象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

虚礼とお歳暮はなぜ?死滅しない

2022年11月21日 04時55分21秒 | 独り言&愚痴

 ”お歳暮の無駄”でサイトをググったら、”虚礼”という言葉に出くわした。
 因みに、虚礼とは”うわべばかりで誠意や中身や根拠を伴わない形式的な礼儀”とある。
 最近では、”意味のない習慣や礼節はやめよう”という”虚礼廃止”の風潮が広まりつつあり、年賀状やお中元・お歳暮・葬儀や通夜の参列、更には飲み会参加やバレンタインまで虚礼廃止する企業まで出てきた。
 事実、社員の働きやすい職場づくりの為にも、明文化されていない社内の慣習を見直す事は必要かもしれない。
 虚礼廃止のメリットとして、経費削減と業務効率化が挙げられる。また、バレンタインなどはセクハラの温床にもなりかねない。

 2019年のある企業コラムにはこう書いてあったが、それから3年が経っても、虚礼廃止は徹底されてない気がする。いや、(コロナ渦が中途に開けて)むしろ増えてる様な気もする。
 事実、未だに隣組や町内会や公民館は当たり前の様に存在するし、冠婚葬祭だって盛んな地域は(田舎に多いが)腐るほどある。外国のお祭りであるクリスマスイブやバレンタインはハロウィンに取って代わり、毎年決まって大きな騒動と迷惑を撒き散らし、その上、犯罪や犠牲を引き起こす。 


こんなモノ要らない辞典?

 確かに、日本人は礼儀正しい民族であり、行事を重んじる風潮がある。
 ”誠意を伴う”礼儀だとしても、冠婚葬祭に関する包み物は(お布施を含め)全くの虚礼であり、アホ臭で経費の掛かりすぎる慣習でもある。伝統古来のしきたりとは言え、賞味期限はとっくに過ぎてる筈だが・・・

 私の田舎では(特に葬儀に関しては)、仮通夜・本通夜・葬式と喪主にとってこの3日間は地獄である。その後も初7日・49日・初盆・一周忌・・・と延々と仏事が続く。それに、こうした祭儀に参列するのは、その多くがとっくに人生の楽しみを失った中高齢者である。
 年賀状・お中元・お歳暮は虚礼の3大巨頭ともされるが、これに関しても彼ら彼女らは血眼になる。更に、年末のこの時期になると、未だにお歳暮商戦なるものがこれでもかと店頭を賑わす。
 コーヒーの詰合せに、クッキーやお菓子のセット、乾麺やうどんに、佃煮やカニ缶の詰合せなど、お歳暮のパターンはここ何十年も変っちゃいない。
 それでもスーパーや食品メーカーはここぞとばかり、年末のお歳暮商戦に力を入れる。

 実は、こうした虚礼を無駄と思う風潮は昔からあった。1989(平成元)年に発売された「現代無用物事典」(新潮文庫・朝日ジャーナル編)によると、当時に無用・無駄と思われていたものが37項目に渡り紹介されている。
 あまりピンとこないが、代表的なものを挙げると、
 戒名(△)、固定電話(○)、電信柱(○)、敷金(△)、お正月(○)、プロ野球の引き分け(○)、校歌(○)、朝礼(○)、時価(○)、ボトルキープ(○)、ワインのテイスティング(○)などがある。
 因みに、現存するものは○、減ったものは△、ほぼ死滅した×とする。
 これだけを見ても、”要らない”と頭では解ってても、殆ど減らない。つまり、人は虚礼という無駄から抜け出せない様に出来てるのだろう。

 年賀状・お中元・お歳暮は”なくてもいい”ものの象徴の様に言われてきたが、中でも年賀状は死滅した様な気がするし、お中元やお歳暮も”ない方がいい”に決まってる。
 一時、あれ程にまで盛り上がったバレンタインデーもクリスマスイブもコロナ渦のお陰か大半は萎んでしまった気がする。この流れでハロウィンも死滅してくれればいいのだが・・・


令和版・死滅してほしいモノ

 そこで、私なりの”なくした方がいいもの”のリストを作ってみた。
 ①◯回忌や初盆などの仏事や法要やお布施。葬儀は火葬式だけにして、初7日だけは喪主の判断に任せる。
 ②お盆やGW、年末年始などの一斉休業。できれば期間をずらし、慢性的な渋滞を避けたいもんだ。
 ③冠婚葬祭での包みモノと電報。特に現金は法律で厳しく禁じ、現金以外は良識の範囲内でとする。お返しは原則ナシ。
 それに、偉そうに見える祝電や弔電はメールで十分である。因みに、お袋の一周忌の挨拶はSMSで済ませたし、親戚の冠婚葬祭には参列するつもりは毛頭ない。
 ④地上波とBS。千円前後のストリーミングサービス全盛の時代に、存続してるのが不思議なくらいだ。そういう私も、近々この2つは解約するつもりである。
 ⑤朝礼と校歌と仕事前の趣味の悪い音楽。北の軍事パレードを見せつけられてるみたいで、毎朝ウツになったもんだ・・・
 ⑥TwitterとInstagramと”イイね”。ネットコミッティを支え、腐らせてきた3つだが、同時消滅してほしかった。
 ⑦選挙運動。特に、選挙カーでの名前連呼や白手袋・必勝ハチマキは、戦時日本の右翼を連想させる。
 ⑧(自由が殆ど亡くなった)アメリカと(四等国家に舞い戻った)ロシアと(所詮はデカいだけだった)中国。超大国の論理は高い確率で戦争に直結する。
 ⑨行き過ぎたCO2削減と大型原発。息を止めては生きていけないし、後者は動かせない核爆弾に過ぎない。
 ⑩度が過ぎた権力と無能なメディア。今の自民党や日銀を見てると悪の象徴そのものであり、それら権力に依存したメディアならない方がいい。

 最後にとっておきの2つですが(笑)、
 ⑪「ラッセルのパラドクス」。どう見ても、紀元前6世紀の哲学者エピメニデスが自作した”クレタ人の嘘つき”のパクリにしか思えないのだが・・・
 ⑫ゲーデルの「不完全性定理」。当たり前と言えば当たり前ですが・・・でも、若干26歳で論理(公理)の限界を暴いたゲーデルはカントールに匹敵する天才なのだろうか?
 自分であえて記事にしてて無用と言うのも何ですが、これもパラドクスというのでしょうか。

 勿論、お中元とお歳暮も要らないが、すぐに淘汰されるだろうから、敢えて入れなかった。
 それに、天皇制度や世界中の王室や皇族もだが、(その気になれば)CO2削減よりかは楽に減らせるだろうから、これもあえて入れなかった。
 こういう事は皆が日頃から思ってる事だろうが、”解っちゃいるんだがヤメられない”ってものほど、地球と人間にとって有害で有毒なものはない。そう言えば、”かっぱえびせん”も食べた後は決まって胃もたれする(笑)。

 虚礼という期限切れの無駄は腐ったミカンと同じく、悪臭や異臭を放つだけである。
 しかし、腐った巨木に群がるシロアリのように、我ら大衆は虚礼という”腐り果てた伝統行事”に群がりたがる。
 ”虚礼は死滅しない”というパラドクスこそが、いやゾンビみたいに生き延びる虚礼こそが、人類にとっては気候変動や核兵器以上の真の脅威となりうるのかもしれない。



8 コメント

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親戚 (hitman)
2022-11-21 11:14:29
ってのが欠けてやしませんか?
特に母方の(^-^;

それと
さだまさしに
韓流アイドルに
村上春樹の翻訳に・・・

いや余計なお世話でした^_^
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hitmanさん (象が転んだ)
2022-11-21 12:36:00
言われてみれば
いろいろと書き漏れがありますね。

真面目な話
日本だけじゃなく、全人類が長い歴史の中で積み上げてきた文明や文化の賞味期限がとっくに切れた残骸だと思うんです。
そして今、それらをフォーマットし、取捨選択する時期に来てると思うんです。
CO2削減も大事ですが、こうした無駄に積み重ねてきた創造物も削減の時期に来てる。

コメント面白かったです。
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不完全性定理って (腹打て)
2022-11-21 20:39:34
数学ではなく哲学なんだよな
勿論、ゲーデルの天才は認めるけど
哲学的な論理で数学を論じたら、数学は哀れよ。
ラッセルのパラドクスも数学者から見たら、混乱を招く悪循環に過ぎないもの。

でも要らないものとは?言い過ぎじゃないの(^^♪
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腹打てサン (象が転んだ)
2022-11-21 21:52:52
そうですよねぇ〜

基本的に数学者は数学界を混乱させる様な事は敢えて主張しないんですよ(多分)。
しかし、哲学者被れの数学者は数学をおちょくるんです。
カントールもツェルメロも古典的矛盾については、気付いてても敢えて言わなかった。それが紳士というもんですよ。

そういう私も紳士じゃないんですかね(︶^︶)
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不完全性定理 (UNICORN)
2022-11-22 02:20:24
クルドゲーデルが若干31歳で証明した連続体仮説の無矛盾性とは、連続体仮説が真であると仮定しても、集合論の公理には新たな矛盾は発生しない。
一方、連続体仮説が真であると仮定して、矛盾が発生しない事がもし示せてたら、カントールを長年苦しめた連続体仮説は、公理系集合論にとってはどうでもよくなる。言い換えれば、選択公理を加えた集合論から独立したものになる。

つまり、「不完全性定理」よりも連続体仮説の方がずっと困難でしたし、それに比べれば前者はずっと哲学っぽくかつ軽く感じます。でも彼を有名にしたのは前者の方でした。
若くして勢い付いた天才ゲーデルもカントールを狂気に追い込んだ連続体仮説の分厚い壁に跳ね返され、同じ様に精神を病んでしまいます。

もし連続体仮説がこの世に存在しなかったら、ゲーデルの生涯はどうなってたんでしょうか?
そういう意味でも大きなターニングポイントになったことだけは確かです。 
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UNICORNさん (象が転んだ)
2022-11-22 11:26:29
連続体仮説を抜きにして、(選択公理を追加した)集合論内の公理で矛盾なく説明出来るのか?
ゲーデル自身が証明した「不完全性定理」によれば、証明も反証もできない筈ですが、彼は説明できると信じてました。
つまり、公理の不完全性と同様に、連続体仮説の不完全性(偽)を暴こうとしました。
でも結果は、カントールを苦しめた狂気が待ち構えてただけでした。
つまり、不完全性定理ほどに連続体仮説は甘くはなかったんですね。

無限の順序の考察でもある連続体仮説は、カントールにとっては絶対的な存在でした。
一方で、集合の要素を順番に選出する選択公理はカントールを支持するツィンメルによって確立され、彼が構築した公理系集合論では連続体仮説と選択公理の共存が可能となります。

こうした一連の騒動に比べれば、不完全性定理は相対的な存在に過ぎません。故に、カントールの素朴集合論は”超越”とも呼ばれます。
つまり、不完全性定理とは異なり、超越した所に存在するんですかね。
その不完全性定理によって若くして成功したゲーデルですが、数学の本質が論理や公理の中には必ずしも存在しないという事を突き付けられたのではないでしょうか。

そういう意味でも不完全性定理は数学界に一時的な混乱は招いたとしても、大騒ぎする様な事でもないのかなと思いますが・・・
考える程に哲学の罠にハマってしまいますね(残念)。
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不完全性定理のパラドックス (#114)
2022-11-25 15:42:30
体系内の問題は
体系内のルールで解決できるけど
体系外の問題は
体系内では解決出来ない事がある
というだけの事で
不完全性定理のパラドックスといったとこ

つまりゲーデルも
ラッセルの自己言及性を
命題の不完全性に拡張しただけであり
哲学の理屈で数学を語ると
混乱が起こるとはこういう事か
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#114さん (象が転んだ)
2022-11-26 00:11:20
ご賛同いただいてありがとうです。
ラッセルは”集合とその要素である階層の異なるものを混同すべきでない”として「タイプ理論」を提唱し、パラドクスを解決したとされますが。
「自己言及性」にはどんな意味にでも取れる曖昧さが存在し、「内向公理」では命題を真か偽かだけで判断しようとすると矛盾が起きます。
つまり、ラッセルが排除した「自己言及性」をゲーデルは蒸し返し、単に論理体系の限界を主張しただけで、「不完全性定理」とは大げさですよ。

一方で、カントールの全体集合のパラドクスは冪集合(=2のn乗)という明白なる数学の論理ですから、同じパラドクスでも曖昧さは皆無です。
つまり、哲学の曖昧さを数学の世界に取り込んでも単に混乱するだけなんですよね。
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