象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

ウィンストン•チャーチル”その5”〜空白の10年と栄光の日々(第4話)

2019年02月12日 06時04分23秒 | 戦争・歴史ドキュメント

 前回「その4」では、チャーチルの第一次世界大戦後から”空白の10年”に至る経緯までを述べました。
 イラストの”裏返しのVサイン”は、大戦中チャーチルが好んで使ったんですが。英国では”クソッタレ”とかの攻撃的&侮辱的な意味を持つそうです。しかし、庶民はこの意味を知らず、”勝利のVサイン”としてチャーチルを英雄化したんです。全くふざけたデブ親父ですね。

 映画「ヒトラーから世界を救った男」(2017)では、”ダンケルクの撤退”のチャーチルが美化して描かれてますが。地上戦でそのままドイツが攻め込んでたら、イギリスもフランスと同じくあっさりと、全面降伏に傾いたでしょう。故に、ナチスの失策とも言えます。勿論、ヒトラーの失策としては、”バトル・オブ・ブリテン”の方が有名ですが。


世界中に戦争を撒き散らしたデブ男

 結局、米ソはヒトラーとチャーチルの醜いつばぜり合いを傍観し、ドイツと大英帝国を戦わせ、極限にまで疲弊・消耗させ、結局2つの大国が美味しい蜜を吸った世界戦争だったんです。
 当然、ヒトラーは大英帝国とは戦いたくなかったし、植民地が欲しかっただけです。でも失策続きの”戦争屋”チャーチルが引かなかった。
 事実ヒトラーは、何度もチャーチルと話し合いを持ちかけた。しかしチャーチルは聞く耳を持たなかった。

 つまり、第二次大戦はチャーチルが好き好んで引き起こした戦争であり、全く”不必要な戦い”でもあったんです。そういう意味では、チェンバレンの”不名誉”の選択は正しく、チャーチルの”戦争”の選択は明らかに間違ってた。
 このデブ老の戦闘欲こそが、欧州を世界戦争に巻き込んだ張本人と言えますね。故に”ヒトラーから世界を救った”ではなく、ヒトラーに(無謀な)喧嘩を売り、”世界中に戦争を撒き散らし、アメリカに大英帝国を売り飛ばした男”と言ったらいい過ぎか。


空白の10年とヒトラーの台頭

 チャーチルの”空白の10年”が始まると時を同じく、アメリカ・ウォール街の大暴落に端を発する世界大恐慌(1929)がイギリスをも襲う。まるで”チャーチルの呪い”そのものですね。
 内閣は、チャーチルが再導入した金本位制を捨て、保護貿易に矛先を変えた。失業者の急激な増大に、流石にチャーチルの信念は揺らぎ、保護貿易主義を支持する様になる。

 翌1930年には、自身の自伝本「My Early Life」を出版、議員になるまでの半生を振り返り、インド人を”蛮族”呼ばわりする。
 お陰で、マクドナルド内閣が戦争協力を得る為の”インド自治”に反発していたチャーチルは、インド自治反対を掲げ、内閣に対抗するも僅差で破れ、チャーチルはこれを機に、政界とは完全に足を洗う(61歳)。
 チャーチルが政治から足を洗い、隠匿してる間、1933年1月に首相に君臨したヒトラーは早速、同年3月にヴェルサイユ条約を破棄し、再軍備を開始する。 
 実はこの時、ヒトラーとチャーチルは出会う筈だった、いや出会うべきだった。ヒトラーが首相になる前年、隠匿中のチャーチル(58歳)は旅先のミュンヘンで、ヒトラー(44歳)と会う約束をしてたのだ。
 ユダヤ復権を支持するチャーチルの、”なぜヒトラーはユダヤ人をユダヤ人という理由だけで迫害するのか?”という問いが、ヒトラーの耳に入り、機嫌を損ねた。
 ”こうしてヒトラーは、私と会見するただ一度のチャンスを逃した。奴が政権を握ってから、何度か会談オファーがあったが、私は口実を作って断った”とチャーチルは回顧する。

 
チャーチルの対独強硬論と

 ヒトラーが政権を握っても、英国の保守党はナチスに同情的だった。
 もしナチ党を政権から引き降ろせば、代って政権につくのは共産党。故にドイツの再軍備をある程度容認し、”対ソ防波堤”にするという対独融和が多数を占めた。保守党首のボールドウィンや次期党首のチェンバレンも同意見だった。  
 一方チャーチルはこれに反発し、”対独強硬論”を強く唱えた。
 ”ドイツに再軍備を許せばドイツは帝政時代並みの国力を備え、反ソのメリットより、大英帝国を独軍が再び脅かすリスクの方が大きい”

 1930年代のチャーチルは、内閣を敢えて離れ、ドイツ脅威論が盛り上がる時を待ち、政権中枢に返り咲く狙いがあったとも言われてますが。
 事実チャーチルは、ドイツの再軍備要求を断固拒否し、”英国は軍備増強を行い、次の戦争では海軍ではなく空軍が決定的役割を果たす”と、ドイツ空軍の増強に警鐘を鳴らしていた。
 つまり、”空白の10年”は計算し尽くされたプランだったとされるが、所詮は結果論に過ぎない。
  

ミュンヘン会談とチェンバレンの思惑と

 1937年5月にボールドウィン首相は引退し、ネヴィル・チェンバレンが保守党党首・首相に就任。彼もボールドウィンと同様、”閣議の和を乱す危険分子”であるチャーチルを入閣させる気は全くなかった。
 翌年3月、オーストリアをドイツが併合。チェンバレンは許容範囲内と判断したが、チャーチルはヒトラーを即座に批判した。
 続く9月には、英仏独伊によるミュンヘン会談を行い、ズデーテンのドイツ領有を認めた。
 これを聞いたチャーチルは、”我々は敗北した。これが大英帝国の終焉に繋がらなければよいが”と激怒する。

 しかしミュンヘン協定も虚しく、1939年3月ドイツは内紛により分裂したチェコを併合。これにより政界も世論も融和政策は失敗だったと認識する。ここに至り、労働党は英仏ソ同盟を主張、反共のチャーチルも賛同するが。
 一方でチェンバレンは、ソ連との同盟には否定的で、ソ連は英仏と独を潰し合わせるとの疑念を強く持っていた。それにソ連共産党の赤軍はスターリンの大粛清により同盟を結んでも、戦力としてアテにならないと判断した。

 スターリンも独ソを反目させる英仏の陰謀を警戒し、同年8月に独ソ不可侵条約を締結。利害が一致したスターリンとヒトラーとの間で、東ヨーロッパを独ソ両国で分割支配する事が秘密裏に取り決められた。
 両国の握手に世界は驚いたが、チャーチルには想定内であった。そして、みすみすソ連をドイツに与えたチェンバレンの外交センスの無さを批判した。 


第二次大戦勃発とチェンバレンの失意

 英仏とソ連の挟撃の危機を回避したドイツ軍は1939年9月1日、ポーランドへ侵攻を開始。閣僚からも対独開戦を要求されたチェンバレンは2日にドイツに宣戦布告する。
 イギリスに引きずられてフランスも対独参戦し、第二次世界大戦が勃発した。
 因みに軍人時代のチャーチルは戦争の前線にいながら、ヒトラー同様に絵を描く事が多かったと。イメージというのは政策や戦争でも大きな力を発揮するんですね。いや2人の結末を見るとそうでもないか。

 ”空白の10年”の後、チャーチルのプランどおりに事は進む。対独強硬論で名を挙げてたチャーチルは、チェンバレンとは異なり”不名誉”よりも”戦争”を選択した。
 ミュンヘン会談で、”不名誉”を選択したチェンバレンも、第二次大戦を機にチャーチルを海軍大臣に任命せざるを得なかった。”戦争屋”チャーチルの復活劇は、ここから始まる。

 事実チェンバレンは、早期の平和実現を願い、今度の戦争は第一次世界大戦のような徹底抗戦ではなく、経済圧力を主眼にと考えた。ドイツをやせ細らせ、領土拡大が”割に合わない”事をヒトラーに思い知らせ、早期講和に持ち込む考えだった。
 だが戦争屋チャーチルは違った。第一次世界大戦と同様、イギリスかドイツかどちらかが倒れるまで戦うつもりだった。閣僚の一人は、”奴は100年でも戦うつもりでいる”とチャーチルをコケにした。

 
海軍大臣としてのチャーチルの失態

 意気揚々のドイツとは、海軍戦ではほぼ互角だったが、陸となると話は違った。1939年11月ソ連がフィンランドに侵攻する。チャーチルはこの地を独ソとの主戦場にと企み、早速ノルウェーに遠征軍を送るも、ドイツは英軍の先を読み、翌年4月から北欧侵攻を開始した。
 お陰でチャーチルの作戦は全て裏目に出て、精強なドイツ軍に散々に粉砕された。
 つまり、ヒトラーはチャーチルの”冬作戦”を全て察知していた。

 ”我々の最も優れた部隊でさえ、活力と冒険心に溢れ、優秀な訓練を受けたヒトラーの若い兵士達にとっては物の数ではなかった”と、チャーチルは悔やんだ。
 結局、24年ぶりに海軍省に復帰したチャーチルだが、北欧戦でも大失態を犯し、失脚も危惧されたが。この責任は運良くチェンバレン首相に帰せらた。
 

めでたく首相就任と打倒ヒトラーと

 大酒を飲み、夫人を同伴し、ユーモアにも長けたこのデブの戦争屋は、ヒトラーを追う様にメキメキと頭角を現し、”ヒトラー打倒”の労働党と世論の後押しを受け、1940年にはとうとう念願の首相に君臨(65歳)。
 これは、かつてゼネスト弾圧で反目してた労働党の、大連立による挙国一致で政権強化を模索した為に起きた”偶然の賜物”でもあった。
 まさに、”昨日の敵は今日の友”である。

 ”我々の目的が何か?それは勝利だ。どれだけ犠牲を出そうとも、そこに至る道がいかに長く困難であろうとも勝利あるのみ”との、陳腐で横暴な首相就任演説には呆れますな。
 この愚かな”戦争好き”デブ老人はその後も失策を重ねる。
 西方電撃戦(1940/5/10〜6/25)ではフランスを敗北に導き、ギリシャ•イタリア戦争(1940 /10/28〜1941/4/16)、北アフリカ戦線(1940/9〜1942/6)でもドイツ軍に敗北する。

 しかし戦争の女神はその後、チャーチルに微笑む。失策続きのチャーチルの忍耐がヒトラーの狂乱を引き出すんですね。
 長くなりすぎたので今日はココマデです。

 次回”その6”では、ダンケルクの撤退とブリテン島での死闘について書きたいと思います。



4 コメント

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そうだったんですか (びこ)
2019-02-12 19:39:00
大体歴史は苦手で、特に世界史は苦手だったんですが、チャーチルが第二次世界大戦を起こしたなど、全然知りませんでした。私は、よく知らずに、勝手に彼は英雄かと思っていました。一度世界史の勉強をし直さなければ!
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Unknown (lemonwater2017)
2019-02-12 21:40:05
実は、日本を戦争に巻き込んだのもチャーチルなんですね。アメリカは反対したが、チャーチルが引かなかった。事実、アメリカは日本と戦争する理由は全くなかったんです。
 
しかし、チャーチルは日本の南下政策を容認すれば、イギリスに残った唯一の植民地であるオーストラリアの独立の機運が高まるとアメリカに縋ったんです。

アメリカのポチであるイギリスは、日本に喧嘩を売って、日本を悪者にして、孤立させるしかなかった。

今、アメリカは原爆投下の責任を英国に押し付けようとしてます。勿論半分は当ってますが。戦後アメリカが日本を必死に援助し、英国を見捨てたのは、そういう背景もあるんですね。

今、英国はEUから離脱しようとしてますが。アメリカからも見捨てられれば、北朝鮮みたいな孤立した国に成り下がるのも時間の問題かもです。

結局、世界で一番の嫌われものは英国なんですかね。
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Unknown (hitman)
2019-02-13 01:30:02
二つの世界大戦は、チャーチルが生んだとありますが。特に第二次大戦のイギリスとしては、中立を保ってればよく、独露の争いを傍観してれば良かった。

互いが消耗した所を叩くもよく、アメリカみたいに軍事援助でぼろもうけするも良し。わざわざチャーチルみたいに名誉を重んじて、戦争に顔をつっこむ必要は何処にもなかった。

何につけても顔を突っ込みたがるチャーチルのバカは、アメリカの参戦を促す為に、必要以上に日本を悪者にし、第二次大戦におとしこんだが、日本が参戦してなければ、東南アジアやインドの植民地を失うことはなかったろうに。

戦わずして勝つが、今までもこれからも戦争の基本理念であり、チャーチルやスターリンのように、戦争に勝っても、大英帝国はソ連は崩壊した。
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Unknown (lemonwater2017)
2019-02-13 02:53:33
hitmanさん、お久しぶりです。

コメント欄の字が小さすぎて、申し訳ないです。チャーチルも無能ですが、Gooの運営部もそれに近いのかな。

冗談はさておいて、hitmanさんのご指摘は流石です。全くそのとおりだと。全くチャーチルのバカが、動物的本能のみで暴走した結果なんですね。

こんなバカが英国では英雄なんですから。英国の明日はないと見ていいでしょうか。ま、安倍でも親の七光りで総理大臣になれる時代です。こんあ無能な化け物が登場したとしても、おかしくはないんでしょうが。犠牲になった人類の数を考えると、とても許せるべき事ではないですね。
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