象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

「野球とニューヨーク」その5〜ベーブ•ルースの登場とドイツ移民の台頭

2018年04月16日 06時34分21秒 | 野球とニューヨーク

 大谷の活躍で、野球に注目が集まってるような感じがします。ベーブルースカテゴリにもアクセスが集まりだし、嬉しい限りですが。この”野球とNY”にもアクセスお願いです。


 その4では、NYヤンキースの前身であるハイランダーズの誕生を述べました。さて、この新星NYハイランダーズ(1903〜1912)ですが。追い風が吹きます。1911年に、3万近い収容を誇るポロ・グラウンズが火事で消滅。ここにてジャイアンツとヤンキース(ハイランダーズ)の立場は逆転。”悪の巨像”ジャイアンツは球場が出来るまで、ライバルで新規のヤンキースに頭を下げて球場を使わせてもらうしかなかった。

 しかし、1913年今度は、新ポログラウンズが建設されると、今度は、前年に本拠地のヒルトップパークの契約が切れたヤンキースが、逆にポログラウンズを借りる羽目に。運命とはかくも奇なりですな。 

 新ポログラウンズの収容を3万3千から5万4千に増やし、経費も掛かったが、留守の間にヤンキースに貸す事でその経費を埋めるも。1922年までの貸出の10年間は、皮肉にもヤンキースの方が人気があり、多くの客を集めた。

 
 しかし、このヤンキースのオーナーのフランク・ファレルも賭博場の所有者で、タマニー派と同じ腐敗した人種ではあったが。メディアへの対応は一変し、暗黒のイメージから”スポーツに理解あるオーナー”というクリーンな印象に塗り替える。

 ファレルはスポーツのあるべきイメージを上手く利用し、賭博から手を引き、野球に時間を割く様になる。彼の健全で善良なイメージが、ダーティーな印象を覆い隠し、評価を変えるという典型である。

 ファレルもジャイアンツのマグロー監督も、フィラデルフィアのコニーマック、シカゴのコミスキーもアイルランド系移民で、大都市に生きた時代の寵児となった。

 
 1922年のシーズン終了後、ポロ球場から追い出された新星ヤンキースは、ブロンクスの最もマンハッタン寄りの161番通りにヤンキースタジアムを建設。因みに、ここでトリビア。スタジアムという言葉が球場で使われたのは、これが初めてという事で。

 1923年4/18の開場初日、7万2千のファンで埋まった。勿論目当てはベーブルース。ヤンキースはジャイアンツから受けてきた長年の敵視・侮辱•いじめ•嫌がらせをルースが放つホームランで吹き飛ばした。球場経営は立地よりも、スター選手の価値に負う事が、はっきりと証明された瞬間でもあった。

 その上、ジャイアンツはこの年のワールドシリーズでヤンキースに敗れ去る。それもポロで3連敗。ルースを手に入れたヤンキースは、ここにてジャイアンツに対し、はっきりと優位に断った。つまり、”ルースはマンハッタンよりも大きかった”のだ。

 ルースはヤンキースの救世主だけでなく、野球界全体の救世主となった。ベースボールの商業路線を決定的なものにし、ホームランが客を呼ぶ最大の武器である事を証明したのだ。

 ”ヒーローは逆境の中から生まれる”とはよく言ったもんで、ブラックソックス事件があったればこそ、ルースはその闇を背景にし、更に輝く事となる。大リーグはホームランの時代に突入し、いよいよ”金塗れ”の体質を色濃くした。


 ルースとゲーリックがドイツ系移民というのは有名な話だが、ルースが生まれ育ったボルチモアもドイツ移民の街だった。ハーマン・ルースのハーマンは”ヘルマン”であるし、ゲーリックはゲーリングか。
 その上、ドイツ系のヤンキースとアイルランド系のジャイアンツという縮図も対抗心を掻き立てる。


 マンハッタンに君臨するジャイアンツは、同じナリーグのドジャースとも対立していた。事業経営の成功の鍵は”天の刻•地の利・人の和”と言われるが。ヤンキースはルースを手に入れ、”天の刻”を得た。ジャイアンツはマンハッタンという元から持ってた”地の利”に縋り付き、ドジャースは全米一熱狂的な、ブルックリンのファンという”人の和”に恵まれた。


 新しくドジャースのオーナーとなったチャールス・エベッツは印刷業で成功した人物で、1913年にワシントンパーク(1898〜1912)から、ブルックリンのエベッツ球場を本拠とした。中々のアイデアマンで、野球と印刷物を結びつけた最初の人でもある。

 この新エベッツ・フィールドだが、エベッツは元建築デザイナー志望という事もあり、鉄筋コンクリの2万5千収容の豪華な新球場を、当時"Pigtown"と呼ばれていた、ゴミ捨て場跡地に建てたのだ。

 それ以外にも、彼はユニークなアイデアを野球界に寄与する。雨天で試合が中止した際のチケット払い戻しの制度を、またマイナーの選手を昨シーズンの順位の下位から指名するドラフト制度を。また選手の”背番号”制度の導入を早々に提案した。


 しかし、タマニー派の迫害で近くに鉄道駅がなかった。そこでエベッツは、路面電車(トローリー)の駅を設置し、チーム名もトローリー•ドジャース(1911〜1912)にした。”トローリーをヒラリと躱すブルックリンの人達”という意味ですが。何だか弱々しそうな名前ですな。いよいよ、野球とNYも終りに近づきます。



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