象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

自殺と特攻〜「永遠のゼロ」に見る、三浦春馬の鋭利な才能と希薄な運命

2024年05月30日 03時33分06秒 | 映画&ドラマ

 感動の映画と言うよりも、演技を超えた素の三浦春馬に憑かれたままだった。

 ”何があってもどんな事があっても、生き続けろ”
 終戦間近に特攻隊員として散った宮部久蔵(岡田准一)の言葉が、宮部の孫である佐伯健太郎を演じる三浦春馬の耳に届いてるかの様にも思えた。
 勿論、抜群の操縦センスを誇る特攻パイロットの宮部を演じた岡田の演技も見事だったが、私には最初から最後まで三浦春馬に憑かれたままだった。
 そういう私だが、彼の事は30歳という若さで急逝して初めて知った。故に、俳優としての彼を「永遠のゼロ」(2013)で初めて知った事になる。


三浦春馬と「永遠のゼロ」

 第一印象は、巷で言われてる様な才色兼備や容姿端麗などではなく、完全で鋭利な才能を持つが、脆さを含む繊細な役者さんに思えた。そして、その印象は最後まで変わらなかった。
 特に印象的だったのは、三浦演じる佐伯が合コンの場で、”特攻って所詮は自爆テロみたいなもんだろ”と友人から誂(からか)われるシーンだ。
 特攻で命を捧げた宮部を祖父に持つ佐伯だが、”特攻は自爆なんかじゃなく、航空母艦を撃沈する為の作戦だ”と、顔色1つ変えず冷静に言い放つ。
 個人的にはだが、もう少し感情的かつ感傷的に声を震わせてもよかったのではと思った。が、もしこれが計算され尽くした演技だとすれば、彼は100年に1度の天才俳優である。
 多分これは憶測に過ぎないが、素の三浦春馬なのだろうか。

 因みに、三浦の祖父も元特攻予備兵だったが、検査で引っかかり、特攻パイロットにはなれず、悔しい思いをしたという。が、それがバネになり、最後には校長にまで上り詰めた、典型の努力家である。
 こうした血縁の事実も、映画の中で素の自分をさらけ出す大きな要因になってたであろうし、俳優としての自分を持する大きなバックボーンとなった事は想像に難くない。

 「永遠のゼロ」は観客動員数700万人、累計興行収入86億円を記録したメガヒット作品である。だが私には、こうした感動巨編を心ゆくまで堪能するどころか、三浦春馬という人間とその希薄な運命が気になって仕方なかった。
 彼の死因は自殺とされるが、今でもその真相は謎のままだ。ただ、映画の中での彼を見てると、自殺の線も十全にあり得ると感じなくもない。

 ”散る事を見据え、どう過ごすべきか”との言葉で始まる彼の手記には、”自分の命と向き合う”事の大切さが様々に散りばめられている。
 特に、2018年の手記にある”僕の人間性を全否定する様な出来事があり、鬱になり死にたいと思った”との切迫したメッセージは、その象徴たるものだ。
 事実、死の4年前(2016)、三浦は携帯電話の番号を変えていた。理由は”親と縁を切る為”である。親には番号を伝えないよう釘を刺された。それまでは、実母や実母の再婚相手である継父との関係は悪くなかったのに、2人が金銭トラブルを起こし、三浦のプライベートに過度な介入をした為に、連絡を絶ったとされる。

 家族という大事な部分に歪みが生まれ、徐々に精神的に不安定な様子を見せはじめる。この頃から、彼の人生プランが狂い始めたのは想像に難くない。
 噂では、継父が自分を通さず、事務所に対し度々お金の無心をしたりと、そんな黒い噂が事務所や業界でも知れ渡ってたとの声もある。一方で、愛人との破局も噂された事もあったが、これに関しては信憑性は低いとされる。
 因みに、三浦の両親は彼が小学生になってすぐに離婚し、母が息子を預かるが、実父との関係は生涯を通じて良好だったという。事実、三浦が急逝する直前にも実父と会っている。
 その後、実母は彼が中学生になる前に元ホストの男性と再婚するも、2013年に再び離婚。その後は上述の通りだが、三浦が芸能界で売れるにつれ、実母の生活は派手になる一方で、2017年には母親との縁をも切ってしまう。

 
最後に

 私たち庶民には想像もつかない、芸能界の深くて複雑でかつ黒い闇だが、ありとあらゆる噂が蜷局を巻き、容赦なく若き卓越した才能を食いつぶす。芸能界という所は”出すぎた杭”も叩かれるのだろう。
 三浦春馬の急逝を美学で語る為には、同じく若き特効パイロットが国の為に命を捧げた運命とをダブらせる必要がある。 
 ただ、「永遠のゼロ」では宮部の孫を演じた23歳の三浦春馬には確実に見えていた”死への抗い”が、その数年後には”生への抗い”に傾斜していく。
 一方で、この作品では、家族を愛するが故に、生き延びる事への拘りを捨てきれなかった宮部だが、最後には特攻に志願し、”生への拘り”を捨ててしまう。若い特攻兵の命を救いきれなかった後悔なのか?それとも”生への抗い”なのか?

 少なくとも三浦春馬には、元特攻兵候補だった実の祖父の姿は見えていた筈だ。その祖父は生き延びた事で校長にまで上り詰めた。だが、孫の三浦はまるで若き特攻隊が芸能界という巨大な空母めがけて、散ったかの様な結果となってしまった。
 一方で、家族との縁を切った三浦には、既に頼る者はなかったのだろうか。
 映画の中で宮部は、死に急ぐ若き特効予備兵に”君には愛してくれる者はいないのか?”と問い詰めるシーンがある。あの時の死に急ぐ若者が三浦だったら、何と答えただろうか?
 愛する者を、頼る者を失ったが故の自殺だとしたら、これほど虚しい事もない。いや、それでも生き続けるべきなのだろうか。 
 答えは、当然”イエス”だと思いたい。
 つまり、生きてるという事はただそれだけで素晴らしい事なのだろう。

 ただ、映画の中での三浦春馬には、生への拘りが浅薄にも見えた。その脆く崩れやすい鋭利な生命力には、生きる糧は何も残ってない様にも感じた。
 だが、所詮生きるという事は”死への抗い”に過ぎない。更に言えば、生きる事は死ぬ事でもある。
 「永遠のゼロ」には、三浦春馬の運命の全てが描かれていた。ただそれだけは言える。



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