出版エージェントのアランは、ヨーロッパから帰国した父ニルスと数年ぶりに会った。ニルスはアランと稀覯書愛好の友人に、パリのアメリカ人夫妻を描いた短編を読ませる。
文体から著者を推定した二人は興奮した。入手経路は明かさずに”1922年パリのヘミングウェイ原稿盗難事件”を匂わせたニルスは、短編は全部で20編あると言う。
ヘミングウェイ学者も巻きこむスリリングな長編(GoogleBookより)。
本物か?贋作か?
それとも、単なるイタズラか冗談か?
ロスに住む大金持ちだが、売れない作家のニルス。自らの才能を信じ、自らを神と崇める哀れな老人の物語だ。
このイタズラ好きの抜け目ない老作家は、ヘミングウェイの初期の未発表の短編を出版しようと目論む。勿論、その作品が本物なのか偽物なのか?それとも単なる模倣なのか?は全く解らない。
しかし、長く大手の出版社から蹂躙されてきた老人にとっては、これは復讐であり、一発逆転の大博打でもあった。
事実、1922年に彼の短編原稿が入った”ヘミングウェイのスーツケース”は盗まれてたのだ。
老作家はこの事実を出版社に匂わせながら、彼の計画を息子である著作権代理人のアランと、その友人でもあり古本商のウルフを巻き込み、読者をも迷路の中に陥れてしまう。
やがて、アランとウルフは贋のオリジナル原稿を模造するうちに、本物と偽物の区別がつかなくなる。
本物と贋物の価値の差は何処にあるのか?
この作品では、"オリジナリティーの曖昧さ"と"アイデンティティの脆さ"という問題を浮き彫りにする。
勿論、贋物であろうが模倣であろうが、そこに創造性が見出だせれば著作物としては認められる。しかし、ヘミングウェイを知る専門家たちの大半は、この原稿が本物であると確信する。
当然それが本物であれば窃盗罪、贋物であれば詐欺罪だ。そこで、老作家のニルスは著者名は明かさず、自分が編集した短編集として出版に漕ぎ着ける。
結果、100万ドルの前金が転がり込み、評価も評判も上々、売れるのは時間の問題だ。
さて、この作品の登場人物は全てが原稿同様に如何わしい。
ニルス家はスウェーデン移民で、アランとウルフの妻はユダヤ人。ニルスの愛人チャーミアンはベルギー人で、彼らは皆アングロサクソン系白人という正当なアメリカ人ではない。
こうしたネオ的準アメリカ人が、実は本物のアメリカ人であり、この曖昧さが現代のアメリカを物語る。
つまり、模倣こそが本質であり、ヘミングウェイはヘミングウェイに成り切る事で杞憂で偉大な作家となり得たのだ。
"ヘミングウェイの紛い物であるが、ヘミングウェイ以上にヘミングウェイらしい"という著者であるマクドナルド・ハリスの自負と怨念が、この作品全体に込められてる。
実は、この悪戯大好きのニルス老人。
デブでエゴで、アホか天才か判別し難いが、女心を骨抜きにするカリスマ性を持つ。
この老人のこのユーモラスな二面性が、本物と贋作の境界を曖昧にする。
彼は、"創作作家というのはその作品の中で神になる"とし、現実の世界でも神を演じる。
あまりにも滑稽で一笑に付しそうになるが、この裸の王様は小説の真髄を実に心得てる。
”現実は小説よりも奇なり”ではないが、この姿勢は栄養失調気味の現代文学には最も大切な事ではないかと、訳者の國重純二氏は指摘する。
全く、Mハリスの悪戯と冗談が満載の世界に思わず見とれてしまった。
以上、私(象が跳んだ)のアマゾンレビューから抜粋でした。
模倣が模倣を超える時
必要経費を申請するには、5年間のうち3年間は黒字でなければならない。それ以外の創作活動は、単なる趣味とみなされる。
つまり、芸術は利益を上げる商売になり得て、初めて仕事となり得る。故にどんな傑作も売れなければ、単なるお遊びなのだ。
この作品の主人公であるニルス老人は、本物と贋物、否定と肯定、成功と失敗を同じ天秤で考えれるという点では、正真正銘の天才ではある。
この老人の人生は贋物だ。彼が書く小説も、有名な作家のワープロのコピーである。そして、彼が開いた盛大なパーティーもやはりお芝居に過ぎなかった。
しかし、彼が持ってるスーツケースは本物だし、彼が持ってるモノの中で唯一の本物だ。
作家はフィクションの中で神になる。作家は世界を創造し、感覚だけでなく感情も知性も備えた生き物を、そこに棲まわせる。
つまり、作家は現実の中にいながら、フィクションの中でしか生きられないのだ。
想像力のない奴は外側から人の苦しみを見つめたがるが、想像力のある奴は苦しみに自らを巻き込んでいく。
つまり、想像力に欠ける民は傍観者という安全で有利な地点から、他人の苦しみや歓喜を冷静に眺めながら、単調で味気ない人生を過ごす。しかし、そんなのは”生きる”ことじゃない。生きるとは想像力を駆使して、人生というギャンブルに巻き込まれる事を言うのだ。
確かに、ヘミングウェイの模倣者は多いが、彼の真髄を真似る事は出来ない。
ヘミングウェイの世界はヘミングウェイの観念だ。彼はそれを自分の思索で作り出した。そして、僕の世界は僕の観念である。
もし正気でいたけりゃ、自分で自分の世界で信じるしかない。
ニルス老人は、ヘミングウェイにはなれなかった。しかし、フィクションの中でヘミングウェイのスーツケースを盗み出す事は出来た。
そして、その妄想の中で生み出したヘミングウェイの短編小説は、現実の世界に舞い戻り、今や本物のヘミングウェイになりつつある。
この作品の幕切れは忘れてしまったが、424ページもある長編を書いたマクドナルド・ハリスは、この作品を読んだ人なら理解できようが、これだけの才筆を持ちながら、不遇の作家とも言える。
故に、ヘミングウェイになりきる事で、いやニルス老人になりきる事で、その鬱憤を晴らしたかったのだろうか?
贋物を本物に見せかけ、やがて本物を超える。模倣が模倣を超え、本物を超える時、我々は模倣をどう評価すべきなのだろうか?
いい響きですね。
マルドナルド・ハリスの文筆はかなりのレベルで、ヘミングウェイの研究者でも瓜二つの文体に感心してたらしいです。
でも、売れる為にはいろんな要素が必要なんですね。ブログも同じ事かもしれません。
転んだ先生もそれだけの才筆を持ちながら
不遇のブロガーといったら失礼かな
では👋👋
数学も”継承は想像なり”という言葉がある様に、模倣こそが現代数学を大きく進化させたと言えます。
模倣に関してはバルザックやゾラも述べてますが、中世ヨーロッパには才気溢れる模倣画家が多かったようです。むしろ彼らこそが芸術を支えたと。
こちらこそとても勉強になります。
短歌では昔から本歌取りといって元歌を真似て作る手法があります。人の歌をそのまま出せば、盗作といわれて歌人生命を失いますが、本歌取りは奨励されます。それは、元歌の内容を取り込みながら更なる世界を展開することができるからです。しばしば本歌より優れた歌ができることさえあります。それでは楽して名歌を作ったかというと、必ずしもそうだはないのですね。やはりかなりの力がないと、本歌を超える歌は作れないからです。
今日の贋作の話から短歌の本歌取りのことを連想してしまいました。