前回「その1」では、「まぐれ~投資家はなぜ運を実力と勘違いするのか」の大まかな流れと著者タレブ氏の概略と翻訳者望月氏のコメントを長々とですが、紹介しました。
レバノン内戦を潜り抜けて育ったタレブ氏だが、グレアム・グリーン(英、1904-91)に影響を受け、文学に大きく傾斜するきっかけになったという。事実、この著書にも数多くの参考文献が紹介されているが、数えただけでも何と250冊近くが紹介されている。
因みに、これら文献に関してタレブ氏は、”ランダム性を扱う者として、自身も含めた(長年観察してきた幾人かの研究者の)欠陥に焦点を当てた、ふざけた本にしようと思ったので、書いた事の全部に科学的論文を参考に挙げた。数学よりも実証心理学が圧倒的に多いが、これは個人的エッセイで論文ではない”と語る様に、まぐれという偶然が如何に人間の心を惑わすかを、精密に物語る文献集の位置づけとも言える。
全14章からなる膨大なる報告書
更に驚かされるのが、全14章の1つ1つの章に付注を付けて丁寧に解説を付け、実証してる事だ。
例えば(序章の参考文献である)、「なぜ、この人たちは金持ちになったのか」(2000年、トマス・スタンレー著、広瀬明弘訳)で著者は、”金持ちはリスクをとるが、リスクをとれば金持ちになれるのは間違いだ”と説いた。が、もし著者が失敗した起業家を対象に調査してたら”失敗した人もリスクをとると推論しただろう”と、タレブは論破する。
確かに冷静に考えれば、生きるとはリスクをとる事であり、その逆も真なりである。結局は当り前の事を言ってたに過ぎない。
また、「確率理論~科学の論理」(2003、E・T・ジェインズ著)では、数学は確かな事を扱い、確率は不確かな事を扱うが、純粋数学者が長らく確率論を軽蔑してきたのもこれで説明がつく。この本は確率を扱った数学を最も完全に説明し、”確率を論理(数学)の拡張として用いる事に成功している”と、タレブ氏は説く。
事実、確率論をバカにしていたD・マンフィールドは自著「確率時代の夜明け」(1999)で、”2千年以上に渡り、西欧の考えはアリストテレス的論理に支配されてきたが、賭け事の戦略など後ろめたい始まり方をした確率論や統計的推定は、今やどの科学的モデルよりも優れた基盤である事が明らかになった。この流れは来世紀の数学全体に影響を与えるだろう”と悔いているが、彼の予言はまさに的中しつつある。
従ってタレブ氏の結論は、”まぐれや偶然を見縊るな”であり、”人が思う以上に成功は偶然に依存する”という事に帰結するのだろうか。
本書は、①金持ちなら頭が悪いのはどうしてだ②奇妙な会計方法③歴史を数学的に考える④たまたま・ナンセンス・理解のインテリ⑤不適者生存の法則ー進化は偶然に騙される⑥歪みと非対称性⑦帰納の問題⑧生存バイアスとう億万長者で一杯の世界⑨卵を焼くより売り買い⑩敗者総取りの法則ー日常の線形性⑪偶然と脳ー確率を理解するのに不自由⑫偶然という病⑬確率論と懐疑主義⑭偶然の品格(ソロンの言う通り)と全14章の目次だけを拾っても、その内容を一言で表せる次元にはない。
だがその中でも、著者の主張は①〜⑦までを纏めた”ソロンの戒め”(=歪み・非対称性・帰納法)に集約されると思う。
ただ、全てを読んで理解する自身がない人は序文の”知識を真に受けるな”と”勝ち馬に乗れ”と”不信と確率=確率は思うほど当てにならない”だけでも理解すれば、とても勉強にはなる。勿論、タレブはランダムさの研究やその確率を深く理解する人だが、現場や実践を重視する熱いメンタリティーを持ち備える賢者でもある。少なくとも、偶然や”まぐれ”すら理解できない多くの投資家の様に愚者ではない。
以下では、まず「はじめに(=知識を真に受けてはいけない)」の後に続く「プロローグ(=雲に浮かんだモスク)」を参考に纏めました。
そこでは、一時的な投資家の成功を”運がいいだけのバカ”とタレブは糾弾するが、この事は歴史上の独裁者や超大国の大統領や長期政権の与党らにも当てはまる。
偏見にも聞こえるが、文系の人種にはノイズとシグナルを混同する傾向にある。つまり、私達は偶然についたインクの染みに人や物の形を見出すが、それを”雲に浮かんだモスク”と呟いたのは19世紀の象徴派詩人アルチュール・ランボーだ。偶然の中に詩を見た彼だが、キリスト教徒の奴隷商人に虐待され、梅毒に罹り、骨肉腫で右足を失い、19歳で詩をやめた。30代で死んだランボーだが、欧州のインテリ層は象徴が大好きな様だ。しかし、未だに私達はそのツケを払わされてるのだろう。
そういう私は、天皇という象徴に致命的なリスクを感じるのだが・・
プロローグ
一般的に言えば、私達は偶然が果たす役割を過小評価している。それは、無知であればある程に顕著になる。だが、不思議な事に科学が偶然(の確率)を扱える様になったのは、「科学の論理」で紹介した様にごく最近の事だ。更に、確率論の現実への応用なんて存在しないも同然だった。
科学論文によれば、お金の事でリスクを取る人は取らない人に比べて”妄想に浸り易い”という。これは、酷い結果になる可能性を過小評価し、楽観的になり自信過剰になる事を意味し、彼らがリスクをとるのは、大方偶然が見えてないからに過ぎない。
そこでタレブ氏は”偶然と必然”の関係を、”運↔能力、確率的↔確定的、信念・憶測↔知識・確信、逸話・まぐれ↔因果・法則、予測↔予言、運がいいだけのバカ↔能力ある投資家、生存バイアス↔市場に打ち勝つ、ポラリティ↔リターン、ノイズ↔シグナル、主観↔客観、帰納↔演繹”などと、誤解の一覧表を作った。
そこで、必然を偶然と勘違いする事があるだろうか?つまり、隠れたパターンやメッセージを見過ごす事はないのか?
まず隠れたパターンに関しては、複雑系やカオス理論らの助けを借りれば、前触れ(シグナル)などはすぐに見つかる。それに、必然(左側)を偶然(右側)と誤解した時に生じるコスト(損失)を考える必要がある。
つまり、必然を偶然と勘違いする時の損失は、その逆の勘違いで生じる損失程には大きくない。世間もいい加減な情報ならない方がマシだと思うだろう。
例えば、市場は運(偶然)を実力(必然)と勘違いする傾向が一番強い世界だが、運だか不運だかのせいで著者が大人になってからの殆どを過ごした世界だ。つまり、運と実力の違いを理解するに一番都合のいい実験室が経済活動の場とも言える。更に、人の営みの中で誤解が一番大きくて一番致命的な影響を与えるのがこの分野である。
儲けてる投資家は、その勝因を説得力ある掘り下げた説明をするだろうが、その殆どはインチキに近い。
私達が運を実力と履き違える理由の1つは物事を批判的には考えない事にある。2つ目に、人間の頭は確率を扱える仕組みにはなっていないし、その欠陥は直しようもない。
本書には目的が2つあり、ランダム性の(ノイズを光線の如く切り裂く)科学を守る事と、科学者が道を踏み外した時に攻撃する事だ。しかし質の悪い事に、科学者の頭は標準偏差を解る様に出来てなかったり、批判的志向が出来てなかったりする。
同じ様に、社会科学者は確率を正しく扱えないし、その事実を認める事すらできない。実際、科学者の皮を被ったインチキ営業マンの多くは経済学の分野に多いし、ランダム性を一番判ってないのもそういう連中である。
事実、この星の惑星には楽観派と悲観派の真っ二つに分かれ、前者は地方の大学で英語を教える様な連中で、「幸せを掴む20のステップ」とか「1週間でもっと良い人になれる」とかの本の著者だ。ルソーやトマス・ペインを信奉する彼らは、理性と合理性を信じ、人類がもっと賢くなれば、様々な障害を乗り越えられると信じて疑わない。つまり、”自分を変える事で幸せと裕福は簡単に手に入る”と思い込み、”健康に気をつければ健康になれる”と言ってる様なバカだ。
一方、その対局に悲観派がいる。
人類の考えや行動には限界や欠陥があり、それを前提として個人や集団の行動を考えるべきだとする。彼らはカール・ホバー(知性への不信)、ダニエル・カーネマン(直感に依る偏り)、チャールズ・パース(科学の可謬性)らを信奉するが、本書も悲観派の真っ只中に位置する。
確かに、人間の欠陥や不完全さはあまりにも酷く、直す事は不可能で、周りの環境に合わす事すらもできない。出来る事と言えば、何とかごまかす事くらいである。
従って、我々は理性(まぐれには騙されない)と感情(まぐれに簡単に騙される)の激しい葛藤を繰り返し、その中で上手く行ったのは、理性で感情を抑え込むではなく、感情を宥め透かすかして何とかやりくりする方法だけだ。少なくとも、人間らしさをなくそうなんて最初から無理難題である。
つまり、我らに必要なのはずる賢いゴマカシであり、仰々しい道徳的なお説教ではない。現代の行動科学が懐疑的実証主義を証明してるではないか。
著者の友人であるボブ・イエガーは、世の中には”簡単で明確な答えがある”と考える人と、”単純化すれば必ずどこかに重大な歪みが出る”と考える人に分かれると説くが、全く同感である。
これは”まぐれに簡単に騙される”という問題が、つまり物事は予め決まってると勘違いする原因は、物事の多面性を過小評価する事にも関係する。KISSとは”バカみたいに単純に”を意味するが、一番危ないのは”バカ”ではなく、”単純化”そのものである。
運がいいだけのバカ
事実、タレブ氏はプロのトレーダーの”成功が偶然に過ぎない”事を、統計ではなく理論を積み重ねて説明する。確かに、理論の裏付けなくして統計を使うのは間違いだが、その逆は間違いとは言えない。要するに、偶然による成功を実証する必要はないし、能力や努力以外の理由を説明するだけでいい。
つまり、投資家をデタラメに沢山集めれば、殆ど必ず誰かは運だけでパフェット並みの成績を上げる事が出来るのだ。”運を見方につけ、勝馬に乗れ”との、タレブ氏の言葉は格言にも思えてくる。
彼の名著「ブラックスワン」だが、黒い白鳥が暗示する―滅多に起きず思っても見ない時に起きる異常事態は、良い方に異常である事も悪い方に異常である事もありうる。異常が全て悪いと言ってる訳でもない。
一方、ランダムさの確率とリスクを把握する枠組みは沢山あるし、事実、そうした類の著書も沢山売られている。一口に確率と言っても分野が違えば意味も異なる。丁度、確率論で言う”測度”が異なれば、その積分値(期待値)も異なるのと同じ事だろう。
この本で扱う確率は、数的で科学的なものではなく、質的で人文的なものだ。少なくとも、本質的には懐疑主義を応用したものであり、数学や工学の一分野ではない。それに確率を数学的に扱おうとすれば、凄く大規模になるが、そうした確率解析周辺の話は、その多くが脚注に書く程の事でもない。
つまり、ランダムさの確率とはサイコロの目や複雑な変数のオッズを計算する為ではなく、偶然に対する私達の無知を認める為に作られた方法(道具)に過ぎない。事実、現実世界では正解よりも問題そのものを推測する事の方が圧倒的に多いのだ。
例えば、金融市場ではランダム性が重要な役割を果たし、しばし市場の変動や投資家の成功を左右する。だが、人はこうした動きを予測する能力を過大評価し、コントロールできるという錯覚は投資家に、現実以上に市場の結果を予測できると思わせてしまう。事実、市場の動向を正確に予測するのは非常に難しく、不可能に近い。こっれは市場の動きにはランダム性が大きく影響し、予測不可能なものを過信して予測する事の危険性を示唆している。
一方最近では、サイレント・エビデンス(沈黙の証拠)という概念が注目されつつあるが、これは容易に明白になったり認識されたりする事はないが、成功と失敗の理解を劇的に変える可能性のある情報や結果を指す。
例えば、新規企業の成功の可能性を評価する際、こうした”沈黙の失敗”が考慮される事は殆どない。従って”沈黙の証拠”は私たちが見ていないもの、つまり目に見えない要因が現実の認識に与える潜在的な影響について考える重要性を私たちに気づかせてくれる。
タレブは、レバノン出身で金融業界のトレーダーであり、同時に大学でも不確実性の科学を教えている。帯の文句には”ウォール街のプロが顧客に最も読ませたくない本”とあるが、事実、その系のメディアから散々な目に遭わされたという。
この本は、ランダムな世界に潜むリスクに対して、思い上がった人間達の愚かさを痛烈に批判する。トレーダーでもある著者は、それを身をもって体験してるが、自身も博士号を持ち、MBAでもある。そうした高級な教育やキャリアが人間の傲慢さを矯正するどころか、増長させてる事を繰り返し指摘する。
副題からして、経済活動や金融市場におけるランダム性の事を書いてると思いがちだが、全14章のうち、それらしき事を書いてるのは最初の2つの章に過ぎない。
ランダムさに潜む歪みと非対称性なゆらぎ
以上、私のブログでは心もとないので、「タイム・コンサルタントの日誌から」で紹介された書評を紹介する。
投資家が完全な情報を有し、”適切に予想された証券の価格は正規分布的なランダムウォークを辿る”とは、経済学者サミュエルソンが1965年に証明した有名な定理であり、その後の金融理論の基盤となった。
この定理では”市場価格の平均値と変動の幅を予測する事が可能だ”と主張する。だが、それが本当なら、なぜ金融界はあれほど酷い乱高下やショックをしばし経験するのか?なぜ標準偏差の10倍もの変動が1日に起きたりするのか?理論によれば10の24乗年に一度しか起きない頻度の筈なのに・・
タレブは、”この世の事象には今の標準理論では予測し難い偶然性がある”と主張する。確かに、確率的なランダム性があるのなら、1度や2度の短期的な結果で、ビジネス戦略のパフォーマンスを評価するのはおかしいし、僅かなサンプル数で成功の秘訣を理解したと思うのは馬鹿げている。
そうした事に気づかず、自惚れている奴は”すべからく愚かだ”と、国や歴史を超えて該博な例証をあげ、そうした愚者たちを“まぐれに浮かれてる”と冷笑するが、実に痛快で爽快でもある。
彼はその例として、伝説の投資家ジム・ロジャーズの発言を引用する。”私はオプションは買わないし、オプションは90%の割合で損のまま行使期限が切れている。オプションを買うのは貧乏人への近道だ”と、この論理のどこがおかしいのか?
まず、オプションを買うと90%が損になるとして、損をしなかった10%の時にどれだけ儲かるかを考えないと、この論理には意味が無くなる。事実、タレブは'87年の大暴落(ブラックマンデー)の時に、まさにそのオプションで大儲けし、トレーダーとして名をあげた。彼は、希にしか起きないが振れ幅の大きな”非対称なゆらぎ”の仮説に賭ける人間なのだ。
逆に、タレブが賢者として挙げる例は、確率論の中核を理解し、リスクに備える人々である。例えば、ある友人と一緒に夕食をとり、勘定をどちらが払うか?硬貨を投げて決めたとする。私が負けて支払を済ませた時、友人は”有難う”と言いかけ、”いや、ぼくも確率論的には半分支払ったんだぞ”とつけ加えた。
これこそがリスクに対する正しい態度である。予測し難いランダムな事象がある時、確率を想定し、その確率を織り込み、期待値(期待コスト)を自分で抱える。そして、個別の結果には一喜一憂しないし、誰かのせいにもしない。
それこそがプロとしてのプライドであり、タレブ氏のテーゼでもある。
この様な性格は、レバノン人が20世紀に辿った運命を考えると少しは理解しやすくなる。”中東の宝石”と呼ばれ、優れた知的文化と伝統を誇りながら、大国同士のチェスの駒として内戦に巻き込まれた地中海東岸の小国。
彼らの多くは運命に翻弄され、故国を脱出し、ただ己の知恵と才覚のみを武器に湾岸諸国や欧米で生き抜いてきたのだ。
最後に
本書は全14章を大きく3部に分け、特に第1部では”ソロンの戒め”を振り返り、歴史の見えない部分と稀な事象(黒い白鳥)について詳しく検討する。
特に、ソロンの”運で得られたものは運で取り上げられる。逆に、運の助けを借りずに得たものは偶然に左右されにくい”の言葉は「帰納の問題」を示唆してくれる。つまり、どんなに成功する確率が高くとも、失敗した時の損失が大きすぎれば可能性の高さなんて関係ない。
第2部では、著者がランダム性の研究で度々苦しめられた、確率に関する誤った認識が列挙されてるが、現代の合理性の時代以前には、私達がよく経験する間違いや運命の大逆転に対処する秘訣が文化の中に根付いていた。
昔の人たちは現代人が思う以上に、ずっと思慮深かったのだ。
数冊の専門書を読んだ気がする
転んださんは
数学は文学であるべきだって言ってたけど
なんとなくわかる気がする
当り前の事を書いて
それが偶然ベストセラーになる
目に見える世界って
そんなレヴェルなのかな
成功も偶然もあれば必然もある。
大きな成功ほど偶然が支配するのですが
”失敗の数だけ成功に近づく”というのが真っ赤なウソだと判っただけでも
この本を読んだ価値があると思いました。
私達は先人の知恵や格言や諺に加え
子供の頃に教えられ、叩き込まれた価値観や常識が如何に偏見に満ちているかを
今一度考察し直す必要があります。
見えない過去や起きなかった歴史を振り返る事こそがリスク回避に繋がり
リスクをタスクに変える大きな機会となるのでしょうね。
知覚の鋭さっていうのも
成功の大きな要因になると思う
少なくとも
日本人が好きな経験値というのは
大方は当てにならない気がする
学力や教養は勿論、知能や知覚を含めて判断するものでしょうが
小さい頃にレバノン内戦を経験し、生き延びたタレブ氏は直感や知覚に優れた賢者だと思います。
そういう人に幸運のブラックスワンは微笑んだという事でしょうか。
でも、経験を未だに優先する日本人にはとても勉強になる一冊だと思います。