象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

歴史オンチから眺めた”関ヶ原の戦い”〜器と情けは戦(いくさ)をも制す

2024年04月21日 15時19分10秒 | 戦争・歴史ドキュメント

 フォロワーの連載記事に、関ヶ原の戦いが記されていた。日本史に疎い私だが、地政学がこれ程までに戦(いくさ)に影響を及ぼすとは・・改めて勉強になる。

 関ヶ原合戦(1600)に関しては、多くの日本人が興味を持ち、今でもタラレバ論で語り尽くされている。
 一方(非国民だと言われそうだが)、私には不思議とこの世紀の戦いには、ずっと興味を覚えないでいた。というのも、最初から最後まで徳川家康が勝つ様に作られた戦(いくさ)にしか思えなかったからだ。
 日本の戦国史上空前絶後の一大決戦とも呼ばれ、”ああしてたら西軍が・・”とか、いやどっち転んでも”最初から東軍に分があった”とか、色んな意見があろう。
 世界の歴史でも類を見ないとされる、全国の有力な大名たちが結集した総勢約16万という大人数での戦いは、西軍優勢で始まるも、1日どころか僅か約6時間程度で、呆気なく決着がついた。

 しかし、いくら百戦錬磨の家康であっても、こんな事は可能なのか?
 史実によれば、東軍と西軍双方とも8万余の兵を率いていた。専門家の間では、徳川家康が偽情報を流し、美濃大垣城での決戦を計画してた石田三成が関ヶ原へ誘い出された事で、結果的に西軍が負けたとする見方が根強い。
 ただ、”東軍は大垣城を無視して素通りし、まずは佐和山(三成の居城)を落とし、近江から一路、伏見、そして大坂城を突く”とのニセ情報だが、以下の考察でも判る様に、少し出来すぎの感がある。

 秀吉の戦の傾向でもあるが、城攻めと奇襲を得意とした西軍に対し、城攻めを苦手とし、野戦を得意とする家康が、三成を関ケ原の野戦におびき寄せたとしても、何ら不思議はない。
 他方で、この地は東海道と中山道の二手から西上するであろう東軍を迎え撃つに、戦略上の格好の場所でもあった。この関ヶ原は、三成が待ち伏せする大垣城の西およそ16kmの距離でしかなかったから、この時点では西軍が地の利を得ていたとも言える。
 当然、東軍はこの地の利の差を何とか逆転しなければならなかった。


西軍完敗の3つの理由

 でも何故、西軍が地理的には有利な状況で、いとも簡単に敗れ去ったのか?  
 西軍の中心は石田三成だったが、総大将は中国地方に120万石を持つ毛利輝元で、既に大坂城に入り、豊臣秀頼を守護し、防衛戦を張っていた。が、結局は戦いが終わるまでそこから一歩も動かなかった。
 更に、関ヶ原の西にある南宮山の山頂に、三成が頼みとしてた毛利秀元と吉川広家勢がいたが、吉川は東軍とも通じてた為、頑として山から動かない。その為に秀元は軍を動かせず、結果、大垣城に籠城する西軍を後方支援する為に待機してた約3万の兵を持つ毛利軍は、何もしないまま戦いを終えたのだ。
 この時、秀元が山から下り、家康の背後を突いてたら、関ヶ原の戦いは西軍が勝利したと言われている。

 更に、巷でよく指摘されるのが、西軍の小早川秀秋が裏切った事で、東軍が一気に優位になった事である。当時は、三成をよく思わない西側の武将が沢山いたとされ、秀秋も迷ってた所、痺れを切らした家康が催促の大砲を打ち込み、ようやく裏切りを決意したとされる。
 こうして、1万以上の軍を率いた秀秋の裏切りをきっかけに、西軍から東軍へ次々と寝返る武将が出てきた。これ一気にで流れが変わり、東軍の優位が決定的なものになる。
 ただ、これには家康の用意周到な下準備があり、西軍の大名に”寝返ってくれれば褒美をあげる”との手紙を書いて根回しをしていたのだ。
 謀反の疑いがある上杉景勝を討とうと大坂城を出た家康は一旦江戸に寄り、1か月もの間滞在し、寝返りそうな大名にせっせと手紙を書いてた。策士と言えばそれまでだが、先を見通す家康の洞察力には恐れ入る。
 結果的に、西軍の小早川秀秋と吉川広家が戦いの佳境で翻り、世紀の決戦は一瞬にして決着が付いた。

 一方で、家康の首を取ろうとする三成だが、間一髪で生き延びた襲撃事件後は謹慎処分となり、一時的に失脚していたが、家康が上杉を討つ為に出陣したのを機に、打倒徳川の狼煙を挙げる。他方、家康は家臣と一緒に出陣したので、大坂城は一時的にガラ空きの状態になり、三成はチャンスとばかりに諸国の大名に協力を呼びかけ、大量の兵を集め、徳川の兵がいる伏見城を奇襲した(イラスト参照)。
 ここまでは三成のプラン通りであった。
 一方、会津に向かってた家康は、裏を突かれた格好となるも、既に到達してた小山で会議を開き、冷静に作戦を立てる。多分、この時点で関ケ原作戦は立案され、家康には三成の企みと背中が既に見えてたのであろうか。


実際の史実はどうなのか?

 ここで「関ヶ原の舞台をゆく」を参考に史実を振り返ると、当初家康は味方の諸大名らには東海道を西へ進ませ、息子の秀忠には3万8千の軍を預け、中山道を西に進ませた。いわゆる東海道・中山道の二方面作戦である。
 東軍は8月23日に西軍の岐阜城を落城させ、美濃へ侵攻し、両軍の最前線は美濃・尾張の国境で睨み合いが続いたが、対する西軍は三成が大垣城に籠城し、東軍を待ち受けていた。
 ここで徳川軍を足止めし、大打撃を与える事が出来ると三成は考えた。事実、東軍主力は大垣城で苦戦し、それより西へは進めずにいた。
 大垣城での攻防が続く中、9月1日、江戸城にいた家康が3万の大軍を率いて出陣するも、息子秀忠の援軍は来ない。結局、家康は自軍のみでの進軍を決断し、14日に大垣に到着。総勢5万の軍を配置し、自ら指揮する形となるが、西軍有利の情勢は変わらない。

 しかし同日、関ヶ原の南西にある松尾山城に”小早川秀秋が入城した”との知らせに三成は顔をしかめる。というのも、関が原を一望で見渡せる所に東軍の拠点が造られる事は絶対に避けたかったのだ。故に、いち早く小早川を説得し、西軍に取り込む必要があった。
 結局、西軍は14日の夜、7500の守備軍を残し、三成が率いる3万の軍勢は大垣城の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ出陣。いずれは関ヶ原に東軍を誘い出し、有利な陣形を敷いて一網打尽にする計画だったが、小早川の予期せぬ行動で目算が狂い、準備不足のまま関ヶ原への移動となる。
 一方で東軍も、西軍の動きを知り、大垣城から関ヶ原へと軍を進めた。それまで膠着状態にあった両軍だが、流れは確実に東軍に傾いていく。

 両軍は15日の夜明けまでに布陣を終え、朝8時には世紀の決戦の火蓋が切られる。総兵力は東軍が約7.5万(〜9万)で西軍が約8万とされ、当初は一進一退の攻防を繰り広げていた。
 が、西軍の中で積極的に戦っていたのは三成・宇喜多秀家・大谷吉継・小西行長の合計3万強で、総兵力の半数以下。更に、三成が頼りにした(前述の)東軍の背後に構えていた毛利軍も結局は動かなかった。
 そこで、先に布陣を引いてた計4万の東軍各隊が青野ヶ原で一気に敵陣に攻め込み、勝利を収めると、この機を見て、小早川らが東軍に翻り、西軍を側面から襲い、壊滅させる。その後、西軍はあっさりと敗走し、勝負は決する。
 当初は拮抗してた兵力も、西側武将らの裏切りや傍観が相次いだ結果、東軍12万対西軍3万との圧倒的な差がつき、これが勝敗に直結。世紀の決戦は僅か数時間で家康の圧勝に終わった。


タラレバは歴史につきもの

 結局、知将でエリート肌の石田三成だが、ライバルになりそうで気に食わない武将の悪口を秀吉に言いつけたりと、プライドが高く横柄な三成の態度に敵も多かったとされる。  
 一方で家康は、信長や秀吉といった大きな権力を持つ人がいても、諦めずにじっくりとチャンスを伺い、関ヶ原の戦いにより頂点に君臨する。その後の江戸幕府の300年に渡る隆盛を考えると、関ケ原での勝利が如何に家康の考えが十全に張り巡らされたものであったかを思い知らされる。
 多分、秀吉が生きてたとしても、老将であり知将の家康には敵わなかったであろう。
 つまり、真の知将は奇襲よりも策略を選択するだろうし、城攻めよりも野戦の方があらゆる戦術を駆使できる。勝つべくして勝った家康と、負けるべくして負けた豊臣家とも言えなくもない。

 更に言えば、秀吉の2度の朝鮮出兵は”私欲による無益な戦い”であり、豊臣家に多くの損失をもたらしたとすれば、それとは対称的に、家康は鎖国により安定と平和をもたらしたと言える。
 NHKの某番組では、秀吉こそが最高の武将だとする声も多いが、私には多少の疑問が湧く。上杉謙信や織田信長なら理解できるが、破壊的野望を持つ秀吉には実質の天下統一は無理があったのではないか。
 全国の各武将らも、秀吉の征夷大将軍としての手腕と技量に疑問を持つものも少なくなかった筈だ。

 様々な意見があろうが、確かに秀吉は戦国時代を制し、悲願の天下統一を成し遂げたが、広範囲に強い力を持ち、百戦錬磨の家康の存在は常に秀吉を怯えさせていた。つまり、事質上の統一王者は家康であり、秀吉の側近も全国の武将らも薄々は気づいてた筈だ。
 更に、2度の朝鮮出兵の後、三成を中心とした政務担当の”文治派”と、合戦で戦う”武断派”が対立する結果となる。が、後者の武断派は豊臣家に不満を持ち、やがて家康に頼るようになり、秀吉の死後ますます家康の権力は絶大になっていく。
 関ヶ原の戦いの後、家康は西軍から没収した所領を東軍の大名たちに恩賞として分配し、また、寝返った小早川秀秋などにも多くの土地や石高を加増する。


最後に〜家康と秀吉の器の違い

 ここで注目すべきは、豊臣秀次の老関白であった田中吉政である。吉政は三河国岡崎城主10万石の大名であったが、秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは東軍に就き、石田三成を生きたまま捕えるという快挙を果たす。戦後、これらの勲功が認められ、家康から筑後一国柳川城32万石を与えられ、国持ち大名となった。
 一方で、九州制圧に大きく貢献した立花宗茂だが、秀吉から与えられたご褒美は僅かに10万石弱で旧下蒲池藩の13万8千石にも満たなかった。更に、関が原の開戦の後、宗茂は浪人の身になってたが、家康から旧領の筑後柳川藩11万石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し、一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となる。

 かつては”日本無双の勇将”と宗茂を絶賛した秀吉だが、宗茂が筑後国の末裔だと知っていた筈の秀吉が、筑後国の32万石を与えていれば、もっと忠誠心は違ったであろうか。
 こういう所にも、スラム上がりの秀吉の器の小ささが露呈してる様に思えてならない。事実、関ヶ原の戦いの直前に家康から法外な恩賞を約束に東軍に付く様に誘われ、宗茂の側近も賛同したが、宗茂は”恩義を忘れ東軍側に付く位なら、命を絶った方が良い”と断っている。だが、その恩義を軽く見たのは秀吉ではなかったか・・・
 多分推測に過ぎないが、仮に宗茂が田中吉政同様に家康に就いてたら、32万石を優に超える領地を得て、今頃は福岡の半分は柳川(蒲池)地区になってたかもしれない。

 つまり、家康にあって秀吉になかったものは人間としての”器”だったのだろう。
 結局、人間は現金な生き物である。
 どっちが勝とうが、ご褒美が多い方につくのが人情というものだ。
 関ヶ原の戦いは色んな事を教えてくれる。その中にタラレバを加え、自分独自の”関ヶ原”物語を作る事が出来る。
 日本の歴史には疎い私だが、いい夢を見させてもらった気がする。



4 コメント

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象が転んだ様へ。 (りくすけ)
2024-04-21 18:16:51
お邪魔します。

器(懐)の大きさを持ち、
奇襲よりも策略を駆使した知将「家康」が
勝つべくして勝った。
その通りだと思います。

彼の天下取りの姿勢を表すとして
俗に“鳴くまで待とうホトトギス”と言われますが、
関ヶ原に臨んでは速攻、一気呵成。
秀吉亡き後、節操ない結縁関係工作。
寝返り工作・根回しの素早さ。
信長ばりに“殺してしまえホトトギス”を実践。
やはり彼は戦国武将の生き残りでした。

そして歴史の針を進めて眺めてみれば、
関ヶ原敗軍となった毛利が長州藩として、
関ヶ原で東軍中央突破大撤退をやってのけた島津が薩摩藩として、
やがて徳川幕府に引導を渡します。
歴史の禍福は糾える縄の如し、ですね。
改めてタラレバの面白みを実感しました。

では、また。
りくすけサン (象が転んだ)
2024-04-22 08:26:21
お早うございます。

私も器が小さい人間なので
秀吉の気持ちが痛いほど判るんですよ。
家康に対峙する度胸がないから、朝鮮出兵でお茶を濁す。
山本五十六が真珠湾の奇襲をしたのも
陸軍に負けるよりかはアメリカに負けた方がマシという考えからでした。

”歴史の針を進めて眺めてみれば”
との言葉通り、幕末になると、関ケ原の勝者と敗者が真逆になりました。
まさに、逆も真なりですよね。
これもタラレバですが、立花宗茂が家康側についてたら、松田聖子さんはアイドルになってたでしょうか。

関ケ原の連載、とても勉強になりました。
異人達のララバイ (模様眺め肱雲)
2024-04-22 11:14:51
古今東西、事の情勢優劣の見極めが付かず
どちらに与するかの判断が困難な際に
とりあえず取り得る立ち回り方が模様眺めであり
性急な態度表明を控え様とするスタンスですね。
しかし勝ち組に参入するタイミングをミスると
勝者側に回れたとしても臆病者の誹(そし)りを免れず
逆に苦しい境遇に追い込まれ墓穴を掘る破目になる場合すらある
コバヤカワはその関ケ原の象徴的教訓として
後世に名を残す異人となってしまいました。
さてドウシヨウモナイ糞自民党の場合はドウでしょう。
殆どの自民党国会議員は沈み逝く泥船の中でも、あわよくば勝ち馬に乗ろうと
コバヤカワの心境になっているのではないでしょうか。
更にそうした糞自民党政権を遠目に眺めながら
次の迫り来る衆院選で政権交代を目論む他党は
これまた少しでも自身に有利なポジショニングを睨(にら)んで
どちらにでも転べる様な曖昧模糊の姿勢に終始しているのではないでしょうか。
コンナ事の繰り返しが戦後ズ~ッと相も変わらず続いて
ポリティカル・アパシー及びアノミー状況が深刻化するバカリです。
そう言う模様眺めのワタシも傍観者の利己主義を採り続け
結局、コバヤカワ的異人に成り下がってシマッタ張本人の一人にしか過ぎないのですが。
はたまた日本自体がこれ迄通り米帝に与するか、それとも近年超大国の主役に躍り出た中国に乗り換えようかと
コバヤカワ的態度を模索しているのかも知れません。

そしてモウリやシマズの模様眺めはより高度で
幕末敗者復活戦に名乗り出て新政権の中核として収まったという次第です。
対立していると思わせておきながら最後に結託し
美味しい汁に在り付こうとする。
正しく八百長事象が幾重にも織り成され
数学的予定調和の世界が形成されて行くのでしょうかネ~。
肱雲さんへ (象が転んだ)
2024-04-22 17:24:20
相変わらず
政治と歴史にはとても詳しいですね。
感心しきりです。
日本には”寄らば・・・”ってのがありますから、DNA的にそういう人種かもです。
世界を眺めても、日本みたいに大金を吸い尽くされてもアメリカを頼りにする小国って珍しい気もしますが

関ケ原の時の徳川家は、今の沈み逝く自民党とは勢いも力も異なりますが、言われる通り、どちらにでも転べる様に準備してる議員らが殆どでしょうね。
”対立してると思わせ最後に結託”という意味では、野党の立憲と維新が怪しい気もしますが、今の自民党が弱体化し解体して、バラバラに拡散した政党が1つにまとまる可能性もなくはない。
つまり、ライプニッツが唱えた予定調和に帰着するのもあるかもです。

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