは明らかに何か意図があるのではないか、と思いました。それは、タイトルにある「蝶」です。潜水服に身を包んだような何もできない自分を蝶に見立てる。だとすれば、周りの美女は「花」ではないでしょうか。蝶は花から花へと飛んでゆきます。彼の視線が常に彼女たちの美しい足元や胸元に伸びていることを思えば、そんな想像も膨らみます。しかし、ジャンは決して美しい花を愛でることはできない。そこに、「男」としての根源的な欲求を満たせぬ哀しみを私は感じ取ってしまいました。

自由な自分を想像する時によく出てくるイメージは「鳥」なのですけど、この「蝶」に例えるあたりが、なんともたおやかで優雅でフランス映画(資本はアメリカですが)らしいなと思うのです。尽くして看護してくれる妻がいるのに、愛人への未練が断ち切れないジャンの身勝手さなんかもね。「本」という形あるものを残したことに意義はあるのでしょうが、ジャンにとっては耐え難き苦悩ばかりの日々だったように思います。それにしても、まばたきを読み取る周囲の人物の忍耐強さには頭が下がります。果たして、私にできるだろうかと考えてしまいました。結局を死を目の間にした人を描く、ということは、それを周りの人々がどう受け止めるのか、どう受け入れるのかを描くことなのだと痛感したのです。

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